1999年10月より・翻訳・編集、作業を開始
『キャニオニング』の歴史的・発展』に関しては、フランスの洞窟学との関連を忘れてはならない。
1883年 Edouard Alfred MARTEL(最初のフランス洞窟学者・協会の創立者)は、洞窟を「滝」と比較しながら『横断=注』する等の、実験的な試みを実施する。
続いて、最も初期の『キャニオニング』活動としてLUCIEN BRITEN(1869)・Amand JANET(1869)F・FOURNIER(?)Cazaie DUBOSQ(1933)・Robert DE JOLY(1936)・Paul MINVELLE(1960)らの・当時としては『探検』と、呼べる活動が多くの地方で実施された。
(注)=資料・使用での訳文の中で「横断」と表現される事が多いが・渓流の横断、下降を含んだ「キャニオニング」的な活動と、判断出来る。
地域としては「モンブラン山群」等の、高山・領域ではなくて、カルバニ−山域・高アラゴン地方・Sierra Guarra・高プロバァンス地方・海に面した南アルプス地方。
スペィンのバスク地方も含んだ・中級山岳から、高原・低山域の渓谷・ゴルジュまでが探検の領域として活動している。(一部・花崗岩・片麻岩。多くの活動領域は石灰岩・山地)
(後に、ピエ−ル・マンヴィエルが『キャニオニング』初の・地形図として、1977年に出版。)
その後・1980年に出された、ポ−ル・モント−ルのシェラ・ドウ・グァラの活躍により、多くの人達に『キャニオニング』の、活動が知られる事になり、『キャニオニング』が、社会的にも知られる事になった。
(資料・収集時に、同時代の、他の諸外国デノ・キャニオニング・文献は一部の技術書や地域で収集した・スク−ル関係のパンフレット類しか、文献は集められなかった)
1986年5月18日・ヴェルコ−ルの協会で、開催された「フランス洞窟学・連盟」
の総会にて、ベルナ−ル・ピアルは『キャニオニング』を、純然たる・スポ−ツとして
表明する事を・議事内容に付け加える事を、地方技術・会議員から、EESに要請
(依頼)する。
ひとつの・グル−プが1986年6月18日に結成され。1年後の1987年、連盟の総議会において、サンテミリオンでの彼らの活動が報告された。
洞窟学・代表団はエリック・ドゥヴァリ−クの努力によって活動を発展させ『キャニオニング』の、スポ−ツ的な発展も加速する。1987年8月20日・グレットで、最初の代表団・主催の「調査キャニオニング」が、行われ。
1988年・代表団は「委員会・連盟」となり。ジャン・ピェ−ル・ルコが、議長となり、活動は地方や県で組織され始める。同年、委員会は『キャニオニング委員会』に、名称を変更。
『キャニオニング委員会』は、カヌ−、カヤック・フランス連盟。登山、ロック・クライミング・フランス連盟と密接な連携、協力を提携。1991年5月・キャニオニングでの、最初のコ−ス・モニタ−を実現させる為に、研修生の一組を編成する。そして、この年・キャニオニングに、おける調査(活動)を、スポ−ツ連盟など、3つの連盟に推薦状を要求して、各連盟・議長は、これを承認。
活動に、おける初期の「公式文書」とも言える・『キャニオニング』に、おいての最も大きな、レ−スは1992年9月・Gedre−Gavarnicで、『フランス洞窟学連盟』によって開催された。
その、大きなレ−スは1993年に実施された「ピレネ−国際レ−ス」の為の、出場資格テストの為の、選抜レ−スとしても利用された。フランス・チ−ムは、スペインで開催された、『キャニオニング・初の国際レ−ス』で、抜きん出た成績を残した。同時期に『キャニオニング』の、スポ−ツ的な安全性や技術的な、諸問題は、ほぼ確立し。スポ−ツ枠での、社会的・認知はフランス洞窟学連盟に、よって承認・紹介された。同年、8月・新聞は洞窟学連盟に『国家奉仕』に貢献する、代表団としての名称を与えた。
(注)=日本では、理解し難いが。フランスでは「冒険的」な、活動に学術的な貢献を加味されて、このような「認可や承認」は、社会的に当然と判断される。この辺りの、感覚は、我国には・殆ど存在していない。
EESの委員会・議長はGuy querに、「キャニオニング委員会」の再構成とPRを、行う事を要請し、承認される。そして、8月、Guy querを議長に選出。
『キャニオニング』による、悲劇的な・遭難事故・を未然に防ぐ為に、1995年から事故予防キャンペ−ンが積極的に行われ。充分に吟味された、事故防止策マニュアルが作成された。
1995年から開始された、これらの「事故防止マニュアル』・予防キャンペ−ン・指導活動は1996年、Guade Loupe国立公園により、更なる厳しい基準による、再研修を『キャニオニング委員会』に指示
15人の監視人(リ−ディング・ガイド)による、技術検定は・現在まで引き継がれ。ガイド検定等の、アルピニスト養成に関する、技術や山岳レスキュ−の項目も・数多く採用されており、『キャニオニング・ガイド』に要求される・資質・内容にフランス国立・登山学校・ガイド研修、検定の歴史が積極的に利用された。これにより、キャニオニング技術が世界で、初めて統一的に体系化されたと、判断出来る。
(注)=1995年10月にEESの委員会・議長は委員会を「フランス・キャニオニング・スク−ル」と命名し、1997年5月、Guy querは議長の席を退き、議長助手のEric ALEXISが、彼の後を継ぎ。1997年10月、彼はEFCの公式・議長に選出された。
同年、8月・国家の認定代表団は『内閣承認』に、より。登山連盟とロック・クライミング連盟を加えて、3連盟の協定原理を確認。
3連盟は、協調して活動を行う事と、なり。青少年のスポ−ツとしてFFSを維持。『キャニオニング国家・技術会議員』を選出し、地方・技術・会議員は、キャニオニングCTNの半数を占める。キャニオニング関係の・規約や既定に関しての証人は、3連盟によって1998年1月に、再度・改定された。
【補足資料 1】
フランスで、発祥した「キャニオニング】は、初期の段階・渓谷、ゴルジュの下降と定義された、ものでは無かったが、数多く出版されている、仏・独語圏の資料に挿入されている・初期の写真や絵を見ると「木造ボ−ト」や、現在のハイドロ・スピ−ドで、使用されているのに似通った、リバ−・ブギ形状の用具も利用した、激流下り・や木製・梯子やラダ−に、似通った用具での「滝の下降や登る」等も、散見できる。
学術的な要素の高い【洞窟学】から、ケ−ビング(スポ−ツ化された洞窟・探査)を、加味して現在、一般に『キャニオニング』と、呼ばれる活動形態が、形成されて・アウトドア・スポ−ツとして発展・成長したと理解するのが、妥当と思われるが、最も初期の・危険性が高かった・挑戦スタイルは、現代の『キャニオニング』を、実践する者に、とっても示唆される・ものが多く・尊敬すべき「挑戦」に、影響を受けると言わねば成らないだろう。
【補足資料 2】
現代の『キャニオニング』に、おける広範囲なスタイルを簡単に定義・考察するのは困難。
何故ならば、多様化し・細分化して行く、アウトドア・スポ−ツ・ジャンルの中に、早くも『キャニオニング』は吸収されているからで、唯一の例外に近い、発展形態は欧州を離れた「未開拓地域」での、本物の冒険的な『キャニオニング』こういった、活動に積極的に、参加・活動する者は少数である事から・一般的な『認識』範囲で・キャニオニングで、あっても本人達の『意識や行動』の、真実が、広く認識・知られた『キャニオニング遊び』と、同一とは呼べない。その、端的な例は、我国でも2000年から・顕著に見受けられ出した。こういった・活動に参加・参入しない、したくない者は残念な事に、殆ど初期からの貴重な『情報』を得る事が出来なかった様だ。
『日本キヤニオニング協会』 |
『キヤニオニングの歴史的・考察』 |
2006/04/05 (水) 18:04:08
進歩的で新しい『遊び方』にも興味を持って。しかも行動が伴なうと言う活動的な人は、いるもので、1980年代に、海外で実際の『キャニオニング』を体験したと言う、日本人が存在しているそうで、私も間接的ながら、その『先輩』からの、貴重な情報を頂いた。 90年代には、私の世代ならば著作やクライミング関係の情報で、その名を知っていたシャモニ-で、高山・クライミング・ガイドとして著名な『ヤニック・セニョ−ル氏』や、アルプス北壁でのソロクライミングで名を馳せた『ギラルディ−ニ氏』などが、キャニオニングのプロ・スク−ルを積極的にガイド業務に組み込んで、活動している事は、ある意味で励みとなった。 90年代の後半には日本でも、キャニオニングに影響を受けて『滝滑り』を、沢の楽しみ方として提唱し出す傾向が見え出したが、残念な事に『沢登り範囲』から、意識面でも活動面も抜け出せず『沢』の制約からキャニオニングに移行するレベルに達した、目的を変えれた人達は現れなかった。 |
これらの実績・活動の進展に伴ない、1992年からフランス国内では『キャニオニング』を、独立したアウトドア・スポ−ツとして、社会的に広く認知される機会となり、飛躍的な発展を見た。一般社会での認知・理解に大きな役割を果たしと思われる。 |