『芦屋ロックガ−デン 高座谷F2〜奥高座滝』 |
『芦屋ロックガ−デン』の、玄関口とも呼ばれる『大谷茶屋』すぐ先の『高座滝』は、右岸(滝を正面に見て左壁)に、この地で国内で最も初期にロッククライミング活動を開始した『RCCの藤木氏』の、業績を記念したレリ−フが設置されていて、滝下を渡る小さな橋は文字通り『ロックガ−デン』への入口に位置していて、大抵の人達は、ここを訪れれば誰でもが、この滝の存在には気が付くが、この『滝』の上に、更に大きな『滝』が控えている事を知る者は、意外な事に、いないのが実情だ。 かって車道が茶屋近くまで延びていず、この小さな渓が谷底・深くに食い込むように残されていて、現在の二つの『山の茶屋』が渓流の真上に跨ぐように、建てられていなかった時代には、六甲山の中でも珍しい細いながらも、岩盤をえぐるように、水流で浸食された得意な沢が存在していて、現在の誰でもが手軽に、そして苦なく滝見物も出来る『高座滝』は、下流から数えて5ケ目の目立ち、そして困難な課題として古い時代の探査者、挑戦者達の前に、立ち塞がっていたそうだ。現在は、この多くのハイカ−の絶好の溜まり場、休憩場所でもあるロックガ−デン入口の『高座滝』に取り付くような、物好きなクライマ−も沢屋も存在していない。 多分?この30数年間で、その物好きは私ぐらいだと思われる。 1970年代の中頃に、仲間を誘って最初に『高座滝・現在のF1』に取り付いて、2段目の垂直の滝を見上げた時には、当時の乏しい用具で突破する可能性は無かったが、それでも初挑戦時には滝の下段部は攻略できていて、その後にボルトも使用して、今では『不法な野生・猪の餌付け場所』と化してしまった、最初の砂防堰堤、直下の滝の落ち口までのル−トを開拓した、このル−トが最初の完登ル−トであり、初登記録なのだが、私が最上部へとロ−プを延ばす途中に、腐食して原形も留めていない過去の挑戦者達の痕跡は発見していた。それらの朽ちたピトンやボルトは多分?50年〜60年代に、残置された物だと思えた。 初登後、それほど多くは再訪、登る機会は無いが、講習企画やTV番組の現場ロケ地として、これまでに数回は利用しているので、私のガイドで完登した人は、20数人はいる。この周辺では芦屋川・大滝と共に技術難度の高い滝ル−トだが、2002年・以降は私は取り付いていないので、残置支点の欠落の可能性は高い。 『芦屋ロックガ−デン』愛好家や、この周辺に精通していると思っている登山者にも、意外な程に、この奥まった位置に存在する、この周辺では最も大きな『高座谷F2』の全貌を知らない。そして、この滝を登った経験を持つクライマ−も殆どが、私との付き合いのある人や、私の講習に参加した人達だろう。 こんなに近くて、便利でアプロ−チにも終了後にも何も問題の無い、格好の『遊び場』が、知られる事なく存在している事が、ある意味で『六甲山の不思議』の一つだとも言える。 |
最初の『滝』落ち口周辺は、かっての取水用のコンクリ−ト基礎の残骸や、現在も残っているホ−スや年々と上流から流されて堆積して来た、土砂と岩で30数年前とは雰囲気が激変してしまった。『藤木レリ−フ』からの、かっての巻き道は『取水導入台の名残』まで、現在でも繋がっていて、クライマ−で無くてもF2滝下に接近する事は可能だ。増水時は狭い谷底の、滝直下は凄まじい水流の飛沫で、ここが芦屋の沢かと思う環境で、最大増水時に、このF2に取り付くのは非常に困難になって、かつ本当に面白い。 通常、水量(下・写真)の時でも、ル−ト上のクライミングは完全に水圧抵抗や水流を浴びての、本格的な仮題となり楽しめる。 毎回、このF2を攀ていても殆ど誰にも、気付かれる事は無く何百人もの登山者、ハイカ−が左側の中央稜の石段の登山道を通過しながら、その下の滝の存在さえ気付く事は無いようだ。 『高座谷F2』以降は、古くから存在する砂防堰堤により過去に存在していた『滝』は、全て埋没していて数少なく中流部に現存する『滝』も規模は、小さく『F表記』で、公開される事は殆ど無いはずだ。 キヤッスル・ウォ−ル直下から、上流に入っても『奥高座滝』が、唯一の『滝』らしい『滝』であり、下段・上段共に過去の形状とは大きく異なる状態。滝芯のクライミングも過去の、核心部は崩落してしまい技術難度は甚だしく低下。ここより上流は、渓流の全体傾斜も急激に緩まり、水量も激減し、小滝とも呼べない程度の段差が幾つか存在するのみで、過去の記憶に残っている、奥深い山の渓流としての雰囲気は消えてしまった |
RCC時代の先輩達や、昭和の登山道の探査から開拓に尽力した人達が、今の現状を見れば涙するかもしれない、明らかに悪い方向での変貌箇所。かっての『奥高座滝』の雰囲気は失われてしまった。 震災の影響を受ける前から、この『滝』と、更に上流域の『小滝』は、徐々に深山の趣は失われ出して、滝そのものの、形状や難易度にも大きな、変化が生じていたが、2003年から被災後に緩んだ地盤による影響が甚だしくなって来た。そして、過去の歴史や先輩達の想いも、記憶も継承しない輩が、自然環境に無残で悪質な痕跡、影響を数多く残すような場となり、時には地名や固有名称の看板類が、基本である表記を間違っていたりと、とても『ひどい状態』へと変貌し出している。40年の前の『滝』の形状を覚えている、登山者も少なくなった。 震災以前から、この『奥高座滝』周辺と、上流域は一種の『山の中の無法地帯』勝手気ままに、新たにトレイルを拓く為だけに、樹木を伐採したり、土砂・山地に手を加えるのを筆頭に、人力で移動可能な重さの岩を移動させて、自分達の為の『宴会用?休憩用』特性地を製作したり、水質の保障や保守・管理も適わぬ箇所に、自由勝手に新たに『水場』を設置、その周辺に自分達だけが利用したいらしい、一種のコヤガケも設置とか、いらぬ残置ゴミの標識や、正式な名称を意図的にか、かえての地形表記の看板類まで、完全に個人の『庭や所有地』感覚としか、考えられない。滝横の岩場に通行の補助としての『固定ロ−プの残置』は、取替え時期は未定で、責任の所在も設置者も不明。誰も責任は問えず、数年ごとに起きている、悲惨な事故の誘引、原因とも成り出している。非常に粗悪で、老朽化した安価な紐や、針金なども設置されている場合もあり、時には設置者の機嫌か?取替え前なのか『固定物』その物が、存在していない場面にも遭遇する。 基本的に、過去からの慣習、登山の常識としてクライミング技術の練習経験や、心構え、意識を有した者が自身の判断と、責任において挑戦する『滝や側壁・岩場』を、固定ロ−プ使用で、ハイカ−が登る事自体が間違い。固定の確認や、結束箇所やロ−プ自体の強度にも、確認が取れない筈です。 |