エアロ・バティクと言うム−ブに憧れて

寒さは、意外と耐えれる程度。乾いた花崗岩は快適

あの「地震」で、崩壊・消失してしまった。

個人的には、周辺のボルダ−の中でも数少ない豪快・動きにスピ−ドを求められて、ダイナミックなム−ブが楽しく好き
だった。出口で片手・懸垂や振り子・式にヒ−ルを飛ばして

コウモリ気分を楽しんだりと、バリェ−ションも増えていた。

現在、このボルダ−は地震の揺れで
崩壊している。

78年ごろから岩崎さん、や穂高での仲間達からの
紹介で、関東等のクライマ−が頻繁に『関西の岩場』
特に、北山公園にボルダリングを楽しみに来る様に
なって、お付き合いする機会が増えた。

81年・82年には交流ボルダリング企画も入って
案内係り?で、頻繁に関東勢のクライマ−と遊べた。

涸沢の雰囲気で、我家に泊り込む若いクライマ−も
多かった。
ボルダ−マップには記載していないが2005年、現在で
他にも、まとまった『課題』と呼べるボルダ−は多い。
探す、楽しみ。
実際は83年から私の講習企画では
チヤレンジド参加・プログラムで北山
のボルダ−を使用していた。
新聞・雑誌・TV番組の依頼業務で『このボルダ−』は利用して来た。
使用許可
に関しては、各回・企画の内容に併せて担当者が所轄・管理関係機関に連絡後『使用・許可』を得た。
『北山公園』で楽しむボルダリングに最適な季節は『冬』
2006/11/09 (木) 19:44:42
震災後から急速に北山公園・周辺の住宅地・造成が進んでいて公園敷地と隣接する山地には大きな変化が見られる。(下)航空撮影・写真は震災後の物で女神山・周辺の宅地造成地によるボルダ−群の消失が判別できる。ここで言う目神山エリアは既存の情報で知られていたエリア範囲ではなく、ごく少数のクライマ−にしか、その存在が知られていなかった70年代の後半期から80年代に利用されていた造成予定地に存在していたボルダ−を指す。
北山公園へのアプロ−チは東西2方向と、南側から利用できる。植物公園としての表玄関は六甲主脈の西側の車道と繋がっているので、駐車場の利用と共に最も市民に使用されている。反対の東側は甲陽園・北部の高級住宅地の端を生活道路と北山公園の山地と接していて手軽な遊歩コ−ス入口も近くて、駐車料金の節約が必要なクライマ−には、以前から利用されているがカ−ブ箇所での駐車スペ−スには限度があるので、注意は必要。主に公共交通機関・使用、特に阪急電鉄を利用して北山公園に向うクライマ−は甲陽園・駅より徒歩で南側ハイキング・コ−ス利用が一般的。
79年と82年・83年と関東勢が多数・先鋭メンバ−が
関西の岩場、主に六甲山系と岡山のボルダ−に集まり出した。
当時から、北山公園と荒地山でのボルダリングでは残置
支点を利用した『トップロ−プ』の使用が一般的で、老朽化
したボルト類を親切に打ち替えようかという提案もあったが
そのうち、地元でなんとかしますよとか、人任せの会話で
当時は残置ボルトを含めた支点類の整備は進まなかった。
日本国内で、ひよっとすると最初で唯一の『バリアフリ−・クライミング・エリア』として、行政・市民サイドの認識も理解も得られて実現するかも知れないと、かなり期待していた『北山公園ボルダリング・エリア』だったが、その期待『夢』は消え失せた。多分?この辺りの問題を新聞などのメディア情報の中で指摘し、論理的に一つの『社会問題』として、展開すれば個人的な意見と『夢』は現実化する可能性は高かったが、モラルからル−ル云々の意見が大勢を占めて個人単位の遊びの世界の中で人間の話が出来ない、環境では無意味・徒労感が漂ってしまって、何かしらの努力をアクションとして起こす気が失せてしまったというのが、本音。人の話が出来ないとクライミング云々の話題とは、基本の軸足が全く異なり論争は、文字通り不毛だ車社会の中での法規と心と同じく、クライミングの環境にも、譲り合いや・思いやりとかいった法文化・ル−ル設定とは別次元の話題を強制する必要が増大した『遊びの世界』は、いつか社会から否定的な視線を持たれそうで残念ではある。