多くのクライマ−の目に曝されない『岩場』なので、とにかくヒドイ蛮行・破壊行為が行われているが、その現状を知る者は少ない。『武庫川のオベリスク』と呼ばれる岩場 |
武庫川を眼下に南側『フェ−ス』でのフリ−化 |
『堡塁岩』で、そして『不動岩』でも、そして『ム−ン・ライト』でも横行して、歯止めさえ効かないと半ば絶望的な気分を味わっていた、岩場・ル−トでの『チッピング・岩場の破壊行為』は、最近出来『北山公園』にも及んで、暗澹たる気分を味わっていたが、『オベリスク』にも、その被害は大きい。非常にマイナ−な岩場で、この岩場自体の存在を詳しく、知っている登山者やクライマ−も少ないのと、実際に、この岩場に来たクライマ−も非常に少ないので、関西で、これほどヒドク・チッピングが行われている場が存在している事態を、知るクライマ−も少ない。卑怯にも岩場の裏側に位置する『影の部分』で、行われている破壊行為なので、益々・表面化しない。 私達が70年代に岩場の存在を、大阪のクライマ−から教えられて下流から武庫川沿いに、岩場探査で訪れた頃には、中流範囲・左岸(上流に向って右側)に点在する岩場・取り付きには、開拓者の残したと思われる『メモリアル・プレト』等を目にしていた。武田尾・温泉、下流に位置する鉄橋付近の岩場群にも、アプロ−チ利用と見受けられる踏み跡や、岩場下に残された錆びた瓶入り飲料のゴミ等も散見された。 その後『関西の岩場』で、この武庫川・本流域で紹介されたのが『新岩』一つだったので、この本流域で活発化しだした他の岩場や『ボルダー』そして、意外な程に、古くから本格的な沢の中の『滝・岩場』を、次ぎの挑戦対象として、実際に本流から入り込める『一種の支流』に挑戦していた登山者・沢屋の情報は、殆どクライマ−に知られる事無く、これらの課題・挑戦対象は忘れられていったようだ。 『六甲山・範囲』の岩場と言う、説明にも実は問題があり、本流とは別の他の谷奥の『岩場』も、同じく北摂範囲の山の中なのに、簡単に『六甲山・範囲』と、説明されて以降の詳細情報を知る機会が減ったと言う理由もある。 『オベリスク/天狗岩』から、武庫川・本流を下流側に探査すると数箇所の岩場が存在していて、オベリスクと少しはなれた場所の、独立した岩場も開拓者の痕跡を発見できた。又、更に下流方向に武庫川・の流れを数箇所へつれば、過去のクライマ−が打ち残した支点類も、現在では僅かに残った物だけだが確認することが出来る。代表的な『支流』も、一般的なハイキング・マップにも名称が記載されている、ものだけでも2本『奥ノ溝谷』等は、かなり古くから入渓者を見る、本格的な滝登りの場でもあったが、不思議な事に『芦屋川』や『逢山峡』等の沢と同じく、殆ど注目されずに情報も少ない。私達は、関西の岩場で故・黒川君が武庫川・本流に浸かっての『新岩』への、古くからのアプロ−チの写真が出る、かなり以前から『本流』沿いに、武田尾・温泉までを何度も遡行?していて、自分達で発見・開拓した下流のボルダ−や周辺の岩場と共に、これらの渓内の滝・岩場でも幾度か、大阪の仲間達と遊べていた。 『新岩』からの川沿いのアプロ−チで、当時は簡単に入渓できていた本流・最初の面白い渓の名称が、現在・知られている名称ではなかったが、私達に、80年代・以前からの情報を知らせてくれた、大阪の先輩達は惜しい事に、その後に山の世界で出会う事も無くなり、60年代から70年代に、最初に渓奥の滝・岩場を誰が最初に完登したのか知る事は出来なくなってしまった。83年ごろ、旧・国鉄『大阪駅・構内』で、確か新聞類の配送関係で働いていて、シ−ズン中は「ちくま」への乗車時間の待ち時間に、プラットホ−ム端で、これらの岩場や滝での、話題を聞かせてくれていたIBS大阪店の、常連さん達も今は山の世界で出会う機会も無くなった。70年代に、今ある情報よりも活発に大阪のクライマ−は、新岩周辺から足を延ばして武庫川・周辺で、活発に活動していた事は確かだろう。 戦後、社会が貧困や食糧難で、多くの市民が苦しんでいた期間にも、一部の富裕層の中の、その一部の趣味人、登山愛好家やクライマ−は福知山線・範囲で、兵庫の山々で裕福な遊びを楽しんでいたと言う。 元々、大正末期の海外移入と言う当時としても、別格・特殊な遊びとしてのクライミングを楽しめる層が存在 していた地域なのだから、不思議では無いが米10Kgの為に、悲惨な事件や餓死者・家族に捨てられる子供達が、大阪駅で悲惨な現実に直面していた、同じ時期に汽車に乗って丹波方面の、未開拓な岩場に遊びに行けたクライマ−達が、記録を残せるほどの時期ではなかったのだろう。その頃の山の話は、関西では文献情報として、残っている訳は無いと思う。その分、伝聞情報は私達の世代まで、かなり恥として、批判の意味合いを含んで、残っていたように思う。 同じ様なクライミング史の、負の部分として『野麦峠』の時代の、中央線の茅野か、どこかの駅で冬の最中に 学生山岳部の一行が、侮蔑の言葉に怒った多数の女工さん達の怒りをかって、車外に叩き出されたと言う 逸話を思い出す。 福知山線・範囲には車中から目に出来る岩場は、意外と多くて『武庫川・流域』は筆頭に上げられる。 豊岡までの車中にも、そういった岩場や山容から岩場の存在が幾つかあって、私達の世代にも残された岩場の開拓という機会は、数多く残されていたのだが、不思議な事に『フリ−クライミング』の意識面での変革が行動に表れるまで、それほど既存のクライミング・エリア以外の、そういった探査が楽しめる岩場を探してまで課題に挑戦しようとは、クライマ−は動かず、関西範囲の身近な範囲の『岩場』意外には、には向わなかった。 そういった意味では、30年代以降、80年までに六甲山の岩場や御在所・雪彦山とは別の、小さな隠れた岩場を探して開拓に着手した、少数のクライマ−の足跡は貴重だろう。 意外に古くから、岩場でのクライミングを目的に、登山者が渓谷内で活動していたのかも知れない。 |
武庫川流域の岩場 |
JR福知山線の電化に伴なって、クライマ−の視線から見え難くなってしまった『武庫川・渓谷』の、幾つかの岩場の中でも、武田尾温泉・下流に存在している岩場は伝聞情報は多いのだが、正確なクライミング情報は少なかった。反面、電化に伴なうトンネルの増加により、旧・国鉄線路の開放?は、多くのハイキング愛好家に面白い歩行コ−スを提供する形となり、周辺の岩場へのクライマ−のアプロ−チも容易となったので、50年代から70年代の後半まで、この周辺でのクライミングの可能性を探っていた、先輩たちに比べてクライミング環境としては格段に楽になった。『岳人45号』以前にも、幾つか短文ながら岩場に関しての記述を散見できる、文章は公開されていたが、『新岩』の記録や案内・以外は、新しい開拓エリアとしての意識を前面に押し出しての記録などは、ごく僅かしか見なかったようだ。後の『岳人457号』や『岩と雪No126号』CHRONICLIに、公表された記録から、注目を集め出したようだ。 『武庫川流域の空白部を探る/開拓報告』は、当時の関西範囲のクライマ−の中でOCSと共に、広範囲な活動を精力的に『情報・発表』していた、フリ−・フライトの『三浦記章氏』オベリスクの岩場・名称を公的に紹介した事や、現在では人気上昇中の『武庫川・武田尾駅から近い、ル−フ・ボルダ−』ツタンカ−メンの発見・開拓者としても、知っておくべき方だろう。近年、この周辺を利用し出したボルダラ−の中に、故意に岩場の発見や初期の課題の設定者を偽って、他のクライマ−や登山者に吹聴している者が出ている。そういった意図的だと見られる、間違った情報をプログ類の中に記述しているボルダラ−や、それらの情報を信じて記録として紹介する文章が多くなって、他の武庫川周辺の最も初期の開拓期の情報や記録も、誤って伝えられ出している。 特徴的な岩場の外観により『オベリスク』と名づけられた岩塔状・岩場も、昭和中期に他の名称でクライマ−の、視線に挑戦対象として神戸のクライマ−には知られていた。 かっての『新岩』へ向う、石を積んだ階段・下降路や武庫川・本流を遡行形式で上流の『谷・岩場』に向うコ−スも今では、踏み跡も消え出し、記録も殆ど忘れられようとしていて、今に、この辺りの谷や本流沿いから挑戦していた幾つかの岩場での過去の記録や、挑戦者を忘れて自己満足・・嘘の初遡行とか初登と言った記録が公表されるのかも知れない。『新岩』と『オベリスク/天狗岩』間の、武庫川・支流と呼べる2本の谷も、かって大阪草鞋の会メンバ−や、彼らの活動後のクライマ−にも面白い課題・挑戦対象として利用されていた。今は、それらの谷奥の滝の存在さえも、知る者は少ないが、存在自体は普及しているハイキング・マップの中でも、充分に目を惹く情報として記載されていて、探査目的や滝好きの人達には意外と知られた場所でもある。最上流にゴルフ場などが存在していて、かっては課題として取り上げるのも、憚られるほど水質が悪化、最近はゴルフ場での農薬や芝の保守管理用の薬品・使用にも幾らか制限が設けられ、80年代までに見た、最悪の状況からは良くなり出したが、沢としての水流は依然として汚い。 『オベリスク』の名称は、この特徴的な岩場に相応しく、最も初期に、この岩場で開拓に着手した方々が情報を公的に公表していなかったので『オベリスク』の、名称は現在・一般的だと考えられる。 廃線路から見上げる『正面壁』の、裏側は数度の崩壊で80年代とは様相が激変している。この周辺の岩場は意外と大きく剥離したり、自然崩壊する危険性を秘めていて、落石にも充分な注意が必要。 2008年・現在『ボルダ−』は別として、同一の下降地点から下流部の岩場に向うクライマ−は少ない。 武田尾からの廃線路『トンネル』を抜けた、最初の『鉄橋』左端から、河原に降りる箇所は以前は 残置ボルトにスリングを数本、垂らして短い垂壁を下降していたが『ボルダリング』愛好者の往来が急激に増えて、誰かが立派な『梯子』を設置してくれていて、安全・簡単に降りる事ができるようになっている。 一般の観光客やハイカ−が、間違って降りないように標識やテ−プ類は設置しないほうが良いだろう。 |
『情報・追加中』 |