六甲山は日本のロッククライミング発祥の地です。大正時代に
RCC(Rock Climbing club)が、結成され、芦屋のロックガ−デンなどをフィ−ルドとして「岩登り」の魅力が広まっていったそうです。六甲山系には、堡塁岩・

百丈岩、仁川渓谷の

岩場・バットレスなど有名なクライミングのゲレンデが、たくさんあり、六甲山でトレ−ニングを積んで世界の名峰に挑んだ登山家も少なくありません。

私は西宮で、育ったので、家の・すぐ裏の甲山が遊び場。遠足や野外活動といえば仁川あたり。クライマ−の姿を子供の頃から、よく見ていて子供心に憧れを抱いていました。当時はクライミングを教えてくれる大人と出会う事も、なくて見よう・見真似で岩に登り、何度が九死に一生と思える、事態にも遭遇したり、ひどい怪我を負った身体を、隠して暮らして・大騒動を引き起こしたり・訳も判らずに遠くに・家出したり・・と、冬山準備の装備を親に冬の川に捨てられて、震えながら流れに身を沈めて・浮いて来たワカン等を拾ったり・・・親にも教師にも、問題の多い子供と見えたことでしょう。そして、懲りず・強いけれど、多分・あやふやで・共通の志を持つ者も存在しない「孤独」から、更に山の魅力に引き寄せられて、懲りずに・・・。

結局。高校時代も、まともな学生・生活から離れた『登山専門店」と、山と複数のバイト(体力勝負のキャディ等)の、往復の中で
「夢・見る」先は、全てがクライミング・・後悔は、人並み・に、との親からの常識に従い、海外に出るのが1年間、遅れたことで・・

皿洗い、ベッド・メ−キング・留学先からは俗に言うところのドロップ・アウト。

北への憧れは放浪に続き、当時の日本には夢見れなかった「職業」としての「山」や「自然」そういった生活・ライフスタイルを選べる「自由」を知る為に、欧州を歩き・探して「アウトドア・スク−ル」や登山学校に参加しながら、憧れていた山々を巡りました。

『山岳プロ・ガイド』という、仕事(職業)は・ヨ−ロッパでは、ある種の尊敬と誇りを持ち合わせた、立派な「仕事」で。仏では、長い歴史の中で資格・習得の為には国立の登山&スキ−専門学校に入学。更に修行ガイド期間も要求されるほど・プロ・スポ−ツ選手と並ぶ、ほどの価値を認められた「憧れの対象として、見られる職業」です。
歴史の浅く、プロ・スポ−ツとの関係が身近ではない日本では・殆どが、専業ではなく・何かしらの仕事の合間に「山を案内」する、兼業のガイドで、つい最近まで国際・共通のガイド資格に関しても他の国と比べて「重要度」が、ガイド自身にも認識が低く。
様々な、要因・社会での理解も含めて・プロとして専業で生きて行くのは難しく、特に関西・在住者では私一人ぐらい゛しょう。

私の場合は、修行を海外ガイドの基準に見据えて・まずはクライミング・コ−チ(インストラク−)から、そしてガイドへ。次に国際資格を持つ「山岳プロガイド」へと、段階を追いました。
幸運だった事は、帰国後に入山した「穂高岳・涸沢」と、出会う人の縁だった事で国際障害者年を記念する、最初の1981年に、聴覚障害者の登山グル−プと・後援組織からの要請で、先例も無く「登山界からの理解」は、当時は得られなかっ時代の中で
ガイドとして、彼らの登山に力を貸せた事が一つの・転機に・なりました。登頂・記録と共に世間にアピ−ル出来た、成果に現地での同じ『障害者・同士」の国際交流も行えた事で、この折の体験は強く、今の私のガイド活動に、他のガイドとは異なる「理想と夢」を形成しました。前年に若くして残雪の穂高から還って・こられなかった後輩も「聴覚ハンディ」の少年でしたから、『登山・クライミング』は、初心者からでも他者から『無理』と言われようとも、機会は公平に与えられ・べき、であり。確かな指導や案内で、誰にでも楽しめる「行為・遊び」として認められるべき・と確信。

全くの手探りから始める初心者でも、六甲山から「最初の一歩」をゆっくりと歩めばトレ−ニングの先に「夢」や「目標」の山に登れます。このスタイルが今の私のスタンスでも、あるようです。

『国内では全く・例を見なかった視覚障害者・自らの
挑戦に認められて、プロガイド参加・できた事は、名誉であり光栄でした。

1981年・夏の記憶は私のプロ出発点です

『夢』を実現する・チャンスに恵まれた事と・大きな怪我からの回復。オイル・シヨック時からの「ガイド業務・仕事」への、不安や幾つもの・挫折も乗り越えて。震災からの、生活・復帰に多くの支援者に助けられての「山への再・復帰」と、運に、も人にも・恵まれていると・つくづく思う。

『ネクスト・ドリ−ム』

メ−ル・ネ−ムに込めた「希望」は・更に『夢』に続くと思う。プロ・ガイドとしては、時代の中で「無理・不可能」と拒絶されて・多くの障害を乗り越えられた『バリアフリ−活動』を、誰一人・山で失う事無く・これまでに無事に成功させられた事は・数少ない自分の誇りだし・共に戦えた事を名誉だと思っている。そして、それらの活動を評価される、時まで生き残れて恥ずかしながら山とは違う・街の世界で自分の想いや考えを表現・公表する機会に恵まれ出したのは、幸運としか言い表せない。

大好きな『穂高』でも楽しく飛んだ。

沢を楽しみ・川から海に出て『旅』する・楽しさも知った。

絶対に・復帰は無理と言われて・諦めかけた「夢」も・取り戻した

激流の中での挑戦も加えれば、「エキストリ−ム」の言葉を知る

以前から「過激」に遊んでいる。誰の、真似も・せずに自力・独力

で、進めた挑戦は・最高だった。そして・これからも・・・・

いつも・人より遅れて来ているので・『子育て』家族での『夢』も
やはり・少しばかり出遅れている。その分・他の人達とは老後?
の・遊びも違いそうだ。

『プロ・ガイド』が、プロとしての能力や知識を・社会貢献で、その山で学んだ技術・経験を役立てられるのは素晴らしいと、私は思っている。そして、自分が、その活動に、僅かながらでも貢献できる幸運に、恵まれた事に感謝している。

ガイドとして・頼られ。友人として支援・協力し。共に自然と闘い。何よりも、社会に、何がしかの良い影響や手伝う人々に、意欲や勇気を引き起こす・手伝いが行えれば、それは素晴らしい。

『表現する機会』を与えられている・感謝。
アピ−ル・伝える努力は絶対に、必要だから。頑張る

『山の世界から、心のバリア・フリ−を発信したい』

1994年5月9日(月曜)  夕刊・紙面

『朝日新聞」

次に見る夢
国内に、他に模倣・真似をする見本や指針を持たない時代から、登山スク−ルやスポ−ツとして評価を受けるクライミング技術の指導や、広報面での活動を始めた。『国内初』の記録やタイトルは、伊達ではありません。

『その、足では無理』『その、手では無理』
無理かどうかは、やってみなければ判る筈は無い。行動を起こす前から、意欲を妨害・阻止されては『夢』さえ見ることが適わないではないか。

78年の六甲山の岩場で、(某所)のクライマ−達から、直接「偏見に満ちた」言葉を、投げかけられてから、障害者の海外クライミングや登山の初端、先駆け的な計画がメディアを通じて、広く社会に公表されて
「匿名」噂話し。陰に隠れての批判は、こと関西範囲のクライマ-の中には多い。
不思議な事に、障害者『登山』も、アウトドア・ジャンルでの支援者・そういった組織やグル−プの活動が国内的に見て、最も初期から活発で、介護関係での先進的な動きも、注目を集めている「地域」なのに。何故か、その地域の中で自分達の遊びの世界で、活動的な人達の中には、偏見的で自分達の『遊び世界』に関しては、閉鎖的な方が多い。

視覚情報が全体の8割だと言われている。
学問・学術的な事を、専門的に知っている訳では無いし、浅学の私としては医学的な知識にも当然乏しい。

視覚情報・云々の考え方、以前に人には目で見て、知る事や考える事とは別に違った
『認識』理解の方法が、沢山ある様に思う。

6人の視覚障害者が参加した六甲山「仁川渓谷の岩場」での私が、企画した『クライミング体験講習会』
サポ−タ-の、晴眼者メンバ-の殆どがクライミングに関しては初心者か初体験者だったのが、企画実施での問題だった。

視覚障害者メンバ−と、北海道『大雪山』での山旅を楽しみに行った。山小屋も使えず、アプロ−チは長く厳しいそういった山に、何故?と聞かれる事は多い=皆さんと多分・同じだと思いますよ。
【六甲山の一歩から、世界の山へ】
【自分だけの夢を適える、見続ける事も素晴らしいが。他の人の夢を手助けして適える事にも素晴らしさは、あると思う】
気付けた事を実行に移せる自由。震災後に、一人で勝手に始めた【ボランテイア活動
基本姿勢は【群れない】
http://www.mcs-
proguide.com/
効率的にも労力も、普通の『登山形態』とは異なる方法だが、事前にキャンプ装備・等を指定地に荷上して送迎も含めて、サポ−ト態勢を整えての実施プラン。関西からは『北海道の山々』は遠く、企画の実施は定期的に行えないが、長期ガイド・ツア−を組んでいる夏ならば、実施する事は、それほど困難な訳ではありません。私は、数年ごとにカヤックの方の自分の遊びも加えて、充分な日数で現地滞在。ガイド活動を行えますから、大雪・知床・方面での希望があれば御相談ください。
1996年・1997年

2006/04/07 (金) 7:54:55

MCS国際・山岳プロガイド 舟橋 健
あえて『フリ−クライミング』とは言わない。『チャレンジド参加・対応』そして、可能性を最初から否定しない意識での『ロック・クライミング/岩登り』を、別に誰かに強制されたり、メディアや間違っても山岳雑誌の文字情報に影響を受けて、始めたのではないから。元々、最も保守的で排他的、スポ−ツ定義の枠内に加わる事を登山者も多くのロック・クライマ−やアルピニストは長年に渡って、拒否・否定して来た日本の登山とクライミング社会?構成者達には1960年代に『チャレンジド』の表現は通じる筈も無かったのだから。最近、少数の『フリ−クライミングやボルダリング』表現の人達が、かなり意識的に『チャレンジド』の表現・表記を使いたがる風潮を見て取れ、意識面を判断できないが怪しいと感じる人達も増加している。

多分、これから更に・この『表現』を使い出すフリ−クライマ−は増えると予想される。
さて『サポ−タ−』から、本当の意味での『友人』が意識せずに増え出すのは、何時からだろうか?
50歳までに『ハンググライダ−』のパイロット・ラスセンスの習得、そしてパラでは無くてハング・グライダ−使用での山からの飛行を夢見ていたが、年齢のほうが予定・夢を追い越してしまった・・・・・