『六甲山・極楽渓の岩場』
観光施設や『六甲山』の人気ハイキング・コ−スが南北方向で稜線上で交差する、重要ポィントにも当る旧・極楽・茶屋から近い場所にあり、80年代の中頃から『極楽渓の岩場』と、呼ばれ出したらしい。
『極楽渓・沢筋』上部の左側の尾根に、特徴的な岩場が見られる。かなり古くから「ベルビュ−・アリマロ−ド/車道』からも、岩場の存在が数多くの登山者に確認されていて、『毛虫捜し』が盛んだった頃からクライミング対象の場として、水晶谷を経由して、この岩場に足跡を残したクライマ−がいた。

『水晶谷の奥・位置にある岩場』として、60年代〜80年代の神戸のクライマ−の間では、一般的に岩場の存在は知られていたが、近くに『堡塁岩』が、ある事から、この岩場に意識が向くクライマ−が多かった訳ではなく、『忘れられた岩場』の一つでもあった。

クライマ−情報の中で、この岩場が話題に上がる事は、あったがOCSメンバ−が『岩と雪』に記録・情報を公表するまで「フリ−・クライミング」を楽しみに活用できる「岩場」として知られる事は無かったようだ。最も初期の開拓者が、誰なのかは残念ながら、全く判らない。『六甲山・全山縦走』経験者や車道から、見えている、この岩場の存在に気が付いているクライマ−は多い。
後に『岩塔状バットレス』と、呼ばれていた。雑誌記録にも、そういった外観からの呼び方が出ていた。
山上なのに、あまりにも人工的で各種・施設が立ち並ぶ『稜雲台』北端から、東側に幾つかの支尾根が水晶谷に向って、かなり急角度で落ちている。『岩場』は、その尾根周辺に大きく二箇所あって、旧・極楽茶屋・前の駐車スペ−スの端から目視で簡単に確認できる。以前のハイキング・コ−ス途中からの、トラバ−ス道は現在では藪と潅木、笹に覆われていて歩き難く、一端・山頂へ向って階段の終わった平坦部の北端辺りから、適当に岩場方向を定めて、右に降り過ぎないように尾根を下降して『岩場・上』に出るのが、最近では一般的なようだ。僅かだが、クライマ−は訪れていて、開拓意識で、この岩場を見ていたクライマ−も意外と多い。

最近、下流部の谷筋から、この岩場を探しに登って来るハイカ−やクライマ−では、ないが六甲山の岩場に興味を持っている人などが写真撮影で接近していて、幾つか踏み跡も残され出したが、クライミング目的の場合には初期の開拓期から利用されている、岩場・終了点へ直接、到達できる一部に露岩が混じる細い尾根を下降して来るのが一番、短時間で便利だ。2009年の秋に一度、岩場終了点を含めて、他の岩場と共に探査した時にも、このアプロ−チを利用したが、意外と踏み跡は、しっかり残っていてマ−キング等は残されていなくとも岩場上に出るのは容易だった。岩場直下を横断する踏み跡は、消えかかってはいるが利用可能。
隣接する『ピナクル』は風化が進行していて、クライミング対象とは考えられないが、南側尾根の岩場は再開拓の可能性は残されていると思える。

          岩場・終了点への下降路の進入口は『下写真』からが、御薦め。
緊急時には『な1−2−10』通報プレ−トのナンバ−を通報する。岩場での救出が要求された場合『極楽渓の岩場』名称が通じるとは、限らず『つうほうプレ−ト』から、判断して位置を正確に知らせる必要がある。

『水晶谷〜コル』上空は、どこかの駐屯地からのヘリ航路らしく、平日の昼頃に迷彩柄の自衛隊ヘリが数機
独特のロ−タ−音を響かせて、通過する。意外と、この辺りが訓練コ−スとして利用されているらしい。

『岩場』を利用するクライマ−は、本当に少ないがアプロ−チの一つでもあった『水晶谷』付近は、六甲山の中でも最も、道迷いや遭難者が多い『山域』そして、表・六甲山の沢筋の多くと同じ様に今・現在も砂防堰堤・工事が進行中の場所でもあり、突然に谷中の景観が変化する。『極楽渓の岩場』は、アプロ−チとしてハイキング道から、横断道を切り開けば駐車スペ−スも利用できて、利用者が急増するかも知れない。
2008年4月、(旧・極楽茶屋・経営者)のオヤジさんと少し、岩場を見ながら、お話しする機会があって、最近はクライマ−の姿を見る事は殆ど無くなったと聞く、最近の話題は尾根を間違えて進退窮った女性が、助けを求めて騒ぎになった事とか、水晶谷・砂防工事で工事用道として開かれた箇所が、現在では完全にハイキング・コ−スとして、利用されているといった話だった。

目立った『本格的な再生・開拓活動』やアプロ−チ等の、整備作業を行なっているクライマ−は、いないようだ

『ヤマケイ絡みのクライミング関係』の雑誌は、いつもの事だが、関西範囲の情報を正確に掴むのが苦手で、地域や山域といった基本的な『情報・部分』にも、誤解以前に知識不足や『勉強不足』な部分が多くて、何度も間違っていると関西人から指摘されながら、そういった地域性・情報を把握できていない。この六甲山の岩場が『雑誌』で公表された時にも、『まだ・あった大阪近郊に2ヶ所・未発表の岩場』こんな題字が紙面に出ていて、なんで六甲山の岩場が、大阪近郊の『二子岩』と一緒に、同一エリアとも混同される表記で紹介されるのかと、怪訝な気持ちを抱いていた神戸周辺のクライマ−は、大勢いた。

OCSの林君達が、当時・精力的に古い岩場でのエイド・ル−トのフリ−化や、新しい岩場を手近な山域で探していた1986年に、この岩場にも着目・試登後、1987年にボルト設置で、新しいラインを開拓して、記録を公表。この時期には表・裏ともに『六甲山』から、武庫川・大阪北部から北摂から京都県境まで、目ぼしい岩場が続々と若手のクライマ−に、フリ−の意識でも、ある意味『再発見』された時代だ。
個人的には神戸『堡塁岳派』の、一人である私は当然ながら、この岩場も70年代に登っていた。数枚の残置ピトンを、新規・開拓者の彼らは発見したらしく、多分?私が10代の終わり頃に、打ち残したリ−フ型ピトンも含まれているのだろう。
左へ降りず゜に、やや右下へ細い尾根沿いに下るのがポィント