聾唖者グル−プからの・希望・依頼で・まさしく急遽「同行ガイド」が決った、ヨ−ロッパ・アルプスでの山行を終えて帰って来てからは、報道の影響と、クチコミ・ネット・ワ−クで関西・範囲、以外の他の地域の障害者からの問合わせは急増していた。当時には・今の様に、誰でもFAXや便利なネットを使える、環境では・なかったし。障害者の仲間で、これらを使える者は、私の周りには誰一人いなかったので、クライミング関係の企画を実施する為だけに、関東や・更に遠方に住む参加・希望者を「関西・山域」に呼ぶのは物理的にも、かなり無理が多かった。電話や、手紙のやり取りから・穂高で合流・又は私が夏の定着・期間の中で、一端・降りて関東方面の岩場に出る事も頻繁になって来た。日和田や鷹取は、その頃に関東の友人に案内され、時には講習を手助けして貰って使った岩場だった。
99年の『山と渓谷』紙面・第二・特集として、『障害者の登山』が取り上げられるまで。、実は・山の世界では本当の意味で「チャレンジド」の活動に真面目に視線を向けて?紙面の中で、本人達の『声』が出る機会は、殆ど無かったと思われる。アウトドア=(山・関係とは別)の、雑誌や総合的なスポ−ツ雑誌
(例えばタ−ザン)等では、かなり早い時期から「チャレンジド・障害を持った人達」の本格的な・野外・遊び、それを取り巻く環境・等も記事として取り上げられていた。『山と渓谷』の特集が、出た事は、遅ればせながらも、実は大きな意味を持っていて。他の、山岳・雑誌と言われる(某・雑誌)も、後を追って似たような特集を組んだ。これは、明らかに・遅すぎたが。(某・新聞社)関係なのに・やはり直に山を知らない、知る気も無くした・編集者に世代・交代したのか。それとも「チャレンジド」には・最初は視線を向けていなかったのか・どちらかだろう。
その・紙面編集・情報の収集・時に私にもアンケ−ト形式での質問とか・紙面への協力を要望する連絡が一度・届いたが。細かな、説明を必要とする「項目・部分」に関しての、連絡は来なかったのと・あの震災後に・安否情報とか、人並みな・心情を理解せずに原稿・依頼の連絡が先立ったりと・雑誌としては好きだったが「編集部」には・個人的に協力の意欲が湧かなくなっていたので・・紙面には私からの情報は出さなかった。
数年前に、私のクライミング講習・参加者で。六甲山の岩場からトレ−ニングを積んで・徐々に『沢・渓流の世界』に魅入られて・自分の山の世界を確立して。奥秩父の沢や、かなり困難度の高い未開拓な沢での「滝の登攀』等にも、参加してくれ・技術も向上して・本格的な山での体験も積み出した。芦屋に住む橋本さん・から・彼女がハイキングの途中で芦屋ロック・ガ−デンで、出会った「「視覚障害の少年」の、話しを電話で聞かされた。
その時には、私を・その「少年」と・同行していた若い友人に紹介して・山を続けたいならば連絡して「アドバイス」なりを受けるようにと、伝えてあるので・連絡が来たら・よろしく。そういった連絡だった・この、橋本さんからの電話は久しぶりで、彼女も参加して穂高岳・前穂高「北尾根」から、吊り尾根を経由して・奥穂高・山頂から「山荘に泊まり」翌日に「ジャンダルム飛騨尾根」での、快適な3000mの高み・でのクライミングを目的に、丁度・ジャンダルムのピ−クを巻くく一般・コ−スを私達5名が、通過している最中に、後続して来た一人の男性が、トラバ−ス箇所から不意に転落・コルから切り立つ岩壁を墜落。その、現場を目前で見てしまった・橋本さん・には衝撃的な体験だった。
その・男性・を私達が・すぐさま下降して救出。一端・安定したコル部の岩棚で応急的に緊急処置を施し。前日に稜線で挨拶を交わしていた・バトロ−ル中の県警メンバ−とも・中継しながらスム−ズな交信が行えたので、より安定していて、ヘリでのピック・アップ救助にも使える・広い山頂・部分を持つピ−クへ・通りかかった登山者・達にも手伝って貰って引き上げる。この時に、一人・若い登山者が怪我人を手当てしていたコルの岩棚部・上から見下ろす・位置から手伝う・つもりだったのか不注意に動いて「遭難者」の、上に大きな岩片を落としてしまう。不注意にも・ほどがある。気持ちが・先行して現状・認識や判断を正しく行えない。しかし、この時には止血作業や・位置の移動で精一杯の私には、その馬鹿者を強く・叱責する時間の余裕は無かった。
ピ−クに遭難者を移動するまでに、私は・その墜落して頭部からの出血が激しい男性に、何度も確認の為に『声』を、かけ続けていて。その「遭難者」の・氏名や所属グル−プの名称を聞いていて・実は最初・その「答え」に正直・驚いていた。理由は・あまりにも・その「場」には・決して・そぐわない。夏の一般コ−スで遭難・転落する様な男ではない「名前にクラブ」だったからだ。講習生・達には奇異に見えた・事だった。私が敬意を込めて・接している事を。「敬意」に値する・クライマ−だった事。若い時に・その男性が拓いた「黒部」の壁のル−トが一つの・目標でも・あった。そのクライマ−の激しい出血を押さえながら・まるで手術の後の医者の様な両手を・顔と共に見ていると・現実感に圧倒されそうだった。助けたいと思うのは、何時もの事だが・この時にも・強く思った。顔見知りの県警メンバ−が数人・奥穂高から・駆けつけてくれて、急遽・救助の為のヘリコプタ−の手配も進みだした。毎回、こういった場合には「要請者」が、必要で。この単独での「遭難者」には、現場での救助(民間ヘリ会社)への、要請には、警察・以外の誰かの・「後の責任・保障」が必要だった。県警メンバ−の顔色に出ている・意味・を読む前から、私が・その時には、その任に当たるしかない事は判っていた。
相変わらず・抜群の操縦テクニックを駆使して、僅かな雲の切れ間から遭難者を引き上げて、ヘリは松本の病院に飛んで帰って行き・搬出を見届けた私達は・予定していたジャンダルムでのクライミングは、諦めて急ぎ・岳沢に下山。ピ−クを降りる最中に見返れば・厚いガスに覆われて、ほんの少しヘリの到着が遅れていたら、今日中の救出は、不可能だった。運の強い人だ・無事に回復して欲しいと願った・・・・・
その後、礼状と共に「著書」」が、私達の元に、送り届けられたが。その「本」にも、書かれていた・大山・からの奇跡の生還を含めて、二度目の穂高での「生還」を果しながら・3度目の遭難から・生きて帰る事が出来なかった事を・ほんの短い期間が過ぎてから私は知った。とても、複雑な心境だった。
この「件」も、含めてだが。私は、幾つもの『現場・体験』を持っているが、遭難者の話しを、その場で活動していなかった人達に話す事は決してしない。そういった話題も嫌いだし。酒の席での話題にも、最も不適切だと思っている。だから、この穂高での、体験に関しても・その時に同行していた参加者・達にも出来れば他の人達には・喋らないで欲しいと伝えていた。だから、夏のシ−ズンを終えて、神戸に帰ってから「堡塁岩」で、大阪のクライマ−達から、その件を・あまりに詳しく聞かれるのが怪訝だった。その・件を見ていた者が・かなり広範囲に喋っていた事は後に判明したが。正直・不快だった。山での・仲間の不幸は・同じ立場に・いつ自分や仲間達として不運にも、襲われる・かも知れないから・・・・・軽々しく・ゲレンデ等で・
話の種に・すべき事柄では・無いと思う。
この・穂高での凄惨な体験からか、橋本さんは・あまり大きな山やクライミングの企画に誘っても・出て来る事は無くなっていた。
その、橋本さん・も私が企画して主催する「バリアフリ−企画」の山行や講習会では・頻繁にサポ−タ−として手助けしてくれていたので、視覚障害者のクライミングにも、他の人とは違って・充分な理解と共にサポ−トの実際面も知っていた。彼女からの電話で知った、少年の件は話しから判断すると、かなり危ない・ハイキングを行っているらしく、気には・なっていた。私への連絡を勧めてくれているとの事だったで、何か連絡がくれば・ぜひ、支援して上げて欲しいとの内容を覚えていた。
その後、しばらくして。その少年自身から電話が、かかって来た。大阪府立・盲学校」の学生で、子供の頃から視覚に障害を持ち。好奇心が旺盛である事・山への興味が強く、あるボランティア活動の企画に参加後に友人となった若者に、頼み近郊の山からハイキングを始め出して・六甲山で橋本さんに出合って・その不慣れなサポ−ト方法に、歩き方を心配されていた事などを聞いた。
その後。彼からの希望を聞き入れて、クライミング・沢登り・穴場のキャニオニング・コ−ス体験から、夏のスク−ルでのキャニオニング。一人で渓流で行うビバ−ク体験のサポ−トから、残雪期の本格的な穂高岳での山行までを、支援・援助した。その、頃の支援・サポ−ト活動は、私の多くの仲間達と共に、数年・・継続していたので数社のテレビ局や新聞から・私の活動・内容としても紹介された。
彼が、自身の障害と向き合って・真面目に将来を見据えて、いければ良いと思う。精神的な問題や
個人的な問題には、手助けは及ぼせない。
彼の様に、メディアで目立つ事に、抵抗が無く。自分から積極的にアピ−ルする事が・好きな『チャレンジド・障害者』は、少ないので・自分の意見や考えを、これからも表現して欲しいと思う。
(私と出会う前に、彼が登場した全国的な・感動番組や、私との縁で出演した、これも同じく全国的に反響が得られた特集のニュ−ス番組などでの、彼の発言が「「嘘」に、ならない事を、願っている)
自宅に戻れてから。被災時には・自宅から避難して数日後には、様々な形で外での「生活」に必要だった物資・支援を受けたIBS石井スポ−ツ・当時の店長で私とは古くからの、付き合いがありカヌ−イ−ストとしても、ユニ−クな、大村氏から、ぜひに・と頼まれて『講演』を、行ったのが縁で、視覚障害者を中心として国内でも数少ない、組織的な活動で積極的に山で活動している「ハイキング・クラブ・かざぐるま」創設のリ−ダ−・徳本氏と出会った。クライミング自体の能力や・厳しい山行での経歴で、人を判断していた頃は馬鹿な頃で、「人の夢」に全身全霊・自分の山での夢と重ね合わせて、自然体で活動している・その「魅力」は、これまでに見て来た・他の星の数ほど多くある「登山・組織」や「山岳会」とは、全く別種で・尊敬の対象としても、素晴らしかった。「講演後」に、誘われて参加した視覚障害者の山仲間が・全国から集まる「ハイキング大会」で、その活動の内容を実際に知り。個人的には・その活動を主導・活動している徳本氏の人徳と、パ−トナ−であり、「HCかざぐるま」を創設した、全盲メンバ−でピアニストでもある・葛原・女史の二人の「情熱」に、きっちり感化を受けた。それが、理由で専属の「アドバイザ−」を、要請・希望された時には、プロガイドとしての業務から離れた、一個人として喜んで、その申し出を受け入れた。それは、組織としての「かざぐるま」に協力すると言う、以前の二人の活動への支援と言う気持ちが先行しての・参加では、あった。
『震災ポランティア』と呼ばれて・取材から逃げ回ってカメラを避けていた自分が、
今度は自ら電話にFAXの前でマスコミに、大量の情報を送って『取材を依頼』している、姿は・ある意味滑稽だった。それを・苦にもならない心理状態と言うのは・やはり、この種の活動の面白さに・あるのかも知れない。自分の事ならば、決して出来ない事も可能だから、この時の努力?は、約5年間・ほど充分に見返りを与えてくれた。
『神戸コ−プ』が、主催していた子供達を集めたボランティア活動のグル−プ『地球子』とは、視覚障害者のハイキング・クラブ・カザグルマ『HC・C』や、尼崎『青少年・本部』の活動・等と私からの発案提案や要望に、毎回、快くジヨィント参加して貰えた。 |
バリアフリ−『山では』 |
関西でならば『視覚障害者のハイキング活動』を中心として、広範囲で積極的な社会参加の 「啓蒙・活動」を続けている『H・Cカザグルマ』『ヤマネット』や、関東の『しろうまの会』等は、もっと社会的に評価されるべき組織だろう。携わっている『善意の山関係者』も、登山の世界で大きく価値を認められるべきだと、私は思えて仕方が無い。 |
彼が望んでいる本格的な雪山や海外での登山は可能だと私は、信じているその『夢の実現』 には友人や仲間からの支援や協力が必要だ。そういった部分でも真摯に 真面目に取り組んで下さい。 |
99年から「スク−ル・ベ−ス」環境を得られてから、良い環境を利用して様々なプランを実現できる機会に恵まれ出した。ひとえに地域の理解者や新しい参加者の支援があってだ。 |
『視覚障害者』が自然環境での『遊び』や、憩いを求めた時に、この国の対応や、社会環境は『不公平』だと思う。 障害者の為に何かを変えるのではなくて、変える必要がある時代だと 気が付くのには、まだ・まだ時間が必要だ。 アウトドア・自然の中での遊び・活動なのだから・しかたが無い。 そうではないと私には思える。たとえばサポ−タ−・システムや障害者を、同じ遊びの「仲間」と見る社会。可能性を認める社会が広がり、もっと山の世界で仲間が増えれば、参加し挑戦する障害者は、出て来る。 疎外・障害を作っているのは、私達なのではと思える。 |
2006/04/06 (木) 0:05:14
『ある日の、お節介』 晩秋の穂高岳・涸沢小屋のベランダにて |
この時期、私が企画し主催して実施した各種・企画活動は、関西範囲を超えて『全国版』のTVニュ−スや新聞記事での報道も含めて、関連雑誌での特集記事や福祉関係やミニコミ紙面も加えて、量的に大量に紹介された。各種メディアでの、情報発信は広報的に見て、かなり広範囲で、内容も全てが好意的だった。 登山関係の専門・雑誌が注目するのは、ずっと後になってからの事でメディア的には、やはり『新聞記事』次いでTVからの取材と言うのが順番だった。中には、震災後の長田・地元FM局と西宮市の同じくFM局からの依頼で、慣れない番組・出演にも応えた。 『バリアフリ−・プログラム』と、丁度・関西枠での『震災・被災者=ボランティア活動』から『障害者・支援』等と各社マスコミが積極的かつ継続的に、活動に注目していた時期に重なった事が、強い追い風として表面化した時期なのだろう。『各種ポランティア活動への追い風』への、取材や注目を私は素直に受け入れたが、私の個人的な観察では、彼らの興味は決して永続性を持たない、一過性の出来事だと感じていた。良くて5年もしくは6年間ぐらいの期間が過ぎれば、彼らの意欲や注目度は失われていくだろうと、やはりと言うべきか予測していた通り、メディアは6年目あたりから、『追い風』を忘れ出した。 当時も充分に、予感・予測していたが、感覚的には意外に長期間・興味を引き付けていたのは『障害者・参加』の、過激なアウトドアにクライミングやキャニオニング、そしてこれまでに例の無い企画・内容が新鮮に映り、私が被災者であって過去に、国内初と言う『タイトル』を数種類、持っているというキャリアが幸いしたようだった。 『チャレンジド』の発信も彼らの目に留まる、大きな要因の一つだった。 |
障害者の登山組織から、個別の要請として『専属のアドバイザ−』としての活動・参加を請われた時に、まず私が考えた事は(願っていた)彼らの活動や主張が、もっと社会的に目立つべきだと。それは『聴覚障害者』と、かって欧州アルプスに挑戦した時に、山の世界『登山・関係者と言われる』から、得られることが少なかった『理解=共感に伴なう支援や応援』を、今度は正等に受けたいとの願いからだった。 保守的で差別的な意識や、山以外の社会の常識や、時にはモラル面で尊重項目にさえも、注意を向けられない、一種アウトロ−的な感覚を拒否しない、逆に、そういった風潮や姿勢を尊ぶ歴史や感覚を間違っていると思わない。そういった古いタイプの登山者・クライマ−からの、無理解とか無知からの偏見とかにも対抗したいと考えていた。 こういった実際の登山活動や遊びの時間の中で、本当に無意味で対応する事さえも面倒で精神的に疲れ、そして希望を疎外する問題の解決に『広報』と言う、ある意味の戦術的な対応策を利用したいとも考えていた。 『メディアからの情報・発信』や、影響を単純に受けやすくて組織的な活動が社会から認められていると感じると、とたんに態度が変る人達も、意外な程に登山関係の中には存在している事を、私は体験から知っていた。派閥やセクト的なグル−プ内での、年功序列的な感覚や海外での経験や登山雑誌に登場する回数や、記録的な価値観が物事の基本的な価値観と言う、かなり偏狂な意識を持った人達も、新聞やテレビという情報媒体の中で主張される意識や行動に、あからさまな反抗を示す事は本当に少ない。外見上のアウトロ−・アウトサイダ−的な、自己主張の裏側に全く逆の姿勢が見え隠れしている。 |
この裏六甲の企画は、人数的にも多くサポ−ト・スタッフや取材側のスタッフ・メンバ−も、かなりの人数となった。取材後の映像は、当日の夕方にニュ−ス枠で放映されて多くの視聴者の反響も大きく、他のチャレンジドにも、ある程度の影響を与えたようだ。 |
『六甲山・山田川』地獄谷で実施した『HCかざぐるま』メンバ−を講習参加者の中心として、視覚障害者が感覚的にも楽しめる『シャワ−・クライミング/沢登り』にて、毎日放送局(MBS)TV撮影スタッフからの取材を受けて、滝を登る『会長・葛原さん』 |
現実の世界でのクライミングでの【登り方・スタイル】は、別にして本物の『フリ−クライミング』とは本質的に【心が自由】なクライミングなのではと思う。 |
【バリアフリ−・クライミング】障害者(チャレンジド)メンバ−との本格的なクライミング&沢登り講習・体験 |
関西『不動岩での視覚障害者とのクライミング記憶』 |
『アドバイザ−』と言う役目を依頼されてからは、彼らのグル−プ単位での活動は内容的にも広がり、外部からの支援者の参加も増えた。健常者への広報的な広がりと共に、視覚以外の障害を持った人達にもハイキングやクライミング、雪山への参加かが楽しめるという情報が伝わって、個人範囲で活動に参加・協力してくれる人達も増加した。そして、当時の私が個人的に参加・活動していた『ポランティア』の国際交流・関係の仲間達との連携も少しは動き出し、多方面での交流活動や協力が発展するのではと期待していた。それは、多分に先を急いだ『希望的な予測』思い入れだったので、周囲から理解を得る努力に少し欠けていたようだ。 組織枠での活動が、本来は苦手で苦労する事が最初から予想されていたのに、私が5年間ほどの期間で何故?荒れほど多くの企画を主催し、実際の活動を連続して実施出来たのかは不思議だ。多くの障害者・関係者と相談を繰り返し、これまで協力体制とは無縁だった他の組織やグル−プと『カザグルマ』が山でのジョイント活動を行えて、交流企画が数百人・単位で頻繁に実施出来たのかも不思議ではある。 自分のことならば、不可能な事でも他の人のためならばと言う『震災後に活動を始めた』個人的な 活動から、新たに得られた意識面での成果だったのかも知れない。 |
80年代に聴覚障害の若い友人と、六甲山で最初の沢登りを楽しみ、その経験からクライミング等の練習も、彼らには充分に楽しめるという事を、私は体験からも理解していた。 私が24歳の時に、大阪の聴覚障害者グル−プと、欧州アルプスに本格的な『アルパィン・クライミング』を、楽しみに出た時にも、自然のトレ−ニングは関西・周辺の山であり、特に『六甲山』の、岩場には頻繁に練習に通った。 当時は、岩場で手話でコミュニケ−ションを取っている、私達は珍しい存在であったし、障害者がクライミングを楽しむ事も、そういった場面に出会う事も少なかったので、目立った事は確かだ。それから数十年が過ぎた・・・・ 多くの登山者やクライミング愛好家の視線に、大きな変化は見られるのだろうか? 大阪と言う地域?は、神戸市は? 関西は関東圏とは意識が違うのだろうか、差別意識の意識した、撤廃を未だに広報誌で訴えかけなければ・・・ 幾つかの、疑問は消えてはいない。 登山に関係する、集団のリ−ダ−達は。山の店では? かって大阪駅前の『専門店』と、自称し宣伝している店では あからさまな国籍に関わる、差別待遇を友人が受けた。 |
高校生の頃にアルバイト就労として『山の店』に入った。そして、数年後に店内で彼と出会った 聴覚障害の彼は、その後に山岳写真家を夢見、そして夢に向って着実に歩き始めていた。上高地の大正池ホテルに彼がアルバイトで入ったのも、写真専門学校に入ったのも私には、本当にうれしい出来事だった。 彼の映した写真には当時の山の写真とは違った、何かが存在していた雪山の犬とか・・・・その彼は私との再会を果さずに、彼も好きだった『穂高』で、一人向った『雪稜』から還って来なかった。 小屋横のキャンプ場から出発して行く、彼の姿を見ていた、登山者や小屋の番頭さん達から聞いた、彼の話は私の胸を締め付け、心は何度も泣き叫ぶのだが、一言、誰かと喋れていたら・・・・ 障害を持った人達には、同じ失敗を起こして欲しくは無い・・・・それでももし同じ様な、若者が現れて、一人で立向かいたいと言われたら・・・・プロガイドの立場としての答えは、言えるのだが・・・・ 『障害者/チャレンジド』関連での、山や自然の遊び環境で何かを行う時や、講演会などで何かを表現 しなければ、ならない時に、どうしても彼の想い出が脳裏をよぎる。 もっと行けるよ。そう努力の先の『夢』は、きっと適うよ。それでも、危険は、自由とは難しい。 |
それも、一つの理由で私は『R店』を利用しない 過去20数年間から、今現在も。 |
視覚に障害を持った人達との、出会いや実際の登山活動の中での『サポ−ト』体験の機会は『HCかざぐるま』との、関係を築く前から私には、穂高岳での長期・活動時から体験していたが、その当時に穂高岳や富士山・地元の六甲山で偶然に出会った、頑張っている人達の多くは、私から見て『少し、危ない』そして、無理をし過ぎている、そんな感触・感想を抱いていた。 そういった経験と意識を持っていた私には、聴覚障害者の後輩の穂高岳での遭難死と言う、忘れ難い痛恨の記憶も忘れ難く、その記憶は辛さと悲しさが交じり合って『障害者の挑戦する登山』に、人一倍の応援する気持ちと共に、違った感覚をも併せ持つ様になっていたので真情は。かなり複雑な時期ではあった。 懇意にしていた『山の店』店長からの、紹介で『講演』の依頼に応えた、初めての『かざぐるま』メンバ−を前にしての、彼らからの真摯な質問に、当時の私は少しばかり不用意に心情の一端を表し過ぎて『危機意識』としての、表現として『無理しない程度』『無難な範囲』に、関する話題や意見で彼らに応えてしまった。 それは、後に彼らとの親交が深まり、実際に山行を積み重ね、可能性の領域を広げるサポ−ト側からの努力と工夫に、現実的に対応する身となって、更に山を歩き、私の企画した歩行から、一歩・先の本格的な登山での遊び方を伝えるに従い、彼らの活動の姿と共に、視線に確固たる『夢』を見てからは、以前に無難な返答で応えてしまった『言葉』を強く反省し後悔する結果となった。 そういった経緯を経ての、その後の本格的な『クライミング』や『沢登り』『雪山』『アイスクライミング』の体験の機会の提供は、私なりの考えと試行錯誤から、生み出した独特の工夫を施した『プログラム』だった。ハイキングとは違った『山の楽しみ方』や、その先に広がるであろう海外への登山・山旅への、彼らの活動の進展を期待していた。 |
同じ様な『経験』そして、同じ様な『感触』いつも、同じ様な『対応や応え』それが嫌になるほど年数が過ぎても、大きく変らないという現実。街中ならば、諦めに似た気持ちや少しは我慢・忍耐も続けられるが『山の世界』には、つい大きく過度の期待を持ってしまう。 |
1989年の春 『ある日の不動岩』での、視覚障害者(チャレンジド)とのクライミングにて。 幼少時の進行性の視覚障害で、今は左目に僅かだが「光りと影や、陰影の強弱」が感じられる。その事を以前から知っていたので、午前と午後の岩場に当る太陽の光りを、追いかけ忙しく『壁下』を移動して、西日が傾き、熱かった日差しも弱まり、爽やかな夕刻の上昇風が心地良くなった。いつもの岩場の棚に二人で座って、汗ばんだ身体を冷やしながら今日のクライミング体験の話を楽しむ。 そして、その時に出て彼からの質問と言うか、希望の様な話題を察して私は『次はパラだな』そして、夏前に『カヤック』も一緒に楽しみに行こう。 彼は、その時の会話に触発されて翌年には、私が懇意にしているスク−ルで最初の飛行を体験し、カヤックでは無かったがラフトに乗って『激流下り』も楽しんだ。しばらく、会えなかった期間があって彼からの誘いで再び六甲山の岩場でクライミングを楽しんだ時の、彼には肩の筋肉も増えていて、顔つきにも大人びた雰囲気が出ていて、頼もしくなったと感じた。その後しばらく、私が長期のガイドで日本を留守にしている間に、彼は無謀運転者の不注意により、この世を去った。秋になり、御家族からの知らせで遅れた墓参。 数回の彼との『六甲山でのクライミング』は、どれも私が彼の障害に合わせて準備し、プログラムやル−トを選定し、各種クライミング用具も揃えておいた。当時は、アプロ−チに使える便利な『ナビグリップ』や、簡易型のサポ−ト・バ−も無かった頃だ。 不動岩でのクライミングは、ちょうど春の連休前の日曜日だったので、道場駅から岩場までに30人ほどのクライマ−に追い抜かれ、岩場の下の急登では下から、あまりにもペ−スが遅い、遅過ぎる我々に文句を言いながら更に多数のクライマ−が、追い抜いて行く。中には彼に声をかけても、あまりに動かないので手で押して行くような乱暴なクライマ−もいて、つい私も声を荒げるようなヒトコマも、あった。毎度の事ながら、混雑時の岩場や山道で後続者に、視覚障害者の存在を知らせるのは難しい。例え、ザックの後ろとかに『専用マ−ク』を付けたとしても、問題は本質的に解決しない事を知っている。やっと、岩場下・取り付き付近に上がると足の踏み場も無い先行者が、順番待ちと休憩中で、白杖が散乱するロ−プやザックに当る毎に座っているクライマ−達からは、怪訝な視線で見上げられてしまう。 まだ、関西では障害者の本格的な『登山やクライミング』を実際に、目にする機会の在ったクライマ−は少なく、この日にも不思議そうに、そして興味本位で私達を見る、視線に温かみを感じる事は無かった。 視線の多くには、明らかな拒否感覚「ここに来るべきではない」そう言いたげな雰囲気を表している人達も大勢いた。その感覚的な拒否、否定感覚を私が、感じる理由には、アプロ−チの車中から車道、そして山道の登り、そして岩場の中でも、同じ狭い場所に他のクライマ−が、いても一度も誰かから、声をかけられたり、苦労している箇所での支援や手助けを行なおうと身体を動かす人達は現れない。遠巻きに、目が合わないように、そして好奇心からか眺めているだけだ。 他の岩場で、頻繁に出会う『顔見知り』の、大阪のグル−プや他の岩場で会えば必ず一言ぐらいは、声をかけてきたり穂高の事や沢のル−トの事を、私に聞いて来るようなクライマ−達でさえ、今日は不思議と顔を見ないようにしていた。 この日、この岩場で『チャレンジド/障害を持つ者』の、クライミングへの挑戦に対して理解や支援の声「応援」の雰囲気を表現する者は、最後まで現れなかった。同じ場で環境を共有して自然の中で、遊んでいる我々は、あまりにも浮いた存在のようだった。その雰囲気としか『表現』出来ないような、感触や他のクライマ−からの視線を、直には見て判断できない友人にしても、その見えない視線の先から『強く、感じる』雰囲気は、嫌なものだったようだ。岩場では、一日中、敢えて、その事には触れずに過ごしていたが、大阪への帰路『福知山線・車中』での、しばしの沈黙の後で、彼は『しかたのないこと』『慣れてますから・・・・・』その言葉を、私に伝えてくれた。岩場の中や、取り留めの無い山中での歩きながらの「会話」なら、多分・それは自然と聞き流す、そんな短い『感想』をクライミング後に聞くのは、毎回の事ながら私には辛く、寂しい。 こういった短い『言葉』に逆に、短い言葉だからこそ、私の胸には響くものが大きい。年月が過ぎて、悲しい『訃報』が私の元に、遅れて届き、あの日の『不動岩』で眼下から光りを反射する武庫川の開けた、明るい風景と風を感じていた岩棚で、彼に手ほどきしていたロ−プの結び方や、カラビナ等の使い方を教えて、直接に彼の手を取っていた感触や、笑っていた横顔と共に、電車の中で悲しそうに、うつむいていた横顔も同時に想い出してしまう。もう、20数年も前の事だ、あの当時の岩場で出合ったクライマ−達の視線は、大きく変化したのだろうか?『街中でも山でも』本当に、良い方向に変化したよ、そう言いたいものだ・・・・・彼に |
この頃から感じていた事は、視覚障害者メンバ−との登山活動・支援(サポ−ト)は、どんなに慣れた人でも安全性を確保するには、各実なのは『ワンツ−マン』が基本。不正地・歩行が連続し、内容が厳しく困難になれば、名称が山歩き、ハイキングでも後方にもサポ−ト要員が必要となります。どんなに一般的でも、初心者向きと言われるコ−スや低山でも、内容を考えてバック・サポ−トを増員。それが基本的な『安全基準』と、言うものです。ある程度『無茶』強引な活動も、仕方の無い状況と言うのは、あるでしょうが『無謀は危険』です。 |
86年、涸沢での本当に長い期間の定着キャンプ生活での『ガイド活動』も、顔見知りも増えて地元の関係者との関係も良かった時期は、小屋にも心許せる友人にも恵まれていた。特に『涸沢小屋』や『常駐隊』には、かなり山での生活を助けて貰っていた。 そんな頃、北穂高岳・滝谷での3日間のクライミング・ガイドの仕事を終えて、いつもの様に午後も遅く、目前の北尾根に陽光が遮られ出した時間帯に、小屋のベランダでザックを降ろして一息入れた時、小屋の補修作業や機材の整理に追われて、忙しそうに働く小屋の新人達に指示を与えている小屋・番頭のアライさん、に声をかけられて毎度のビ−ルを御馳走になっていると、隣が何か騒がしい。冷えた、ジヨッキ越しに3人の登山者と取り巻く数人の人達。どうやら、3人組の登山者は明日の、小屋からの下山を、どうするか?思案と周囲の登山者とも相談中で、誰も、具体的な決定を下せないように見えた。周囲を取り巻く、他の登山者にも良い方策を、助言できないようで、その周囲の多くの登山者は、その問題に何か、関わりたくないような雰囲気を感じた。彼らの話題・会話を聞くとでもなく、かってに耳に入っていたので彼らの問題は凡そ理解できていた。『大変そうだなぁ〜』と、思っていたら、一人の小屋の従業員が、彼らに向って私を指差した。アライさんも、それに合わせて、舟橋さん、に相談しろと言っている。ヒ゛−ルを飲むのを止めて、小屋の中に戻るキッカケが無くなってしまった。ここから(涸沢小屋)横尾まで・・・・・ 彼らから直接、話しを聞かなくても私には充分、彼らの問題が見ただけで理解できていた。テ−ブルの角に立てかけられた『白杖』の、意味する事を。登って来たのも、大変だったろうが、一人でサポ−トして二人を、ここから安全に下山させるのは、更に労力が必要で大変を通り越して『危険』な行為だと感じていた。周囲の登山者達が何、明確な答えを出せないのも無理の無い事なのだ。誰からも助言や手助けが無い状態で、彼らの口論・会話が声が荒くなり出したのも仕方ない。さて、小屋の従業員達は私からのアドバイスを期待しているようだったが、興奮している彼らは、私の方を向かないし助言を求めても来ない。その場は。何も変化が無いので、私は自分の部屋に戻った。多分?私が何かしら関係してしまうだろうという予感は、あったが、まずは装備の整理や夕食である。そして、予感どおり、夕食時3人は小屋の配慮で私の前の席だった。オヤジさん、からの指令だな、給仕の手伝いから少し会話が始まった。 これも何かの縁でしょう、けっきょく翌朝は早朝から小屋の前で昨夜のうちに私が準備しておいたサポ−トに使う、補助用具としてクライミング・ロ−プや業務用のレンタル品・各種・ヘルメット等の装備を彼らに説明しながら、装着させる。こうなるだろうと、ビ−ルを飲み始めた時から予想していた。ここまで(涸沢)までの、登りで疲労している二人には念の為に、両足首に私の手持ちのテ−ピング・テ−プを全て使い切って、捻挫の予防を施しておく。これで、この緊急セットから私のジャミング用のテ−プが無くなってしまう。下山が決っているのに、視覚に障害を持つ二人は、まだ当初の予定だったらしい『奥穂高や北穂高』への、登頂に未練が残っているらしく、付き合って来た仲間に文句ばかり言っていた。私から見て、この3人は、ここまでの行程・行動で完全に余力を失っていて、体力的にも精神的にも消耗し切っており、先に登山活動を行える余裕は全く無さそうだ。俗に言うところの『限界領域』に入り出している。会話が成り立たず、常識的な会話が進まないほどに、興奮している辺りからして問題点ありなのだ。前夜の小屋での、夕食時に相談を持ちかけられて、その時点で 諦めておきなさいと、はっきり伝えておいたのだが、北アルプスまで何度も来る事は適わないと言う気持ちが彼らに強いのは承知。それでも、無理をさせる気にはならなかった。明日、降りるならば『横尾山荘』までならば、サポ−トしてあげよう。彼らに私の助言が完全に、伝わるかどうかは彼ら次第。結局、夜が明けて小屋前で再び、彼らの口論は再燃していた、仕方なく、昨夜の助言を再び、二人は納得してくれたが、一人は中々、理解しない、それでも何とか現実を理解させる事は出来て、遅くなったが横尾に向けて下山を開始。 『想像していた以上に』横尾山荘』まで、苦労して、通常のコ−ス・タイムの倍の時間をかけて山荘に到着。山荘の御主人への挨拶も、そこそこに私は『涸沢』へ走って帰る。この頃は、まだ余裕で往復が可能だった、そして、この種の『お節介』も気楽に身体が動けていた。今なら、同じ事を行えるとは思えない。 |