『NHK・稜線の詩』取材時
写真・記録 1978年
穂高岳には、かなり精通しています。 ダテニ、村長と呼ばれる愛称を頂戴している 訳では、ありません。 |
今なら、誰も信じない長期・涸沢での露営(キヤンプ生活) |
2006/04/07 (金) 6:57:18
『涸沢圏谷=俗に涸沢カ−ルと呼ばれる』 ここに生活スペ−スとしてのテントを張って 穂高岳・周辺の岩場と岩稜・高山植物群落 の世界で、長く遊んだ。 そして、その生活の延長線上にプロガイドの 道が拓かれていった。 |
最終的に『長期滞在』を続けなくなった頃までに、涸沢だけの為に使い、台風や積雪で壊して使えなくなった各種『テント・天幕』の総数は20張りを超えた。居候の為に上げた様な大型天幕に個人用の生活用テントに倉庫代わりに使用していた少し、小さ目のテントやツエルト類を含めてよくも・これだけ数多くのテントを毎年・穂高に持ち上げたものだと思う。ホソノのグラスファイバ−・フレ−ムの小さな『カマボコ型テント』から冬季用・小型ウインパ−A型ポ−ルの内張り付きテントから、使い始めてノ−スフェ−スのVE24やICIスタ−ド−ムまで、テント職人では天才と呼ばれた神戸の『トモミツ』氏、自らが作ってくれた何種類もの面白いテントまで、恵まれた環境と条件を得られた事に感謝。 |
涸沢ベ−スながら、6〜7年間の活動は、意外と広範囲でベ−ス を安心して留守にできる、恵まれた環境を得られていたので下界 に降りて、他山域への移動も問題は生じなかった。 |
神戸で『六甲山・堡塁岩』に通う感覚で『屏風岩と滝谷』には、涸沢から毎回かなり自由に行き帰りできる恵まれた環境だった。再登した特別な『ル−ト』も数多いが、特に当時は『1ルンゼと東壁』に登りに降りて来る機会に恵まれていた。壁でのビバ−クを、意識的に増やしていた頃で、最長ではT2やT4に1週間も滞在して、仲間を替えて補給面では苦労が多かったが楽しい壁での生活を楽しんでいた |
女性クライマ−、特に若い女の子達が穂高の岩場で クライミングを楽しんでいるのは、当時は珍しかった。 そういった環境の中で、居候には学生層の年代から 女性が多くて、その点でも涸沢でも目立っていた。 『滝谷ド−ム中央稜ル−トと西壁』には、10数年で 最年少・10歳の少女から70歳代に入った女性まで ガイド・クライミングの機会が得られた。 特に、数年間は頻繁に通って来ていた『女子美』から 本格的にクライミング修業に来ていたメンバ−は短い 期間に、かなりのル−トを経験していた。 |