三重県 名張『小太郎岩・算盤(ソロバン)ルンゼ』
『算盤(ソロバン)ルンゼ下部壁/中段壁/小太郎岩・上部岩壁/ソロバン・ルンゼ最上部・岩壁』
大阪のクライマ−から、近鉄線の名張駅から近い渓谷奥に、本番並みのスケ−ルで穂高の屏風岩・東壁の諸ル−トに向けての、格好のエイド・ル−トが存在していて、その巨大なオ−バ−・ハングを突破するのは、かなり困難だと言う情報を得たのは1970年か71年の、春頃だった様な記憶がある。
とりあえず、どんな岩場やル−トが待ち構えているのかと言う、単純な好奇心でカラビナ類を、かき集め、テント類に鍋などのキャンプ用具も一式、背負って名張駅から、深夜の車道を歩いて目的の『小太郎岩』に向ったのが、確か71年か72年の、粉雪が舞っていた正月開けの寒い季節だった。
『正面壁ライオン・ハングから上部5段(逆鍵盤)ハング・ル−トを継続・突破して横断バンドをトラバ−スして、算盤ルンゼの2段目ガレ場の右端に出てから、3段目と4段目、そした最終上部壁を突破したのは風雪の中の記憶。相棒もアイゼンを付けなかったので、私もクレッタで、アイゼンも付けずに湿った雪が大量に付着した3段目からの、極悪ピッチを全てトップで突破した。かなり危険なクライミングの記憶だが、達成感は高かったと記憶している。ちなみに相棒は同時期に、私に遅れて入会したI氏。神戸登攀倶楽部のメンバ−として、このクライミング後から、長く活動を共にした。

相棒は大阪店で、知り合ったO君や、同じく店にお客として出入りしていて小豆島の拇岳や、藤内壁などにも頻繁に他の仲間も呼び集めて、賑やかに遊んでいた大阪のクライマ−達で、それぞれの所属組織は違っていて、後に主力のメンバ−は紫岳会などの活動に加わった。その他のメンバ−は、これといった組織に所属する事も無く、岩場や店に立ち寄った帰りに梅田の眠眠(ミンミン)や、喫茶店で長時間、たむろしては次ぎのクライミングの計画を立てては、それぞれが自由気ままに山を楽しんでいた記憶が残っている。
(上・写真)の撮影時期も、やはり木々の葉が全て落ちて岩場の探査・ル−トの確認が容易になっていた冬のようで、1972年か?74年までに私のカメラで写したもののようだ。当時、1970年代の前半期の1月〜2月には、ルンゼへのアプロ−チも完璧に凍結していて、下段部の中央・流水部分に厚みは無いが、真っ白に凍結した垂直の白い帯が見られていた。下段部、右側は小太郎岩・最左端の現在の一般的なラッペル・ポィントとライン上は殆ど同じか、僅かに左側の潅木の多い、傾斜は急だが各所に階段状の段差のある岩壁帯に、最初の私達の開拓ラインを設定。70年代には、このラインと先輩達が過去に開拓・初登していた小太郎岩・正面壁を登攀後は上段・壁との境を、すっきりと横断している終了点バンドの右端から、ライオン・ハングや左上ハング帯を避けて、正面壁からラッペルするのが一般的で、安定した横断バンドの右端に、その下降ポィントが存在していた。このポィントの立木が枯れ落ちて、多くのクライマ−が下降点を逆にバンドの左端のチムニ−状の下降開始点に写し出したのは、1980年代になってからの様に記憶している。歩いて、下降するライン・下降路が存在していない中段岩壁の範囲では、このラッペル・ポィントは毎回、重要で70年代には現在の様な50mロ−プの利用者は存在していず、時たまだが40m以下の長さのロ−プ使用で、下降途中にトラブルを引き起こしていたグル−プも数組、私達は目撃・遭遇していた。

製作開始 Friday, 08 May, 2009/Tuesday, 14 July, 2009 資料写真を整理中

1960年代から、クライマ−の挑戦が本格化した関西屈指のエイド・クライミング・エリア
『算盤ルンゼ』『小太郎岩』を理解するのに、最適な1枚
30数年の月日の経過で『算盤ルンゼ』は、すっかり潅木や立木に覆われ出した。
1976年から、下部壁から3段目までに4本の、それぞれ交差しないオリジナル・ラインを開拓
『算盤ルンゼ下段・左壁』から、2段目への侵入斜面とルンゼ、及び右端ガレ場の範囲に私達が残した痕跡や新規開拓した2本のル−トに関してだけは、80年代の『岳人・記録速報』等に、簡単な記録を紹介しています。
2006年〜2009年、噂では『この岩場が゜未登』とかと表現して、既成ル−ト横・数メ−トルや過去のクライマ−の足跡の上をナゾリナガラ『開拓の表現』を使用する、クライマ−も存在するらしい。
九州の仲間と開拓した記録は『岳人』の、記録速報に出ている筈なのだが・・
情報を整理後に、追加加筆する予定です。
『小太郎岩・正面壁』下段から、ライオン・ハング、そしてへ正面壁・5段ハングを突破して、風雪の悪コンディションの中を『算盤ルンゼ』へ継続して、最後の壁を抜け切ったのは、夕暮れがせまる時間帯だった。この時が、算盤ルンゼを完登した最初の記憶だが、最も厳しい条件下だったので記憶に強く残っている。
『堡塁岩』での珍しくメンバ−全員が写ている記念写真のアルバムの中で、見つけた『冬季の算盤ルンゼ完登』時の、僅か3枚の写真・記録は多分?1973年の写真(下・写真)裏にメモ書き、してある記録は7ピッチ目でのクライミングと書いてあった。最終ピッチ手前だと考えられる。
今では滅多に見る事は無いだろう『算盤ルンゼ上部の氷瀑』をバックにした写真。

1973年の『算盤ルンゼ』完登時の写真を09年10月23日 金曜日に、追加できました。
相棒は同じ『神戸登攀倶楽部』のメンバ−である、石川氏であった事も、写真で確認。
当時でも小太郎岩からの継続で、冬季に『算盤ルンゼ』継続での、完登記録は珍しかった。