『世代的』には、今ほど、自分のクライミングが環境や異なる意識の、クライミング・ジャンルやスタイルの情報の波で、揺り動かされずに済む・クライマ−のコミュニティ−環境が、穏やかな?時代からクライミングを始められた。標識紐や工事用タイガ−ス模様ロ−プや地下足袋の、お世話にも・なったし。確かに、先輩達の様に運任せの、危ない「時間」を山で過ごした経験も持っていても、変化の兆しを感じられる、最も楽しい時期に自分のクライミングの方向性を見出せた、運の良い
『世代』ではある。
他の、殆ど全てのクライマ−の視線と憧れの方向が、欧州アルプスとヨセミテに代表される『ニュ−・ウェ−ブ』に向い始めていた頃。何を間違ってと、周囲から思われていた過去の『アルピニズム』斜陽化の波に、入り出した英国に私は、渡っていた。しかも、滞在期間の2年の中の半分近くの期間を、放浪に近い
『彷徨い』『旅』に費やし。8ケ月は、運命の悪戯?で、何も無い・正真正銘、物質的には何も無い、荒涼とした北の辺境地でクライミングとは程遠い、変わった職業に従事していた。
『登山』『クライミング』『アルピニズム』『アルパィン・クライミング』の・漠然とした『文字』の中から、何を感じ・何を思うか???明確で明瞭な・区分や歴史的な変換を正しく説明する為の、学識に欠け・文才にも恵まれていない私には『アルパィン・クライミング』とは・の答えを・文字で表現するのは・クライミングを超えて遥かに困難な課題。言える事は、文章・表現で全てを、表せない素晴らしいクライミングが、この世には存在していて・多くのクライマ−が個々に、自分なりの答えを探している。
言葉には・表現方法として・多くの行為者は若い自分に
『夢』を友に語るものだから。言葉に発する『アルピニズム』の多くには、文で読み、理解する世界とは、また違った世界を垣間見る。
『文を書く=恥をかく』と・同義語。
これは、稚拙な文章を岩崎氏に、煽てられ・薦められ・要望されて『岳人』なんぞに長い期間・連載なんぞ・して・しまった時に聞かされた名言。
酔って・喋る連中の『アルピニズム』や危険なクライミングに昔から・あまり興味は抱かなかった。数少ない、例外は別として・・・・
明らかな現実は・「死への意識を持った・クライミング」この、否定し難い意識を持った行動には、絶えず・心を揺さぶり・安全、安定の世界への復帰・逃避を要求する理性・己との葛藤が存在する様だ。後悔もまた同じく・・・・
『登山』の一形態の中での「危険を甘受」しての、行為・行動と言うのは判り易い表現で
しょう。その世界の中に、私は個人的に・単純に自分の世界には確実に安全が・保障・
された『スポ−ツ・クライミング』や、それらに類するジャンルのクライミングは、含まれて
は、いない。あまりにも、多様化した『山の世界』では、その広がった世界から選択し実践
できる領域・ジャンルは、多くは無いかもしれないが・『山岳飛行・アルパィン・フライト』からベ−ス(クリフ)ジャンプや冒険的な要素や、開拓の可能性を数多く秘めている『リアル・キャニオニング』を、も私の中では矛盾せずに存在していて・『ネクスト・ドリ−ム』は終わる気配すら感じない。 変化・変革は認めたい。
『アルピニズムは遊びだ』
=上田鉄農『岩と雪・8号』
遊びなら・遊びと・はっきりと表明している『アルピニズム』論は明解・明快
修行・期間が長く必要で。快適な環境ばかりで楽しむ事が出来ない「アルパィン・クライミング」に、若年層が以前の様には参加しなくなった。
中高年者・層が増えた・現在の「山の世界」では、命の危険を客観的に・見て・判断出来る・予測して「明らかに危険」な、遊びに・常識を弁えた年代・世代の人達が本気で加わる・可能性は少なく。それが・良いとも考える。
『危険を甘受』しての行為、実践がアルピニズムだと考えれば、この時代の中で冒険・本質的な挑戦に立ち向かう種類の、人間は少なくて当然。山が唯一「冒険」の代名詞だった、時代は過ぎている。
近年の「冒険」で、私が最も心震え・感動を覚えて・ある種の尊敬心で、その記録に驚嘆したのは、山やクライミングの記録ではなくて・太平洋をカヤックで、漕ぎ渡った一人のアメリカ人の・断片・情報だったから。エド・ジレット・残念な事に、この驚異的な「冒険」を成し遂げた男の著作は無い。どこかの、国のクライマ−の様に、自分からマスコミに、己の冒険談を売り込む事も、自伝を書いて儲け様とも、考えていない様だ。
ガイドとして登る山に、見る夢は個人の遊びの世界 とは違った、困難性と達成感を秘めている。 |
『美しい時間』を共有できる素晴らしさ。ガイドである事の素晴らしさも得られる、幸せな時間を与えられていると思う。 |
2006/03/29 (水) 18:10:49
神戸登攀倶楽部に所属する以前から、ずっと一人でクライミングを行っていたのと、子供時代に幾分、封建的な集団活動と、古いタイプの組織キャンプの洗礼から、影響を強く受けていたので手頃なハイキングでさえ、一人で活動できるようになってからは、他の人と行動を一緒に行うのも敬遠していた。小学校の頃に『右向け、右』の理由を、教師に質問するような、反抗的な子供だったようで、基本的に組織的・集団活動に適応するのは困難な性格を持っていたように思える。クライミングも一人で、楽しめる事を知ったのも、早い時期からだった。 できるだけ長く、そして降りる理由を探さない、社会適応よりも自由に遠くに、そして街中の生活よりも自然の中での時間を守る為だけに生活していた。一度、壁から敗退しても、再び意識を集中させて壁に戻れるだけの能力も持ち出し、一つの壁から、次ぎの岩場・ル−トへと、力を付ける事だけが目標となっていた。 『六甲山』から、『伯耆大山の北壁』そして『穂高岳・南アルプス』『八ケ岳』の経験から、欧州アルプスへと古典派の先輩達の示してくれた、指針や方向性を最初の頃には守って進んだ。 |