冒険的フリ−クライミングの退潮と、『安全確保・用具としてのボルト』に関して |
フリ−クライミングの限界・領域(判断)から生み出された、人工的な登攀方法での『ボルト使用の容認』 直接的にせよ、間接的に使用しようと『エイド・クライミング=人工登攀』の必要性から、誕生したボルト は、現在では安全に墜落を繰り返す『冒険を排除したクライミング』での使用で、最も頻繁に・かつ積極的に利用される、クライミング用具の代表格となった。 |
『現代のフリ−クライミング』に、冒険を見つけるのは通常のライフ・スタイルを営みながらのクライミング活動では、中々に難しい。フリ−クライミングに冒険としての、価値を見つけられるかの答えならば、簡単だ。現在の日本国内で普及・定着している、と考えられている『フリ−クライミング・ゲ−ム』を、見る限りには、この問いに対する答えは、消滅したとしか言えないかも知れ無いが、世界は広く、もしかすると日本国内にも、絶滅希少種さながらに『冒険的フリ−クライミング』を、追求していた人達、もしくは現在も尚・求め続けている、小数の純粋・古典派クライマ−は存在している。 私は1970年・前半期の純正・古典派(トラディショナルと最近は呼ぶらしい)フリ−クライミングの保守国 の当時の代表格『英国・グリットスト−ン』での、実際のクライミング体験を持っていて、頑固なまでに長年培われ、育て上げられて現存している、ブリティッシュ・フリ−を知っている。 比較対比できる、現場での体験と知識は、雑誌やDVDでの映像を元に交わされる、均一論的なクライミング環境を容認し、過去を知らないクライマ−の机上論とは、少し異なる。 |
私達がロック・クライミングを始めた頃には『トップ・ロ−プ』や『ブリ・プロテクション』は、おろか下見と考えられる『上からロ−プで確保された、攀じる為のリハ−サル』等は、知識としては知っていても実際に自分達が、その方法を利用することは『卑怯』『モラルやル−ルとは別のインチキ』だとして、実体験として知らなかった。 現在、アメリカでの伝統的なクライミング・スタイルとして尊重されている『グラウンド・アップ』 下から、未知の壁をフェア−なスタイルで開拓するクライミングも、50年代から70年代に入る時期には 日本国内のクライミングの基本的な考え方でもあり、価値観としても当然のクライミング・スタイルだったのだが、このスタイルも初登者には厳密なル−ルの適用が、暗黙ながらも要求されていたのに、一度・既成のル−トが岩壁・岩場に拓かれると、再登者は『初登尊重』の、厳格な定義・モラル面での、順守論に関して、かなり自由裁量的・要するに、勝手に『登り切る為の手段・方法』の正当性を簡単に無視し結果を追い求める風潮が、押し止められなくなって『日本中の岩場がボルト・ピトンだらけ』『AoW級』とまで、評価されるほどに『フリ−クライミング』の領域の拡大や発展とは、ほど遠い世界へと、転落していった。 |
『場』の少なさ。それを現象の理由として、クライミング論の弁解として利用しようと、論じるクライマ−も 存在していた時期があったが、それは正当な理由とは言えない。 狭い国土に、標高も日本よりも低く山岳環境の比較では、日本よりも恵まれていない英国は『正統派のクライミング』を、私達よりも遥かに長く、そして継続的に自国の中で守り続けれていた。そして、その論理感・クライミング・スタイルを、海外での実践にも採用した記録も多い。産業革命から、クライミングの歴史・用具類の発展経過から見ても、英国との比較は、明らかだろう。『RCC』の先輩達は、かの国を最初の見本として、日本での登山アルピニズム・クライミングを開花・発展させたのだから。 私が、知る限り国内初の本格的な『ロック・クライミング』が、開始された兵庫県・芦屋市の『ロック・ガ−デンの岩場』で、クライミングに取り組み始めた、先輩達は前進の為に『ボルト』を使ったという話しを聞かない。『ゲ−ト・ロック中段』に、私が設置した『3本のケミカル・アンカ−』に、これからも私は少しばかり、時代の進歩と、安全性と、言う『言い訳』の中で『後ろめたい気分』を、感じ続けそうだ。 日本で『フリ−クライミング』の流れが、定着し出した時期に私達は、私も最終的には遅れながらも、最も理想的で冒険的かつ、フェア−なスタイルのロック・クライミングを、簡単に捨てた。 トップ・ロ−プ使用での墜落の容認で、かってのトップは落ちれない生死の限界に立ちながら、下から上を目指す当たり前の姿勢や理想を、高難度の追求』とデシマル・グレ−ドの、数字の追加・上昇を、まるで偏差値・追及と同じ様に求めた結果、『本来・持ち続け、可能性が将来に広がっていた冒険の領域』を、安全で快適、かつ楽しい、スポ−ツ・ジャンルの中に完全に、組み込まれた『遊び』として、先着順でル−トを作り出したが、『開拓』の言葉は、実は似つかわしくないと感じている。ル−ト・メィキング、フリ−ル−トの、製作とか整備が適当。 『ル−トの開拓』は、この言葉に見合う正統的な方法と、危険な努力の上に成り立つ。 下から、上へ。初見・未知への挑戦『創造性と想像性』を求められた、初期の『クライミング・スタイル』を 単に『ヨセミテ派』とか『トラディショナル』又は『オンサイト』『アビュ−』等の言葉や、表現で意識を分散 させても基本・原形は、変えられない。 変えずに、新たな技術領域を広げ・そして難度を高めている実例は、欧州・東欧・アメリカ等に今現在も 数多く実在していて、現在も進化系・進行形の『事実』なのだから、スタイル面や論理の話題や知識に これらの現実を正しく、認識して比較できる『正当な判断』が必要。 他所は、他所。他国の事は知らないよ、『安全・第一主義』を貫き通すのも自由。 |
『フリ−クライミング』での冒険・もしくは『冒険的なフリ−クライミング』とは? 室内営業壁やコンペの隆盛・発展と『スポ−ツとしてのクライミング』の、普及を見ていると現在の日本 で一般的に定着し、多くのクライマ−が理解し実際面での活動で行なっている、フリ−クライミングの現実から見れば、この問いや命題に関しての、応えは明白なような気がして来る。 しかし、先に述べた様に世界は広く、価値観は多様。そして、本質的なクライミング・ジャンルの中にあってフリ−クライミングは最も、多様で自由かつ刺激的で、魅力を持った世界。 顕著な例は、東欧で長らく鉄のカ−テンに隠れて、西側諸国に知られていなかった、ボヘミアのサンドスト−ンでの最も厳格にフリ−クライミングの鉄のル−ルが守り、尊重され続けて来た、ワンダ−ランド・チェコスロベキアでは1987年に『\級』しかも『プラス』が付加されたフリ−ル−トが、文字通り開拓されている。 本家と目されている英国の『フリ−クライミング・スタイル』よりも厳格に、かつ厳密に守り尊重されている ザクセン・スタイルは、金属製のピトン・ボルトの使用のみならず、『チヨック』さえも、使用する事を禁じられていて、軟らかいサンド・スト−ンの岩場自体の保護を目的として、クラックに打ち込む用具は厳禁。 ロ−プを結んだスリング・ノットを『ナット=チヨック』の代用?としての中間プロテクションとして、自然の造形の中に、見出される穴やコブ・突起を本物の『ナチュラル・プロテクション』として、確保・ビレイ・ポィントでさえも、初登者により唯一・使用が許されている、鉄杭リング・ボルト・タイプしか使われていないと言う。しかも、当たり前ながら、トップロ−プでの確保状態での支点の設置は、おろかフック類での一時的な態勢保持や下からの、どのような補助も認められていないと言う。そして、初登者の権利である支点・確保用ボルトの設置に関しても、乱用はおろか、厳密に最小限での使用がロ−カル・ル−ルとして厳守されている。ル−ト上に残置支点が、存在していないと言う『ル−ト』も、現存していてプロテクションの言葉で私達が理解している「世界とは、別の」クライミングが実践されている『場』が、存在している事自体が、ある意味で素晴らしい。。こういったクライミング環境は、実在しているスタイルとル−ルを含めて、フリ−クライミングが、本来持っていた『危険な冒険』なのだ。 ボルトを一切『クライミングから排除』して、不可能な領域を残しても、フリ−クライミングの世界で高難度 なル−トを拓く事ができると言う、見本を証明している岩場は世界に幾つもあるが、伝統的な論理面から、実際の岩場の保護までを、クライマ−自身が、国家や組織からの強制や命令を受ける事無く、長年に渡って実践して来たのは『フリ−クライミングの本家』=本家と聞いて『アメリカ』と連想する人は多い。 『ボルト』の使用・利用を拒否した、本物の『フリ−クライミング』しかも、ピトンの乱用に移行する以前の時代から、ナチュラル・プロテクションの有効性や岩場の保護にも着目して、伝統的なクライミング論理を構築して、人と自然の関係を、人側からの制御や抑制に、置き換えて『クライミング行為』に、一定のル−ルを設けたのは、産業革命で世界で最初に『公害』を発生させ、天然林・森を伐採させて、自然環境を激変させた弊害を、近代史の中で最も初期に体験した、英国だと言うのも皮肉だが、半面スポ−ツ・ジャンルでの『規範やル−ル』の設定、順守にも早くからの、歴史を持っている国柄?は、クライミングにも反映されている。 小さな「岩場」で限界が初期から想像でき、かつ国土の中での、新たな『場の発見・開拓』が限りなく少ない英国・本土(スコットランド等を除く)で、クライミング・スタイルを限定すると言うのは、心理面での制約や制御に、かなりの自制心・努力が要求される。『ディレッティシマ・ダイレクト』の声を聞けば、総勢・殆どのクライマ−が、岩場の保護もスタイルも無視して、小さな岩場から国中の岩壁、次には渓谷・滝にも無遠慮・無節操に『ボルト』を連打した、ル−ト(ライン)を作り出し、フリ−がハ−ドの代名詞となると、今度は、片手で数分で穴が空けられる電動器具まで、持ち込んで過去のクライマ−よりも恵まれた交通・環境を、有効に活用して再び、国中の岩場を『フリ−クライミング・エリア』と、すべくボルトを大量に消費。この状態が果して『本来のフェア−なフリ−クライミング』だと言えるのかどうかの、議論は黙殺されているが、スポ−ツの名を冠し、利用しているならば『規範・ル−ル』面で、一考すべきだろう。 英国・南部の牧歌的な丘陵地帯に点在する、小さな岩場は古くから、クライマ−の自主管理に任されていて、約100年間の歴史の中で『ボルトもピトン』の使用は、一切拒否されて、伝統的なスタイルでのフリ−クライミングが厳守され続けている。人の手が触れていなければ、霧と雨に育てられた、緑色の地衣類に全てが覆われてしまうような、岩場環境が周辺の散策路と共に、常時・美しく清掃・整備されているのにも驚くのだが、岩場の古典的ル−トの内容が、この長い時間経過の中で、保たれている事の方が驚きだ。 英国の伝説的なクライマ−『ジョウ・ブラウン』=一時期カリマ−のザックに、その名を冠した製品が日本でも販売されて、その名を知るクライマ−も多い。『ウィランス』『サ−・ペック』『ドゥガ−ル・ハストン』そして『ピ−ト・リヴジ−』『ピ−タ−・ラウド』次ぎの世代の『ロン・フォ−セット』や『ジェリ−・モフアット』と比較的、初期のフリ−クライミング流入時期の、日本人クライマ−にも馴染み深い、これらの英国クライマ−の名には、かの有名な『グリット・スト−ン』での、冒険的なフリ−クライミングが重ねあわされる。 『グリット・スト−ン』の岩場が殆ど、見受けられない・。クライミング対象として利用されない日本ではイメ−ジも湧かなければ、実際の現場環境からクライミングの持つ意味も理解し難いが、ザクセンや他の似通った岩場でも、そのクライミング・スタイルの厳格さ、持続されたモラルには、非常に似通ったクライミングが存続しているのは面白い。『グリット』には、根性や勇気・我慢など意味も含まれていて、単純に岩質の説明・表現を超えたクライマ−間で通じる、暗黙の理解・了解を含んでいる。 『グラニット』『サンド・スト−ン』『ライムライト』を花崗岩・砂岩・石灰岩として表記して、言葉にしてクライミングに何らかの歴史的・意味や思い込みを表現する、了解事項は日本では聞かない。 僅かな期間だけ、関西の『六甲山・堡塁岩』や、関東の『某・岩場』で、ほんの僅かな人数だったが 古典的なクライミング論理を厳守して、岩場の『保護・保全』を、推し進めようとしていた人達は存在していた。そういった当時としては、本当の少数派のクライマ−は、今現在の『リボルト活動』を、どのような視線で見、感じているのか知りたいと想う時がある。 『冒険的なフリ−クライミング』の舞台として、英国の幾つかの岩場では1980年代には、伝説的と呼べる数々の危険なクライミングが行なわれた。同時期の日本のクライミングがフリ−クライミングの安全確保に関して、絶対的な保障を与えてくれる『ハンガ−・ボルト』の使用に、移行し出した頃に英国やオ−ストラリアやアメリカでは、全く逆の古典派に回帰するような『ボルトを否定』した、フリ−クライミングの世界で、最も厳しい論理基準を、採用した記録が生まれていた。 『ボ−ルド・ル−ト』『ボルト・レス・クライミング』の伝統が長い英国では、フレンチ・スタイルと呼ばれる高難度のル−トを拓く為に、容認されている様々な手段を拒否しながらも、大胆で危険が伴なう数多くの『フリ−クライミング』が行なわれ続けていて、伝統的なスタイルを堅持していてる若手のクライマ−も地元の小さな岩場から、海外へと進出し活動の世界を広げている。 彼らの、勇気の証明のような『ル−ト』は、技術的に困難だとか、プロテクションの問題が恐ろしいとか、墜落すれば大怪我を追うとか・と言った範囲の問題を超越して『失敗は死に直結』最悪の場面が、付きまとい、危険と言う意味合いが、日本での多くの進歩的・発展したと言われている『フリ−ル−ト』と根本的に、違うと言う本質的に『冒険としてのクライミング』が、小数ながらも継続・発展中。 彼らは『フリ−クライミング』の論理とスタイルにフェアを求めていて、徹底的な保守論者や一部の危険を基準にクライミングの価値を論じる『変わり者』ではない。論理・スタイルの評価を充分に、他の多くのクライマ−から認められ、正当な評価を受けて、尊敬されている側のクライマ−だ。 トップ・ロ−プでのル−トの下見、ム−ブのリハ−サル。危険の確認や、ラッペルによる準備も中間プロテクションの設置も論外ならば、情報の遮断も含めて、自然と人間の関係でテクノロジ−優先を拒否して可能な限り、時として殉教者なみに、フェアな姿勢を貫いて『命を懸けて』フリ−クライミングのスタイルを守ると言う事であった。 墜落を止めえられないかも知れない、貧弱で信頼性に乏しいナチュラル・プロテクションや、基本的に大きな墜落衝撃には耐えれない事を、理解して使用する『マイクロ・ナット』やタイオフでさえも基本的に使えない様なピトンを使用しての、大胆なクライミングで、難度の上限を押し広げた事と、ラッペル・ボルトに際限の無いリハ−サル、果てはチッピングに、浮いたホ−ルドを再生・固定させる為の接着剤などの使用と、技術と用具に方法の、無制限な利用で、拓かれたル−トの質は違う。 1983年 『MASTERS EDCE/E7・6c』 ジョ−ブラウン等の、50年〜60年代の英国を代表する『ロック・クライマ−』から、後継者としての評価を受けていた『ロン・・フォ−セット』達は1970年代からのリ−ディング・クライマ−として継承系の『フリ−・クライミング』のレベルを押し上げた、当時の英国を代表するクライマ−で、訪日した時期や名前を使用した『用具』等で、日本人クライマ−にも活動の一端は良く知られている。 フレンチ・スタイルが徐々に「ド−バ−海峡」を超え出していた時期にも、彼らは英国流・古典派のフリ−クライミングのモラルを、守り続けていた。そのモラルが急激な進歩を阻害している事も、充分に理解しながらの新しい『困難で危険な課題』への、挑戦は同時期の、どこかの国のクライマ−には本当の真価や価値は認められていたのか、どうかは疑問だが。 1983年『ミル・スト−ン』は、他の英国の似通った岩場と同じく、かっての『石切り場・跡』がクライミングに利用されている場所で、南部の丘陵地帯に点在する『グリット』の、岩場よりも石切り場・特有の節理の無い、人工的に成型・切り取られた岩場の断面が『チヨック類』の、使用を拒否していて当時は、ボルト使用でのル−トも、狙われていたかも知れないが、そういった『蛮行?』を、実際に行う者は現れなかった。これが、日本ならば『フリ−クライミング』以前の、時代にリング・ボルト連打に、変貌した岩場の一つだったろう。 ル−ト途中からの、墜落・失敗は、致命的な『結果が明らか』そういった課題に挑戦する姿勢や意欲に 『厳密なモラル』を、適用して解決する『能力』は、単に困難なム−ブを移動するという、スタイルとは一線を画している。墜落しても、安全に、ぶら下がれたり、、落ちてもダメ−ジを受けない、マット・ランディングのクライミングとも、本質的に違った『フリ−クライミング』での、挑戦には『勇気』が、要求される。 『マスタ−ズ・エッジ』も、そういった種類の墜落が許されない部類の『フリ−』のル−トで、25メ−トルの高距のランナウト・エッジは「フォ−セット」の挑戦、以前にも多くのクライマ−から果敢な挑戦を受けて、その、どれもを跳ね返していたという。ボルト1本で、簡単に解決しただろう当時を思えば、多くの挑戦者のクライマ−達の、誰一人として『完登の記録』や、自己満足の世界への誘惑に負けなかったのは、凄い事だ。ハリソン・ロックやハイ・ロックとは違い、比較的・辺鄙で他のクライマ−からの監視の目を盗み、活動が可能なエリアでの事である。日本ならば・・・・時代の中で、最も魅惑的で価値が、認められている『岩場』が、フェア−な挑戦者が現れるまで、残っているとは思えない。 『フォ−セット』は、『ジェリ−・モフアット』が、唯一トップ・ロ−プで終了点まで到達していた、この未登の課題に早くから、着目し『トップ・ロ−プ』使用での、リハ−サルを行なわず、一度だけル−トを見る為にラッペルして、リ−ド・クライミングで挑戦。地面から6メ−トルの、石切り場・跡に良く見られる『発破跡』の穴に、スペィン製のフレンズ・タイプのカム・ディバイス(フレンズの4枚カムと、違い2枚・カム)をセット後に、一度のロワ−・ダウンでの休憩後に、この『アミ−ゴ』を、唯一のプロテクションとしてル−トを完登。 ル−ト中の、唯一のプロテクションは地面から6メ−トル地点だと、理解すればル−トでのクライミング中の、失敗は悲惨なグラウンド・フォ−ルだと言う事は、一目瞭然。 1986年 『INDIAN FACE/E9・6c』 グリット・スト−ンでの伝説が再び、生まれた英国(ブリテイッシュ・ロック)の伝統の最先鋭ル−トとして 現在でも『恐怖の対象』日本人クライマ−にも、比較的その名が知られているジェリ−・モフアットが83年に拓いた、当時の世界水準レベルのE7・6bの『マスタ−ズ・ウォ−ル』の、最上部を更に直上する 一種の『ダイレクト・バリエ−ション・ル−ト』を、拓いたのは頑固気質の英国クライマ−の中でも、偉才を 放つと言われている『ジョニ−・ドウズ』マスタ−ズ・ウォ−ルの実質的な、核心下部も突破して上部の 未登部分を直上。マスタ−ズの難度を、越えた17mの壁を、2本の『RP』と2〜3ミリ食い込ませた1本の『ラ−プ』だけで、完登。しかもクライミングを終えて『ドウズ』が、ロ−プを引き上げると、使用したプロテクションは全て、軽いロ−プを伝わる振動だけで、外れ落ちたと言う、新たな伝説も生まれた。 1987年 『SUPER CALABRESE/E8・6b』 荒々しい、自然環境と厳密を通り越した『英国・保守派の牙城』数多い、伝説の場が、あの島国には点在している。殆ど、平坦と呼んでよい様な、山には見えない延々と続く、丘陵地帯を超えて行ていくと、いきなり現れる、急峻な海岸・断崖。冬には、まるで北陸・山陰の日本海側・気候に、陰鬱を付け足したような気候。快適な現代的な、石灰岩での『フリ−クライミング』とは、まるで対極に位置するような辺鄙で暗いロ−カル・エリアの代表『岩場』は、その危険な香りを楽しめるクライマ−のみに、長く独占されていたという。 『ボルト・レス』の厳格・厳密な論理に従って、簡単にはクライマ−を寄せ付けない、英国の悪名高き『シ−・クリフ・ゴガ−ス』1987年に、『ポ−ル・プリチャ−ズ』は、現代的な悪名ル−トを、伝統を堅持しながらも、更に困難で危険なル−トを、付け加える事に成功した。 砕け散る、波上からスタ−トする6ビッチの『ロング・ル−ト=ス−パ−・カラブリ−ズ』E8・6c (英国の一種・独特なグレ−ド体系は、対比するフレンチ・・グレ−ドのコンタシオンと素直に比べられない)同様に、ヨセミテ・システムのデシマルとも、比較して説明するのも難しい。対比・互換部分は一覧表で、概ね理解して下さい。『危険度』という、単純なカテゴリ−でも無いところが、理解を困難にしているが・・ 『ス−パ−・カラブリ−ズ』は、フレンチ・スタイルは採用されていない。中途半端では、感動は生まれない。格言を、そのまま実行したような『危険なル−ト』であり、壁中のビレイ地点にすら、支点は何も無いく、ル−ト内容も用意では無いが、中間のプロテクションさえも、絶対に墜落は止め得れないだろうと言われる、貧弱で危ない『R・P』を使用していて、『安全なクライミング』と言う、表現は無意味で意味を成さない、このル−トでは、トップのクライマ−の失敗にビレ−は無意味・何らかの対処の方法も手段も意味を成さない。要するに、リ−ドのクライマ−が墜落したら、ビレ−ヤも一緒に吹っ飛び、墜落してチ−ムは全滅と言う、聞くだけで意欲を失う本当の『危険なル−ト』だと言う。そして、トップの失敗はおろか、セカンドのスリップや失敗をも、支えられる支点は存在しないと言われ、実際に死者も出た。 ビレ−点でさえも『1本のボルト』は、使われていない。ここには、ある種の本物の『自由が存在』 クライミングでの『価値ある思想・伝統』を、何でもアメリカ・カリフォルニア発信と、限定したがる盲目的 信奉者が未だに、日本国内には存在していて、歴史の歪曲・自分達に都合の良い『歴史認識』の強制 を、企む輩は『岩場にも、存在』いているようだ。 『グラウンド・アップ』を「グレ−ト・アップやグランド・アップ」と呼ぶ程度の、間違いは、ご愛嬌というものだが、クライミングとは上からのロ−プによって作られるものではなく、下から登るクライマ−によって成されるべきだ。「グラウンド・アップ」という思想は、ヨセミテを本拠地としたカリフォルニアで芽生えた、ものだと主張しているのは、何か意図的な情報操作を感じて気味が悪くなる。 『クライミングの歴史』は、欧州の東部アルプスにおいても、西部アルプスでも、前衛峰でのクライミングにおいても、下から上に成されて来たのは周知の事実。アルピニズムとは、基本的に下から山頂を目指していた。フリ−クライミングの伝統は、何もヨセミテ渓谷の岩場から、始まった訳ではない。 命を失う恐れや、悲劇的な結末を予感させるフリ−クライミングとは、全く別種の、同じ言葉で説明される『フリ−クライミング』の中には、危険から身を守ってくれる『ボルト』の使用を積極的に容認し、岩場の中での行為を全て認めて、グレ−ドの上昇にしか興味の無いクライマ−も多い。そして、クライミングの難度と危険は、完全に分離された形式として、広く知られ出した現在の『フリ−クライミング』は、自然が与えてくれる条件さえも、先着順・先に生まれて来た幸運の利用で、これから後の遅れて来た世代のクライマ−には、機会の公平さは、まず期待出来ないだろうし、フェアなスタイルで進歩した訳ではない国内の数多くの既存エリアやル−トから、歴史的な『大事な部分』を感じ、学ぶ機会や環境も限定されてしまうだろう。フリ−クライミングを擁護する為に、一時期、頻繁に対極として批判され続けていた『AoW級』には、まだ下から上へのクライミングの基本スタイルや、未知への探求・発見と創造に、ある種の冒険的な要素や危険が残されていた。『危険』を完全に、排除し埋もれるほどの情報の中で『発見』や、探求の意味も判らずに、ボルトのハンガ−を探して、トポやチョ−クの痕跡に、自身のクライミングの方向性を見出すクライミングの普及が、全てに優先する訳ではないだろう。 自然環境の制約が多く、湿潤な気候や脆い岩や苔・クラックの可能性を邪魔する、大量の泥を予め除去・整備しなければ生まれでなかった『岩場・ル−ト』は、数多いのだがフリ−クライミングの『場』を作る為に、そして海外からの遅れを取り戻すべく、まるで明治政府が如くに、日本中の岩場で『ボルト』の設置に関しての、ロ−カル・ル−ルや先輩達が残したかも知れない「了解」や、地元クライマ−同士の間で培われて来た、暗黙の岩場での行動・活動・規範は会話もなく、少数の外部者の手により一種の無視や知っているのに、知らないフリをしての活動で結果が優先。 『ル−ト』の質は、数字の高さでしか判断されない状態を生み出すことになった。 |
1988年 『KNOCKING ON HEAVENS DOOR』(E9/7a) 英国の『グリット・スト−ン』では、純粋なフリ−クライミング思想の伝統が若く、才能豊かなクライマ−にも、意識面のみならず行動にも根強く、行き続けていて、岩場自体の保護思想・意識と意欲もロ−カル 範囲のみならず、広く浸透している。確かに、俗に『フレンチ・スタイル』と、称されるグレ−ドの上限を達成する為ならば、伝統や慣習・モラルや地域で守られて来た『ル−ル』を無視しても、ル−トを造り上げる、1980年代には世界中のクライミング・エリアで普及・発展して行った『スタイルの変化』を、容認し受け入れた活動を積極的に取り入れた、クライマ−も英国にも大勢いたが、その活動は日本などの同じ『島国』し、比較しても、その普及度には一定の、クライマ−間での制御や活動・範囲での制限は設けられていたようだ。100年・以上の長い歴史期間を『クライマ-自身の手に、より保護・保全』し続けて来た自分達の『岩場』を持っている英国クライマ−は、日本のように簡単に『伝統』を捨てなかった。 『進化・変化』は、急激ではなくて、比較的ゆっくりとしたスピ−ドで、組織的な論争と、地域枠でのパブでジヨッキを傾けながらの、個人的な論争も経て、今現在も『フリ−クライミング論』は、行動と共に変化している。その、変化が、日本のように急速に、かつ少数のクライマ−の意見が押し通らないところに、民主主義を感じてしまう。一度、右向け・右が、始まると、誰も左を向けなくなる、風潮は恐ろしい。 アンディ・ポリットによる『ノッキング・オブ・ヘヴンズ・ドア』は、英国でも代表的な『グリット・スト−ン』 であり、様々なクライミングの歴史の中で、その時代の最も困難な課題が、誕生した岩場の一つでもある。第二次・大戦中の「射撃・練習場」として、岩質の柔らかなグリット・スト−ンが標的として利用された結果、この『ピ−ク・ディストリクトのカバ−・エッジ』の、垂直壁には弾痕による、無数の穴が後のクライマ−に「グリットの岩場」には、通常は見られない無数の「ポケット・ホ−ルド」を提供する事になり、この英国の岩場では珍しい『課題』は、フレンチ・クライミングの影響を受けだしていた、この地のクライマ−にも、当時の『最難・課題』として挑戦が待たれていた。日本のクライマ−には、馴染み深い『ロン・フォ−セット』も連続的に、この課題に取り組んでいたが途中停止の期間があって、完登を逃す。 最後に『危険な課題』を、解決したのは英国の悪名高き『海岸岩壁・ゴガ−ス』で、腕前を発揮していた『ザ・ベルズ・ザ・ベルズ』の、クライミングを達成して現役・復帰した『アンディ・ポリット』である。 5日間の、トップ・ロ−プによるリハ−サルはフレンチ・スタイルを採用したモデル・ケ−スであったが、そこは英国グリットの岩場での「クライミング」ラッペル・ボルトは拒否された。 地面から9メ−トルの地点に、唯一のプロテクションとなる僅かに刃先が食い込んだ『ナイフ・ブレ−ド』を1枚、打ち込み。このル−ト内で唯一のプロテクションとなる「ピトン」に、シヨック・アブゾ−バ−・スリングを取り付けて、2回の地面までの敗退を経て、当時は絶望視されていた弾痕の小さな『穴』を、厳しいワンフィンガ−によるム−ブ(5・13b〜c)から、最後の外傾ホ−ルドでの失敗は地面への墜落を招く、危険なランジで突破してル−トを完成。 |
『根性とか、勇気の意味』も、表す『グリット』のクライミングには、ブリテイッシュ・ロックの伝統が生き残っている。 |
『BMC』が、管理し保護している『クライマ−の為の、岩場』では、今現在も『ボルト』は、おろか『ピトン』 の使用さえ、公的に禁止されている『場』が存在している。 |