見捨てられた「大陸」と呼ばれだした・アフリカから・わざわざ日本と言う国に理想を抱いて・就学生として・やって来て挫折して帰っていった青年。ODAを知るに付け・やっぱり・この国の「国際・感覚」「国際・交流」には・何かしら善からぬ輩の・利権とかを感じてしまう。一部の留学生が、引き起こした犯罪で・その国から日本に、やって来た他の多くの真面目で・貧乏に耐えながら「夢」を求めている・学生達が区別(差別)される風潮も強まり出して。やはり・個人レベルでの交流とかは大切だと思う。相手を知ることは・その個人を通して、その人達の国を知る最も良い方法だから。人を通じての「知る」感覚は、やはり大切だと思う。

『ホ−ム−・スティ』=留学生・達を自分の生活の中に、受け入れる。 家族持ち・生活環境に、ある程度のゆとり=例えば・現実的に宿泊できる部屋やスペ−スを持たなければ・これは・ちよっと無理。日本の『兎小屋』と呼ばれている生活レベルを考えれば・誰でもが気楽に・と・は思えない。だいたい・どっかから助成されたり・近隣の人達が・手伝ってくれるとは、まず思えないし。これは・中々・気楽に受け入れる訳にはいかない。

そんな環境の中でも・気楽に海外から就学生・留学生として、やって来た・友人となれる人達を自分の生活の中で迎え入れる方法としての『ホ−ム・ビジット』と言う・家庭への迎え入れ方は多くの、人達に利用出来る良い方法の一つです。
『個人的な国際交流』
他の国の人達との交流は何も、役所や行政・外務省の怪しい役人達だけが行う活動ではないと思う。意外と、自分たちの生活範囲の身近な環境で、もっと楽しめる。
数年前まで(某・市)の『国際交流協会』に会員として
所属していたが、企画面での参加で一般市民の加わ
る提案を、何年も拒否・無視されて国際交流・以前の
人権的な感覚の無さに、失望を感じて脱会した。

どうも・組織的な運営の中に濃厚に役所感覚とでも
言える不合理・無神経さを感じる。
個人や家庭レベルの範囲でも身近な
生活圏で同じ、市民生活を過ごす海外
からの友人達を、気楽にもてなしたり
家族同士や仲間達と楽しく遊ぶ、機会
を作ることは可能で。
お役人・感覚で企画して実施する国際
交流のイベント等とは違った手作り、
家庭的な楽しみを提供出来る。
震災前に『ジャイカ』関係の国際交流としては、凄い規模で豪華なパ−テイ-に参加する機会が一度あった。その時にも、強く感じていたが、この大量に余った、無駄を絵に書いたような豪勢な『見栄の食事・食品』を、家族が飢えた経験や、貧困からの脱却を目指している、国々の若い人達が見たら、交流の真意は必ず疑われるだろうなと。

ホテルの立派な施設や、有り余る物質が歓迎を表す、唯一の『方法』と感じる・考える『感覚・感性』そのものに、何かの間違いを感じるのは私だけ?
Ken Funahashi
1973年南ドイツの名も知らぬ、街にて同宿の子供達と
『国際交流』の名を使った活動が盛んになって来た。
海外旅行は今や、普通の旅行と何ら変らなくなり、街中で異国からの訪問者の、姿を見ることなど当たり前の日常的な風景。海外からの就労者の多い、地方都市では街中の風景さえも、面白い変化が見られる。
『国際交流』の文字さえも、異質に感じる。
大々的な広告・広報に豪華なレセプションが、本当に活動に必要なのか、必要なのかも知れ無いが私には似つかわしくも無ければ、場の雰囲気にも馴染めない。
細分化・特化・個別化が進んでゆく『各種ボランティア活動』の、中での国際交流は貧富の格差や社会的な立場が最も、端的に見え隠れする『活動の一つ』ホ−ム・ステイを、いったい・どれだけの普通の家族が行えるかを考えれば、状況は理解し易い。

『ダ−ウインの悪夢』所詮は植民地・搾取の歴史を真剣に国家として反省できない『フランス』映画。
経済格差の中での、産業進出・貧しさの問題の中で『ナイル・パ−チ』一つの魚種に、責任の大半を被せる単純な説明には、大きな問題が隠されているようで名前負け映画。
見れば、考える方向性を決めやすいが、少し違う。アフリカの現状は、大国と呼ばれる映画の製作・配給が可能な国々に責任の多くがある。

私は、10代の終わりからの多感な青年期に、海外での一種・不法就労・環境と現在、従事している職業の為の最も、初期の修業期間を海外で過ごして来た。その為、現地で様々な国から、生活の糧を得る為、祖国に家族を残しての生活を送る人達とも、少し同じ環境で生活を共にした経験も持っている。
人種による『差別』も、身を持って体験した。活字や映像で、情報として知る現実とは違う。
少年期から『青年期の一時期』私も、クライミングの『グル−プ/神戸登攀倶楽部』に、所属していた。人が数人、集まり同じ目的や、同好の遊びや意識の元に活動すれば、単独での活動に比べて幾つか利点は生まれるが、その『グル−プなり組織』が、ある一定以上の大きさ、人数を越えると『内に入る感覚』自分達だけの世界観の様な、狭くて排他的な活動に向う傾向を制御するのは、その大きさに比例して困難になるようだ。

良い面もあれば、悪くなる面もあるのが人の集まりで、アウトロ−的な感覚や意識を僅かでも持っている人間・集団には社会生活・一般の社会常識から逸脱する。可能性を秘めている場合が多い。特に、自意識が強く、目的の為の手段を『成功』の為に、必要とすれば過去からのモラル面や規範意識を乗り越えてしまう事も、厭わない冒険心に富む者には、いつも他の異なる意識の人間との『摩擦や軋轢』が、生じてしまう。
そういった例は過去から数多く、それがクライミングの質的な発展に、繋がる場合も多いので、ある程度の問題は『問題とされない』小さなグル−プ・集団には、特に顕著に現れる。

排他的・思想や他者の意見を真剣に聞かない、考慮せずに自分達の目標・目的に合致する方法論に傾き易い傾向というの『一種の差別や偏見』を、生み出す土壌ともなる。自分達の『世界観』を、持つ事は自意識・プライドの尊重には大切だが、他者を否定する意識は山でも街でも、やはり異常・異様で社会通念や常識とは、相容れない。先鋭的な活動に入れば、逆に自分自身の活動に対して、確固たる自信や新年に似た意識を持てるが、それ以前の中途半端な『クライミング』で、迷い、自身の自信が持てない場合は、論理面でも自分の行動規範が存在しているのかも、怪しく他者に攻撃的になる。

そういった意味でも『他国のクライミングやクライマ−』の意識や行動倫理、歴史観から、その国の文化などとの違いを学び、自身と比較できる機会は非常に大切だろう。『国際交流』の、場は若いクライマ−に有益だと私は考えている。