『チャレンジド・障害者』を取り巻く・社会環境が改善して、豊かな人間性・教育が進んでいると・・・言いたいものだ。現実を見れば、遊びの世界でしか・たいした関係を結んでいない『私』から、見ても「自立支援法」が、誰が見ても悪法・自立・疎外法なんじゃないだろうかと・思って見てしまう「現在」遊びや・スポ−ツの領域で参加・領域が格段に、増えている訳でも、なければ「場」が、急増した訳でもない。

『登山』「山歩き」「キャンプを含めた・各種アウトドア活動」に興味を示して・意欲や出る為の努力を以前よりは多くの・チャレンジドや、その周囲の家族や仲間達は望んでも『環境』が、改善されているとは言い難い。

私は、最も長い時間・強い想いを込めて来た『クライミングの世界』に・バリアフリ−の『夢』を見ていた、時期も・あったが『場』の、少なさよりも『場を使う』側の人的な進歩や・意識の向上が、実は一般社会よりも遅れている現実を理解し出してからは、少しばかり。その『夢』を見捨てている。この・素晴らしい・遊び・に加わる人の数が・急激に増えた事が・意識の発展に反する阻害要因の最大の理由だが・それ以外の人的な「変化」の方にも・諦める原因があるようだ。

異なる・意識と夢の・違いを・乗り越えて「場」の、共有。そういった美麗字句は、実は現実のクライミング環境では通じない。端的な例としては・関西ならば・私達の世代には考えも及ばないボルダ−のチッピングに代表される「完全」に・違うジャンル・意識や目的を持った者達の存在を見れば・理解出来る。ボルダ−・クライミングでの、トップロ−プ拒否・者のロ−カル・クライミング・エリアに残っていた僅かな・地元・環境意識や暗黙の了解ながらも・良い意味で残っていた共同体・意識は失われている。其れを、持つと表明する集団・グル−プは、現在は知っていても、彼ら以前の集団・グル−プ・個人を知らない。敢えて・知ろうとしない部分が彼らの流儀だから・何かを対話で解決するのは・所詮は無理な話だ。過去があり・現在・そして未来と言う・単純な原則・道理は通じない。変化を受け入れない「環境」に我慢出来ない・連中は当然の権利として「ボルト」は撤去する。岩肌に傷が残ろうとも。彼らには・自分たちに共通する『原理』に忠実だから。

その『影響」を受けている・現実として。自分に・必要なければ不要の原則は近郊・既存の岩場(ゲレンデ)にも、波及していて。眼の見えないクライマ−志願者が生れて、初めて手にする「壁に残されたボルト」を触る・機会は奪われたりする、その・現実の例としては、私が整備・壁の中の蔦や潅木を切り払い・浮いた岩を撤去。古くて不安定な残置支点を、新しくハンガ−・ボルト類に打ち替え。終了点のアンカ−・システムも設置した、古い歴史と長年・多くのクライマ−に親しまれている「芦屋ロック・ガ−デンのキヤッスル・ウォ−ル」で起きた・1本のボルト(ロング・ライフ)の抜け穴を見れば・少し理解できるでしょう。その・理解の中に、世の中には「眼が見えなくとも」クライミングに挑戦したい。クライミングを楽しみ、技術の向上に・各所の岩場を自由に使いたいと望む人達の存在を加えて・だ。そういったチャレンジドの存在を、知らず・無視して話しを進めるならば・ここから・先を読まれる必要も無ければ・その先の理解者への参加にも関係は無い。

『クライミング』は絶対に安全な遊びではない。
遊び方を、間違うと命の危険もある。当然の知識だろうが
五体満足の身体と、何かしらハンデイを持った人達との間
には、その当たり前の「事実」にも、決定的に違った感覚と現実がある。

以前ならば、視覚障害者が『雪山登山』を体験するのは
危険と言われる事が多かっただろう。
逆に、視覚に障害を持つから『雪山環境』での、登山行為に価値がある場合もある。

積雪・新雪が柔らかく。クッション感覚で
山歩時の転倒などのダメ−ジが、軽減
される場合もある。

俗に『足で見る登山』を、楽しむ仲間達には
アイゼンで踏み歩く、雪山の感触は楽しめる。

樹氷を手で触る感触。風雪を顔で感じる
そういった自然環境を身体の感触で直接的
に楽しめる『雪・寒気』は味わい深い。
『山での障害者(チャレンジド)支援』
『チャレンジド』が野外で、快適に安全に活動を楽しむ為に
必要な、各種『用具と装備』には様々な要求がある。
一般使用者の求める『機能・性能』と共に、用具類の改良は
それほど大きな無理は無く、高齢者の利用という部分を考え
併せれば、幾つかの問題は簡単に解決できそうだ。
携帯電話に関しての、凄まじいまでの開発競争を観察していて何故?似たような機械的な『情報伝達手段』を小型化して製品化できないのかが疑問で、仕方が無い。政府公表で何がしかの聴覚障害者は600万人と言われている、充分に企業採算に見合うはずではないのだろうか。
現在のフリ−・クライミング思潮?思想には厳密に肉体的、精神的な『弱者』に対しての『排他的な意識』は強烈です。スポ−ツの定義やクライミングの質的な向上と、チャレンジドを含む何かしらの『弱者』への参加は、かなり困難な状況でしょう。元々が、同じ土俵・環境や状況で健常者と同じ事を『弱者』は求めてはいない、求める自由と権利は存在しているが、彼らは物理的・肉体的に不可能な到達できない、領域の存在を誰よりも良く自覚していて、理解しているが、その選択を他者から共用されたく無いだけの話でしょう。
そういった意味で『フリ−クライマ−』の多くは、理解度が充分ではなく、理解している部分を彼らに、改めて公言したり公表する必要性を私は感じていない。多くのチャレンドは、日常生活・以上のスポ−ツ等の活動で失った身体的な機能や、備わらなかった能力を機械や特殊な用具に完全に頼って、達成すべきだとは考えていない。一部、特殊バギ−車や改造車椅子を使用しての登山や滑車装置を利用しての垂直な岩壁での、挑戦なども格好のマスコミ・ネタとしても公表されているが、そういった事例は非常に稀な例で、ことクライミング環境では素手で太刀打ちできない岩場を特殊な用具を駆使して、突破しよう等と言う事を現実に行う者は見当たらない。
アイアンマン・レ−スに端的に見受けられる同じル−ルの元で、同じ質的な課題に挑戦する『チャレンジド』の姿に多くの人達は、素直な感動を覚える。登山においても、それは全く同じだと私は考えていて、この意見は時として『障害者・支援者』として理解されている私の立場として、あまりにも厳し過ぎると言う意見が多い。それでも、私・個人的な私の考え方としては可能な限りでの健常者・側、設定ル−ルでの参加を彼らに望んでいる。しかし、その『環境』『機会』は、あまりにも少な過ぎる。