【昭和56年7月・NHK「稜線の詩」出演・情報】
【涸沢キャンプ場で・村長と呼ばれていた頃』
前年に、地元「新聞社」からの取材・依頼を断っていたのを、当時の常駐隊・副隊長の『猿田さん』に知られて、お叱りを受けていたので、この7月の『NHK』からの・出演、依頼は、ありがたく・お受けする事にした。
NHKへの紹介・推薦・推薦者には「奥穂高・山荘」のオヤジサンや、村営「徳沢ロッジ支配人さん」や、何と当時・入下山、時に毎回・お世話になっていた安曇野のタクシ−・運転手さん、も含まれていて。感激したのを覚えている。
神戸の「トモミツさん」製作の私・専用の大型テント
冬季の耐久テストを、頼まれてから。私が穂高岳涸沢キャンプ場に、長期「定着」クライミングを始めてからは、次々に台風等で消耗・破損する、私が使う「テント」を、天才的な縫法技術者として著名な、友光さんが「特別仕様」で、作っては提供してくれていた。甘える様に・私も・少しばかり贅沢を希望して『居候・達』が、大勢来ても対応出来るような、当時の山岳テントの常識には絶対に、存在しない様な『特大テント』等も希望した。そういった幾つかの「試作品」の、中でも・最も長期に使用出来たのが、この『写真』のボックス構造を採用した「涸沢・舟橋モデルの大型・テント』
快適であった。丁度、この、昭和56年の7月に関東のNHK『穂高・撮影』スタッフが、入山して来た時も、例年通り上高地から・横尾までが3回・往復ボッカ。横尾で少し、遊んで。『涸沢』に、キャンプ・ベ−スを設営したのは1週間後。テントの設営を終えて・数日・たってからの取材だったので、まだ・テントの張りも綺麗だ。居候も一人しか・入山していなくて、特に残雪の多い『夏』だったのか、周囲の「キャンプ登山者」も、いつもの賑わいでは、なかった。
当時の『NHK撮影班』は、今から考えれば・大変な
仕事だ。歩荷(ボッカ)サポ−ト・チ−ムは、確か信大
の山岳部をアルバイトに、採用してカメラマンに音声・
機材の担当者に、プロデュ−サ−と大部隊・編成。
この時の『撮影・同行ガイド』は、尾崎さん。
当時は・面識が無く・初対面だったが、同じ『藤内壁』
での、クライミング体験を持っていて・中京・関西で山
関係の話しから、会話・コミュニケ−ションは進んだ。
お互いが・当時は『若手』と、呼ばれ・数少ない世代の
ガイドだったのも・打ち解けた理由だ。
NHKからの「出演・依頼」は、涸沢での「キャンプ生活」「ボルダリングとクライミング」プロデュ−サ−の意向・希望している「村長としての権威?」は、とても、出す根性は私には無かった。それでも、当時は・この『番組』の反響は・凄まじく(凄いの一言)穂高・周辺では、このTVを見た人達が多くて・『顔』を隠して・歩きたいほど知られてしまった。
春の残雪を、掘って。夏の台風を過ぎて、秋から・初秋へ。
そして、小屋も締まって。誰も・いなくなった「キャンプ場」が
毎日の降雪で白く・埋まりだして・・・・雪崩の恐怖に耐えれなくなって。頭上を飛び「帰れ」の声に・促され。
ようやく、下山。4月・5月・6月・7月・8月・9月・10月・11月
確かに・テント暮らしには長過ぎる。
関西で、私の穂高での呼称・ニック・ネ−ムを知るクライマ−は、少ない。
『涸沢』での、撮影2日・目。「昼寝岩」での
ボルダリングを紹介・披露する。この当時には
「ボルダリング」を知る。メディア関係者など皆無。
皆・珍しそうに見ていた頃だ。
それで、ヤッパリ「古典」形式・「登山」を主題の番組
編成からは、きっちり外された。当然だ
この『稜線の詩』この・タイプの最も最初のスタイル
映像・番組。格調も高かった。
『NHK・稜線の詩・撮影の翌日。後輩2人を、連れて屏風岩1ルンゼに、遊びに行く』
当時。神戸の仲間達が「堡塁岩」に、通うように。私は北穂高へ、そして屏風岩へと走って、トレ−ニングに。そして、暇を見つけては、何の縁も・無い居候・達を引き連れては通っていたものだ。ただ、ひたすらに「クライミング」を、更に夢見る「クライミング」の為に。
『知っている・と言う輩は、大抵は会った記憶も無い・連中だ』
この時代の、私の仲間は、長野に富山に、関東や東北・九州の人達だ。関西には数人しか、いない。
奥穂高・山頂・直下からテイクオフして。上高地までの『飛行』を撮影してもらい。夜のニュ−ス番組で、映像が出る予定だったが。他の、事件が入ってボツネタ。 |
涸沢時代に、本当に長い期間・お世話になった。長野県『涸沢・山岳常駐隊』と『長野・県警・山岳救助隊』前列、左から4人目が、オヤジさん、こと常駐隊の当時副隊長の『猿田氏』レベルの高い、先鋭メンバ-が集合していた。写真家で、懇意に、お付き合い願っていて岳人などに私の写真を、よく出して貰って いた「青野氏」も一緒に、写真に入っている貴重な一枚。 |
2006/03/30 (木) 15:16:23
87年の春からは『吹流し』が私の天幕前に、いつも置かれるようになった。『風を読む楽しさ』には厳しい山岳環境だったが、僅かながらも着地時の目安程度には助けられる事も、あった。 |
奥穂高岳・山頂、直下の『テイクオフ・ポイント』 |