普段の生活の中で、自由に動けない人も少し、工夫を凝らした野外キャンプでならば、何ら障害を感じる事無く・アウトドアでの楽しみを満喫できます。翌日は、仲間達と共に・キャニオニングを体験。ギャラリ−からの歓声と拍手の中、豪快に滝中を滑り降りて水中へ。専用の安全・装備に衣類の完全装備に身を固めて・自力で急傾斜の渓谷の中をロ−プを使って・下り降りたりも出来ます。
2004年8月「バリアフリ−・キャニオニング&ロ−プ・アドベンチャ−」
参加者『植村記念館・冒険賞』にガイド推薦・受賞
ブラィンド・スキ−・全盲・男性、生れて初めてのスキ−体験の記録(鳥取県・若桜町、若桜・氷ノ山スキ−場)
『各種・バリアフリ−企画・実施記録
環境保全の問題も、障害者の山での活動・支援へも『中高年者・層』の活躍が期待されている。 プロ以外の登山やクライミングのエキスパ−トや、上級者と呼ばれる人達にも、貢献を期待している人達は多い。 |
世界で最初に「視覚障害者」のサポ−ト 専用・用具としてプロガイド舟橋が発案・使用 初期に「サポ−ト・バ-」と呼んでいた。 現在では、洗練された形状へ進化を遂げて 名称も『ナビ・グリップ』と呼ばれている。 最初にパック・ザック(フレ−ム)の腰部バ-を 加工・改造して使っていたものが原型。 |
山の世界のノ−マライゼ−ション(normalization)と、説明・解説する人達も多い。社会が障害者を含めた弱者への支援や応援を、生活環境のみならず広く『人権』として考えられる、成熟した大人社会への一つの、道筋としても見える 活動として「山」は、使い易く、見え易い。それは、言葉としても、映像的にも表現・広報面での価値も高く、偏見や差別を少しでも払拭、減少さす為に役立つならば「山の世界」の価値も、今まで見えていなかった部分も含めて役立つだろう。 自力歩行・運動能力が欠如している人達を、人海戦術で山の頂(山頂)まで、引き上げる。車椅子・登山などの活動には様々な意見もあり。功罪も論議されて、しかるべきだと私自身は感覚的な範囲で想う、考える事は、あるが。当事者・参加者の意識や想いを知らずして、無闇な論評や批判は控えたい 『身体的ハンデイ−・障害』を、特別・特殊と考える時点から、ある意味で間違った考え方かも知れません。人は、老い。身体能力は誰もが、加齢と共に低下していきます。バリアフリ−の「バリア」は、文字通りの『障害・障壁』人には、誰でも困難を克服する必要が生まれる。登山の一つの、意味・価値には困難を克服し、夢を見て、その夢に近づき、適える過程の努力も楽しむ、そういった行為はバリアフリ−の言葉の意味と、同義語・同一感覚。 登山・クライミングの価値としての根源的な部分を、理解し始めれば『バリアフリ−』の本質も、意外と難しく感じる必要は無くて、自分の「山」『生き方』と、同じ。 |
バリアフリ−・ハイキングは楽しい |
2006年6月より『連載・掲載』=紹介 |
どのような機会も無駄にせず活用する。特定の企業や組織・グル−プからの広報・活動でも私は活用させて頂きます。『無料・講習』も場と機会を得られるならば、どの地域でも実施が可能です。 |
『障害者』と言う表現が・適切だろうか? |
Challenged |
人の可能性は、他者から限定されません |
CONTETS |
2006/04/03 (月) 17:34:20
ICI神戸店・企画 |
様々な『サポ−ト方法と技術』が、必要なのだが基本的に 『サポ−ト』には心の問題が大きい。 いくら、慣れていても『技術と方法』を知っていても相手との コミュニケ−ションに無頓着だったり、無神経な言動でしか 接する事が出来ないなら、最初から『サポ−タ−』には向い ていないのかも知れない。 |
視覚障害者のサポ−トに必要とされる『基本的な技術』は 大抵は、誰にでも学べる年齢などは関係しない。 子供達には、技術や知識も最初から、ある訳では無いので 最初の体験には、ある種の緊張関係は当然ながら生じるが それでも構わない。実際の体験から生み出されるものに期待 しているからです。 |
ほんの少しの努力や工夫が『可能性』を大きくそして、限りなく広げる。 用具や技術は、確かに必要なのだが、本当に必要な事は、相手への共感や思いやりの心。 自分ならば・・・相手に『頑張れ』 その前に、自分が頑張るべきだろう。 |
私は1980年頃から、日本国内でメディアを含めて無一般的に呼び習わされていた『障害者』と言う、言葉・表現を『意識的にチャレンジド』と表現して来ました。 意味が通じない、格好を付けている、意味が逆なのでは・・・ほんの15年ほど前には、意味的な部分を理解してくれる人は本当に少数でした。テレビ報道関係の担当者でさえも、『チャレンジド』の表現を『ハンディ・キヤップ』に、変更して使用するほどでしたから。一般的に理解され、使用されだした時期は、阪神淡路・大震災の後からのメディア側の、ボランティア等への追い風・登山専門雑誌の『特集記事』各種・広報、情報誌での使用からでしょうか。 特に、山岳・アウトドア関係の雑誌類が『チャレンジのスポ−ツ活動』を、かなり積極的に取り上げる機会が増加したのも、大きな支援となりました。 |
『目が見えなくとも』大勢の、子供達やサポ−トを支援、手伝ってくれる仲間達と共に、山頂や木立の開けた稜線で、顔に触れる僅かな風を感じて、山の魅力を満喫したり、木々や草花の匂いから、四季や植生の変化を感じ。視覚以外の感覚情報や樹氷を触れる、感触や身体に感じる感覚、雰囲気から山の高さや、他の山との違いを感じる楽しさを見つける人もいます。 冬季の雪を踏みしめる感触を楽しみ、肌に触れる淡雪の溶け方や顔に触れる寒風で雪山の楽しさに目覚める人もいます。渓流を歩く中で、水流の中での足裏の感触、感覚で歩き目では見えなくても目前に近づく水音、滝から発する水流の落下音、大気を伝わる振動や水の匂い、そういった僅かな感覚・感触情報で滝の大きさを感じ、周囲の自然を感じて楽しむ人もいます。 何度も練習して覚えた、簡単な技術や出来事を忘れる人でも、次々に変化する山の景色の中でならば、忘れていく事が多くなっても楽しみ方は多いのです。足が不自由でも、普通の登山者に1日、何度も追い抜かれて、ゆっくりとしか歩けなくても時間の差があろうとも、努力の先には追い抜いて行った人達と同じ山頂に立ちます。ここに競争原理は無用です。 |
『可能性を無限』と、言い切るほど私は夢想家ではありませんが、基本的に大切に思っていることは『できるか、できないかは、やってみなければ判らない』行動、活動に関して本人以外の他者が決定権を持つような、環境は拒否すべきとは感じています。例外的な人達は、確かに存在しますし、無茶・無謀な要求や危険が確実に予測される冒険を無理に手助けしようとは考えもしませんが、無知無理解、偏見的な意識から『障害』身体的・精神的にハンディを持った人達に、その障害のみを理由に夢や希望を疎外したり、障害を設ける事は許せません。 |
『チャレンジド/障害者』の山での活動を含めた、自然環境の中での遊びや行動の舞台は、大きく広がり始めました。 以前ならば、不可能だと考えられていた『活動・遊び方』でも、安全に楽しく参加できる機会も増えています。 |
ほんの少しの『サポ−ト/支援・応援』そして、理解があれば、様々なフィ−ルドに出て行けるはずです。この項目情報の中に登場している、多くの『チャレンジド/障害者』の仲間達は、私から見て全て『チャレンジャ−』であって、傷害の有無とは別に助け合う事を基本とした『アウトドア仲間』でもあります。 |
『チャレンジド』と表現、説明するのは意図的な利用ですが、それ程、難しく考えて使用している訳でもありません。 |
『チャレンジド/障害者』を取り巻く、社会環境が以前にも増して悪くなっている部分も、今の日本では多くなってきたと言われる。駅の点字表示や歩行ブロック、エスカレ−タ−が、幾ら増えても、音声ガイドが増加しても、それが生活環境を含めた、社会生活の中で全て、住みやすく改善されたとも言えない。『障害』を見て、何らかの『差別』を感じ、直接的に受ける事が減っているのかどうかも怪しい。『チャレンジド』が野外での、様々な『遊び』を体験しようとすると、そういった『社会の差別』を強く感じる事は多い。『前例』が無いという唯一の『理由』が、体験する継続する『機会』さえも、奪っているような硬直化した御役所・仕事の門前払いにも似た、入口の遮断も私は実際に目の前で、も見て来た。『障害』を理由に、『障害者』は、明らかに二次的な『差別や偏見』から、不利益を受けているのは、確かだ。『人としての自尊心を傷付けられる』環境は、一般的な社会道徳や人の目が多い、一種の社会・監視が存在している『街』よりも、実は自分達だけの世界観や自分達だけの自由が、確保されやすい『山や自然の中』での方が、悲しい事に多い場合もある。 『山に悪人は、いない』は、真っ赤な嘘だ。 |