はじめまして。ようこそ、私のホ−ム・ペ−ジへ。
御訪問、いただき、ありがとう・ございます。
稚拙な、文に・古い写真や記録も多く御覧頂けて、感謝。

『MCS』は、私の主催する登山・山岳環境
を、舞台として活動する「プロ・ガイド」として

の『スク−ル』を、表す名称です。
Mは、マウンティニアリング。

Cは、クライミング・コ−チを表し。専業のプロ・ガイド

国際山岳ガイド連盟・認可のライセンス習得までの、いわば私のガイド候補生・修業期間には(C)を、ガイドまでの、コ−チとして、今で言うアウトフイッタ−やインストラクタ−にも、技術を指導できる、プロを表していました。

Sは、当初はスク−ルと理解される、事も多かったのですが私自身は活動・開始、時期より「サ−ビス」と考えて、います。

【MCS】マウンティニアリング・コ−チ・サ−ビスの意味を、変えれたのは21年前から。山岳プロガイドとして活動を本格化させ、8年間のコ−チ業務から、経験を充分に積み上げてガイド講習に参加される方達に自分の職業を、文字通り証明する為の、自信が持ててからです。

【MCS】マウンティニアリング・クライミング&キャニオニング・ガイド・サ−ビス(スク−ル)

登山と訳される「マウンティニアリング」を初期から、使用していたのには大きな意味がありました。山・登山・それらを取り巻く、様々な「自然」での、本物のプロガイド活動を目指しています。

クライミングだけならば、クライミング・インストラクタ−と、称するのが妥当でしょう。ハイキングの引率ならばトレッキング・ガイドの名称の利用が、適切だと私は考えています。

偽・医師ならば法的に罰せられるでしょうが、偽ガイドには現状では、何ら罰する方法が見出せません。
自称で、誰でもが山岳ガイドと、名乗れます。ガイドを目指して、修業期間を過ごす事も無ければ。
他の職業から、転職して。もしくは、兼業しながら「プロガイド」と、名乗れるのが私達には不思議です。

1954年「福岡県」生まれ
兵庫県・西宮市で育ち。日本山岳ガイド協会

所属。国際山岳プロガイド
国内、初のクライミング・インストラクタ−として活動を開始。プロガイドとして、活動を発展。

国内初・最も初期からの「バリアフリ−活動」の実践者として、社会的にも広く知られている

国内・初。キャニオニングの第一人者として知られている。オリジナル・ジャンルでの活動と、プロとしての社会貢献・活動により、全国的に活動が知られ、講演会・要請にも積極的に応えている。

『本物の、山岳プロガイド(プロフエッショナル・アルパィン・クライミング・ガイド)』を、目指し。クライミングと総合的な、アウトドア・スポ−ツの知識と技術を学ぶ、為に10代より海外・渡航。収入を得るために、15歳より・様々な業種での「アルバイト」や、業務で働く。工芸系・手技に少しばかり秀でていた。才能を評価されて、海外・修業の機会も得られた。フリ−タ−増加と、呼ばれる『現在』30数年、前から『意思と目的』を持ってアルバイト関係の職種・業務、多数を実際に体験、そういった経歴が最近では、各種『教育関係』から、注目を集めているのが面白い。
北の辺境地での、70年代・当時としても、かなり珍しい『ファ−ム・スティ』環境で『羊飼い』に従事。
BMC(ブリティッシュ・マウンティニアリング・C)主催の『登山学校』と、スコットランド・フォ−ト・ウィリアムスでの『マッキネス・クライミング&レスキュ−・プログラム』に、日本人(東洋人)初・入校・講習、初参加。

『フリ−クライミングもボルダリング』も、まだ充分には、日本国内で活動している、クライマ−にも理解されて、いなかった。当時の体験を帰国後にフィ−ド・バッグさせる『場所』や仲間は、少なかった。

国内『初』の、クライミング・インストラクタ−を表明して、地元『関西・神戸』の岩場で活動を、開始した時には、時に失笑。偏見に満ちた、視線や言葉を『堡塁岩』で、投げかけられも・した。
チヨックの使用も、まだ珍しく。積極的にクラックのル−トでプロテクションに、それらのギア類を使用するのにも、そんな危なそうな用具を使って・・・云々と批判される事も、多々あり。今から、思えば信じられないだろう・・・何事も、最初は苦労する。

ヨ−ロッパ・タイプの『アルパィン・ガイド』とは少し異なるスタイルとクライミングに対する、モデルから得て来た理想が、私には・あった。
『山案内人』とは、違う職業スタイルを夢見ていた。中途半端に生きる、ならば生き易かったかも知れない。
しかし、それでは、目指す価値が失われると恐かったのが事実。人とは違う、生き方や目標を持つ、自力で拓く「山」と「人生」を考え続けていたから。

帰国後に『神戸・範囲』で定住・活動を続けなかったのは、フィ−ルドが狭過ぎた、と言う物理的な面とは別に「人」の狭さや、クライミングに懸ける情熱を、共感・共有する仲間が極端に少ないと、私が感じていたから。そう言った意味で「穂高岳」は、様々なレベルや世代、層に積極的に大きな「岩場」を目指し、上がって来る環境として、当時の私の心に、最も共振する『場』では、あった。

関西範囲で知りえる「中」に、私の将来を夢見・描く理想像としての『プロ』は、残念な事に誰・一人、範たるべき先輩を見つける事が、出来なかったのが。もう一つの理由でもあった。不遜を承知で、当時・私は見本となるべき『プロガイド」を知らなかった。それが、関西という『地』だったから、なのかは判らないが、人の成長過程には『範たる人物』との、出会いは必要だ。

涸沢時代には、様々な「物」を頂いた。
当時としても、貴重品だった『フォ−レスト』の、最新アイス・ハンマ−や。とても高価な日本刀の様な、アックス。

うちの居候・達もガリビ−エ−ルのRD(登山靴)や、羽毛シュラフを下山時に頂戴した連中も、多かった。
私は、コッフェルからスプ−ンに水筒まで、何かキャンプ生活・必要品は森先生と故・長谷川さんから、殆ど頂いて生活している様にも、今から思うと。世話になっていた。その中でも、一番・今から振り返ると、うれしく。そして希少・貴重な『物』は、やはり、この『本』だと、気が付いた。
当時の涸沢までの重荷の歩荷(ボッカ)は、誰でも辛かったから。たった一冊の本でも、担ぎ上げて来るのには、理由や動機が必要だから。決して軽くも無い。
何時もの様に、我家の(特大・天幕)の中で、軽く酔いながら、裏表紙に自筆のサインを書いて、手渡してくれた。丁度、知り合って5年目だ゜ったろうか?

『三顧の礼』さながらの、好意を受けながら。私は、その申出に応えれなかった。
長谷川さんが、引率していた集団の上空を、ギリギリの高さでパラ・パントで飛び越えた時にも。パノラマ・ボルダ−で若い連中とボルトを打っていた時にも。滝谷で、ガスの中で、真横のル−トで挨拶を交わしている時にも、故・長谷川さんの笑顔は変らなかった。奥様と、ガイド山業を追えた後に、わざわざ私の天幕まで立ち寄って、何時もと同じく、入れよな・そんな風に気に、とめていてくれたが。協会には加わらなかったそんな、頑固な私にも様々な機会ごとに、誘いを頂いた。宝剣でも、三ツ峠でも、谷川にも富士山や小川山企画の際にも、関西から唯一・私をプロガイドとして招待・講師として要請して頂いていた。

時折。故人との面識も無い輩が、自身の虚栄心を満足させたいが為に、嘘も平然として山で話題としているのを聞くと。本人と出会ったことも、直接に話しをした訳でもないのに、何かと論評めかした事を喋っている。知りもしないでとは・思うが・私は無視して会話の中には加わらない。
特に、関西のクライマ−には出会う機会も、少ないだろうし。交流の関係者の中に加わる資格も、無い様な世代やジャンルのクライマ―ほど、知ったかぶり。そんな連中が多い。共に、酒を酌み交わしてもいず、共に夜を過ごしてもいない。ロ−プで結んだ友情も無ければ、先輩、後輩の関係では在り得ない。雑誌で見知った情報で、個人のクライミングならずも、人間性や性格を云々する。

有名人と言って、しまえば致し方の無い、事なのだろうが。古いタイプの『山屋』には、感覚が違うと思えて仕方が無い。岳兄の広瀬氏は、長谷川さんの直・弟子、格のクライマ−だが、以前にヒユッテで二人で雨宿りを、していた時に、長谷川氏の話題からクライミング界まで中々に交友関係の広い、話題で盛り上がる一団と遭遇。面白いので、しばらく黙って聞いていると、私は後輩で広瀬氏の名前は出て来るは長谷川は、俺の仲間だとか・・・あまりに、馬鹿らしかったが、二人して、更に我慢して拝聴。これは、あまりにも面白過ぎると、キャンプ場に戻って、本人(長谷川氏)を迎えに、行こうかもと考えた程だ。オチは、広瀬さん、と私が「オレだ」の一言。こういった輩は、穂高・意外にも、やたら多い。堡塁岩や不動にも、いたな。


最近も、私の名前を関西の某・岩場で利用しているガイドと名乗る者が表れたらしい。倶楽部の名前も平然と利用されているとも聞く、同じ用に『キャニオニング関係』でも、嫌な話題を聞き及んでいる。関西での活動期間よりも、他府県や海外での生活や活動が、時間的に長かった筈なので『六甲山・範囲』や芦屋ロック・ガ−デン等で私の話で、仲間や先輩と言う表現を使用している人は、まず『嘘をついている』と判断して、まず間違い無い。先輩は、現在のクライミングから遠のいているし、仲間も今は山に来ない。

『関西・山と渓谷』社・近刊・紹介
『自立心』や、独力。そういった感覚での強さを持たない者には向かない『職業・生き方』なのだから、故・長谷川氏は3度目の、私への説得・誘いを終えてからは、暗黙の了解の様に、私に協会への加盟や氏が主催する『ガイド事務所』への勧誘も、控えてくれた。
オリジナリティ-やクライマ-としての個性も、認めてくれた事が当時は、うれしかった。
同じ、時期に若手のクライマ-が何人も、事務所に加わり、そして袂を分かれる様に自立して行くのを見ながら。最初から自立・独自の方向を一人で、頑張って生きた事が、自分なりには正しかったと感じていた。
最近、出版された関西・山と渓谷・社の『六甲山』特別号の、六甲山の歴史・記述部に友人のライタ-が先輩から情報・提供で紙面に出してくれた
『写真』神戸登攀倶楽部のメンバ-として、開拓初登。壁から降りて来た時の、当時の貴重な記録写真。(右端が私)
左から二人目が、尊敬する先輩の『金山洋太郎・氏』穂高・涸沢でのガイド修業時代には、骨は拾ってやる感覚で精神的に支えられた恩義を忘れられない、文字通り懐の大きな先輩クライマ-。現在も過激なワィルド・ウォ−タ−系とバックカントリ−のスキ−遊びで大活躍中。食のウンチク・知識と腕前も一流。
『当時、アルパイン・ガイド協会の代表者として活動を始めていた長谷川・氏からは、プロガイドたる覚悟や自尊心を学んだ。
同時期に岳兄からの縁や、長谷川・氏からの紹介で穂高で知り合えた、森老師からはガイドたるべき人格への、指針を学んだ。登るだけが上手いなら、猿の方が、まし。
フリ−クライマ−『日本の10人』に選ばれた頃の『インタビュ−&アンケ−ト』
人の英知も勇気でも克服できない環境や大自然の前では謙虚で、真摯な態度が必要。ガイドは人の命を預かる職業

『理念と理想』を持って、従事しなければ・ならないと思っています。
1970年代
ロング・トレイル『海の路』にて

『風を読む』

『神戸登攀倶楽部』
『職業・ライフスタイル』として、山を通して生きる
道を選べて、その選択した『生き方』を今・現在も
続けている事は、本当に幸運だと思えます。
私が『山・自然の中でのクライミング』や旅に魅入られ、憧れ、その世界を『夢見て』深く、入り始めたのは40年ほど前からです。
アウトドアでの快適な活動を
サポ−トする機能的な製品を
神戸ブランドで発信。
『私も愛用者の一人です』

2006年5月4日

2006/05/08 (月) 22:31:48
示唆・影響を強く受けた『山の先輩』は多い。
現在でも、精力的に活動されている方は、お二人だけ。
山での、活動から離れてはいるが違った意味で、活躍
過激に遊んでいる、先輩も一人。
そして、あの頃に先輩だった人達の年齢を超えた私には
山から帰還せずに、眠る山での師匠格の先輩が数人。
夢を共に、語り合った若き友人と仲間を加えると、今でも
今だから、寂しさが募る。

だからこそのプロガイドの責任と理念・義務に意欲を新たに・・・
憧れ、夢見ていた生き方。最近になって、あの頃の気持ちや、純粋だった意欲を
再び、強く、そして素直に思い返せる。
収入や物欲を、優先したいならば山のガイドと言う、職業は向かない。
転業して、名称を得たり、偽のプライドを所有したいと思っている人には嫌悪感
を抱いている。資格の認定を、違う理念で利用しようと画策している人達を仲間とも思
わない。年齢は人を強くする場合もあると思う。
MCS国際・山岳プロガイド 舟橋 健