『阪神・淡路・大震災』

過ぎてしまった『現実』だとは、思う。
被災・体験が良かったと言える訳は無く。
失った・時間・財産・友人は戻って来る訳ではないが・得たものも少なくは無いと思える様には、なって来たのかも知れないそう・思いたいと望んでは・いる。

自宅に戻るのには、当時
余りにも『余震の恐怖』が、強かったのと・生活環境としての自宅・室内の回復は無理だとの判断で、屋外に他の多くの人達と同じ様に・避難・場所を求めた結果。初日の夜は、車道に天幕を張って寝た。数日後、近所の数家族と建物・北側の畑を子供達と整地して、キャンプ・スペ−スを設営した。ここが、しばらくの・仮の宿、避難・生活の場所となった。

あの、日は忘れられない。まず、考えた事は前日に鉢伏スキ−場に、一緒に遊びに行って地震が起きる・数時間前に高速道で別れたばかりの友人達の安否だった。当日は、早出で西に向うと言っていた・・・

数日後に、無事だった事を知る。向こうは・逆に心配だったらしい。何しろ、私は現場に住んでるから。

『西宮市・体育館、近くの野球場』に、急遽・建設された
「仮設・住宅」に、避難・生活していた子供達を誘っての・仁川渓谷での「沢登り講習会」

当たり前だが。無料「講習」
講習生徒・達と、私の山仲間、活動に加わっていた若手メンバ−等も、引き連れて1日・遊ぶ

朝日新聞にも・活動が翌日「掲載」されたが、あの頃には資料を保存したり・まとめるのが
「活動」の方で、忙しくて。今は無い。
TV取材は、ひたすら御断り。カメラから、ひたすら逃げ回っていた。

No1

涸沢での長期露営の頃には、殆ど毎夏の定例・来襲の『台風』で生活・居住に使っていた「『天幕=テント』を壊しては、替わりの「テント」を入手するまでの期間を、廃材・風で飛ばされて来た木材(ダケカンバの枝)とか。要するにキャンプ場・周辺で拾って・使える「ゴミ」を最大限・使用して。壊れたテントの生地や、フライ・シ−トにツエルト。これに壊れたテント・フレ−ムと周囲の石で「小屋もどき」を製作して、雨露・寒さを凌いでいた。

そういった「山での体験」は、実は今回の被災経験の生活でも充分に「精神的」には、私に他の同じ・環境で被害を受けた人達とは違う「一種の心の余裕」として、活動にも良い影響を与えてくれた。

何よりも「現状」を。理解できた2日目から、私には今からの「生活」に、これまでの継続は不可能との思いが強く。「ガイド」としての生活の継続には、諦めの心境だったので。一種の「開き直り・感覚」が強くて、・人生の中での、自分の夢や力だけでは、どうしようもない「現実」に、あがらえない「現実」を理解していた

登山・クライミング・その行為から学んだ
知識や技術とは、思えないが。プロガイド゜
を、目指し。職業課程で学び、習得した
知恵と経験は、ボランテイア活動でも、充分
に生かされた、と思う。
緊急時・対応には強い『職業』だと思う。
責任と義務感にも、強い。

避難所の、本部リ−ダ−に・なったのも
何かの、縁だろうし。若い仲間達を統率
支持系統の、中で自由に動けたのも
プロガイドの長い、経験から得た能力の
ひとつだった。
当然だが、沢登り講習会と同じプログラムで実施した仮設住宅に住む、子供達を招待した、この企画に関しては『無料』で、実施。
自分の、得意ジャンルを活動に使えるのは便利だ。
『プロガイドなんだから、やっぱり山遊びで支援』
『若いボランテイア・メンバ-を支援する。出来る事を、出来る範囲で』
『被災後・の登山関係者・機関の支援
人生の中で、二度『同じ仇名』で仲間から呼ばれるとは、思っても・いなかった。
『涸沢』の、頃に呼ばれた名を、まさか街中『避難所』で、再び呼ばれるとは・・・・・
明るかったのは、対岸のガソリン・スタイドだけだった。今は、周囲にマンションが立ち並び大型ス−パ-が賑わう。近くの小さな「公園」こんな、場所で焚き火なんか、今ならば考えられない。
『避難所』の写真は使わない。使いたくも無いから。
別に。楽しい『記憶・記録』だとは言えない。それでも『過去の記憶』としては貴重だ。まさか、再び山の世界に戻れるとは・・・・当時は、本気で引越しを考えていたのに。街中で炊き出しとか
そういった事が、普通・日常生活の中で毎日、続いていたのが不思議だ。
日本レクレ−ション協会や視察・見学を目的とした他地域の活動団体からも、頻繁に公園での活動を見に来ていた。メディア関係者は、古くからの付き合いがあり、被災後遺症のアドバイスに東京の慈恵大・精神科の専門医を伴なって、訪れてくれた「朝日新聞社」からの記者・一人。他は、全て取材を断っていた。
電池類を大量に、西宮市の社会福祉・協議会からの経由品として。復興・支援物資から供給してもらっていた。被災直後、周囲も真っ暗な状況で、ガスカ−トリッジも入手が困難な時、電池ライトが活躍していた。
無名山熟の鳥取分校の田中ガイドが、鳥取・社協を引き連れてトラックに物資を積んで、応援に来てくれた。山の世界では数少ない、個人枠から抜け出た規模の大きな支援活動。希望が広がった
宝塚の『手塚治・記念館』が、支援品として大量にアトムの、お面を譲ってくれた

ICI石井スポ−ツ『新大久保店』から
緊急援助・支援を受けた。

同じく。活動への特別な支援を『アライ・テント』
からも受けました。

『役に立つアウトドア用具』みたいな特集記事を雑誌類で頻繁に目にするが
本当の意味での『情報」は数少ない。
西宮市『上ヶ原・広田』『中央体育館・公園』範囲での『子供遊び隊・活動』のフアイルや写真は大量に保管
他に活動・関係資料も保管中なので、情報整理と資料の『補完情報』整理後に公表予定。
1月17日の早朝。関西・阪神地区を突然に襲った『大地震』は神戸市を中心に私が住む街にも、壊滅的な被害を引き起こした。
被災後の『現場ボランテイア活動』で、風雨から大勢の子供や仲間を守ってくれた
自立式『特大タ−プ』はICI石井スポ−ツ新大久保・店よりの連絡で『アライテント様』
から、無償提供を受けました。充分に活用できました、遅れましたが
・本当に・ありがとう・ございました。  (アライテント)サイトへGO
一緒に『活動』に、参加して働いていた若い仲間達にも負傷者・怪我人が多かった時期だ。
『山関係』では関東の『無名山塾』主催の岩崎氏が積極的な支援の手を、差し伸べてくれた
2月に撮影。3月号の『兵庫県ボランテイア広報誌』表紙に使用された
舟橋 健