『プロのガイド』の立場としては、初期からチャレンジド(障害者)からの、ガイドや技術・講習に関する依頼は決して断らなかった。自分自身が・他者から、その『夢』の達成や、進行を無理だと言われて来た、経験や。
数多く、足を引き摺りながら訪ね回った・俗に『先生』と呼ばれている人達から「暗黙」の拒否。諦めなさいと・まで言われた経験を持っていて・今は、遊べている身の私には・以前よりも『無理・不可能』の定義は・低い。

個人枠での「本格的なクライミング」等への挑戦は。
組織との係わりで、行う企画・実施とは全く違い。希望される・内容の殆ど・全てを可能な限り・聞き入れられる。その・点が、プロガイドの立場としては充実度が高く、依頼される方にとっても、その方自らが『希望』される以上の領域、範囲の山での活動が実際には行える。それらは、実際の依頼・実施例を30年・近く私自身が実際の「体験」の中で、知り。可能性の限界は、思っているよりも・本当は、もっと・先にあるのだと、毎回・思い返される事が・担当する「プロ・ガイド」としては、うれしい。

この・感覚は・実際に体験しなければ、一般常識と呼ばれる「恐れ」や、無知から引き起こされる
「区別・差別」に、よって『無難』を選択してしまう、自分の弱さを、強めていく充実感や達成感と共に新しい発見・それらの『新しい世界』を知る・楽しさにより・ガイドとしての自分を、随分と高めてくれたと思う。「五体不満足」の本を、読む以前から・見て・共に歩き・攀じる・世界の中から、私は学ぶべき「指針」や・『夢』の力を・彼らから学ぶ・恩恵を受けていた様だ。

この・体験は、本物の「冒険」や・チャレンジの言葉の真の意味を・理解するのに必要だ。

『30年ほど前には』聴覚障害者の登山・組織からの依頼で・トレ−ニング段階から、実際の海外クライミング(登山)にも、ガイド同行した。その後には、関西範囲の・障害者からの個別・依頼で「六甲山」から「比良山」範囲に、冬季の伊吹山や大山・そういった比較的・身近な山域から、岐阜・長野の山に出て。穂高での本格的なクライミングにも・チャレンジドと挑戦して来た。参加者はクチコミ・ネットワ−クを通して・全国的な範囲に広がり・関東エリアの岩場を仲間達の協力を得て・知る事にもなった。身体・欠損。肢体不自由な参加者と一緒になって、何年もの時間を、かけて専用のクライミング用具を造って・滝谷や屏風岩での『本物』の厳しい・クライミングも無事に達成出来た。カヤックを使って・北山川や丸山川・近所の河川で川を旅する、遊びにもガイド依頼の希望に応えた。
そして、震災で微力ながらも、8ケ月は自分の世界を忘れるほどに・縁の無かった『活動』にも・本気で取り組んだ。

その後に・依頼を受けた『視覚障害メンバ−を中心とした組織』での・広報面とハイキング以上の・企画面でのガイド講習・等での支援や・山とは関係ない他のグル−プや子供達とのジョイント企画にも手助けが、行えた。それらの、活動の中で・個別の依頼やガイド参加の希望に応えて・故・長谷川恒夫・氏の主宰していた『日本の自然を守り・育てる会・NAPAL』の実際・山行にも、請われて関西枠のガイドとして唯一・私だけが積極的に参加・協力も行って。欧州・以外の海外での障害者・交流に関しても、国際交流のの活動を組み合わせる事も行えた。

複合的に広がる・それらの活動の中で・自分自身の『夢の世界』も広がった。

『プロガイド』としては、それらの活動で社会的な「評価」を受ける・名誉も受けられ・登山・クライミングの世界を通じた「バリアフリ−活動」を通じて・人として・成長する機会を与えられて。山の世界から・拡大して広範な「アウトドア・スポ−ツ」からの発言の機会も増えた。

人の可能性を認めることから始まる『夢への一歩』
2005年〜2006年『個別のバリアフリ−・プログラム』を実施しました。
講演会・要請も以前の様に『チャレンジド』グル−プでの、技術的な内容とは違って一般的な登山やハイキング愛好家の人達や、学校関係者(教育委員会)や、変ったところでは青年会議所や労働関係の機関からの、要望で遠方への活動も増加して来ました。宗教関係・者からの希望『要請・講演』や、ボランテイア団体、NPOからの希望にも内容を吟味し各種・関係資料を整理・用意して対応しています。
2007年 最近は組織系の『活動』や『イベント』に、自分自身が中心者・企画段階から、関与する機会は減らしている。国際交流の活動や、その他の個人的に動ける事柄から学んだ事で、少し組織や多人数そして、幾つもの活動媒体・グル−プが、活動で重なる事柄に、失望感を抱いたのも理由の一つだ。
『山と渓谷・本誌』や、他の関連雑誌にも『障害者クライミング』の情報も、頻繁に診るようになって来た。
個人的には、広報面で良いことだと思っている。もっと、活動や当事者たちの『夢や希望・要望、要求』が出る
べきだとも思っている。目立つ事は重要だ
自分以外の人の事ならば、かなり心配性で将来的な事柄に関しても、充分な『注意』や思考が働くのに
自分の事になると、少しばかり古傷の事も含めて、無頓着だと気付かされる出来事が、最近は多くなった
あまり、人から心配されたり、不安を感じられたりする事に職業柄の?やせ我慢・体質で過ごして来たのか、これまではお節介には弱かった。それが、素直に自分の体の事や、古傷をかばう事項に充分な注意や視線を向けられるようになったのは愛妻からのアドバイスに、よるところが大きい。彼女の職業に、尊敬心を抱いていたが、『リハビリが必要な人』を考えれば・・・・反省することは多い。
1980年代に『日本のプロガイド』の、将来や職業的な規範や目標といった、長期的で、かつ世界レベルに追いつく為の重要な『問題意識』を、自身の活動から表現し、その先の舞台を考えていたのは、本当僅かな先輩達だけだった。

一匹・狼、的に個人営業・従事者として独立系で、他の同業者との連帯やガイドの社会的・責任や社会貢献を本気で考えていたのは更に、少ない先輩達だけで、故・長谷川氏は当時『ガイド協会』の理事に就任。その役目を受けた、本当の理由を知る者も今は少ない、その頃の身内の混乱、ゴタゴタや『山と渓谷』広告費の問題などに関しても、当時の現状は公表されなかった。

『日本在住の外国からの、訪問・滞在者』や、様々なハンディを持った『障害者』を受け入れる『プロガイド主催』の登山・企画など、当時としては画期的な企画だと今でも、私は考えているが実現したのも素晴らしいが、継続・実施が可能だったのも『故・長谷川氏』の、能力と人徳だろう。

西日本・範囲で、私が講師招待で企画に『プロガイド参加』できたのも、故・長谷川氏からの格別の配慮と好意からで、毎回・貴重な体験を積む事が出来た。こういった『企画』から、私が学べた事は非常に多く、影響も強く受けた。同じ様な『企画』を、実施出来る『日本のプロガイド』は、もういないのかも知れない。