穂高岳・涸沢で『村長』と言うニック・ネ−ムで、呼ばれていた頃

『山で、楽しむ料理・企画』を、岳人・別冊号からの依頼で協力
市販の「脱脂粉乳」とは、全く別物の本物の『粉末牛乳』が私の長期露営・クライミング活動中の、大のお気に入り食品。2006年の北海道・方面などでの牛乳・生産の過剰で放棄される『牛乳・事情』を、知るに付けて
何故・加工、発展途上国『援助』や、飢えている子供達への救いの手段の一つとして、でも使えないのか私には不思議で、そして怪訝で、かつ悲しい。

最近は、この『便利な粉末牛乳』が、市販されている事を見たことが無く。利用も出来ずに、とても残念に思っています。今なら、簡易オ−ブンや、トラメジ−ノと、山の水で作った牛乳で、きと美味しいお菓子も作れたのに残念。
3000mの稜線・山頂での本格的な『ステ−キ焼き』で、さえ70年代には面白がって。居候・差し入れ肉で楽しんでいた私達。しかし、『岳人・編集部、提供の牛肉』は当時の涸沢キャンプ地では、目立っていました、その時の、居候達は運が良かった。
『岳人・編集部』が用意して涸沢に持ち上げて来た「食材」は、中々に豪華でした。
特に、キャンプ生活も50日間を超え出した時期の、生野菜やステ−キ肉は感激ものでした。

別に『涸沢・滞在期間』に、飢えていた訳ではなく、どちらかと言うと他の登山者達の食生活と比べれば毎日の私達の食事は、当時としても・かなり恵まれていました。

物資補給に関しては、夏山シ−ズン中に関してだけならぱ、最初に長期滞在を始め出した数年の、耐乏・ボッカの苦労から思い返せば、数年後には居候達や仲間達の支援?差し入れ環境は『山の天国・状態』どれほど、他の登山者から数多く、羨ましがられたかは数年後に、仲良くなって以前の私達の生活・内容を見ていた人達から良く、聞かされたものでした。
06/11/21 (火)
毎夏の定着・生活で、私の持ち上げた大型テントを頼りに、穂高『涸沢』に上がって来る、若い仲間が増えていたそれぞれ所属のクラブや目的も異なり、年齢層も幅広く、色々な意味で人間関係は面白かった。
最初の頃に、苦労していた『食料・補給の問題』も、数年後には殆ど、毎日の様に入れ替わる、居候メンバ−と下山する知り合いの登山者や、秘密の『補給路の存在』に、大きく助けられて多人数の夕食が続く時期でも、あまり苦労しなくて良くなっていた。
数度目の台風・被害でベ−ス・テントが壊れた、後に今築して
一夏、過ごしていた、石積みキッチン・スペ−ス。円形状に石を積み
多人数が、中央のテ−ブル板を囲んで座って食事や団欒を楽しめ
テントと違って、靴を脱ぐ必要も無く出入りできたので快適な環境。
『山でエビフライ』の、差し入れが入って来るのも涸沢ならでは。
天井部に壊れた、テントのフライシ−トや梱包用のビニ−ル・シ−ト
を活用して、採光に優れていた。
『涸沢貴族とか涸沢の村長』と言う『ニック・ネ−ム/仇名』を数多くの登山者や地元の小屋や常駐隊のメンバ−から、頂戴していた期間は随分と長かった。

先代の『村長』と、呼ばれていた青年の事は、当時の『涸沢・常駐隊で副隊長を勤められていた、猿田氏』から、詳しく聞くことが出来ていた。一般に『涸沢貴族』と称されていた、人物にも私が定着中に、御招待を受けて『岩小屋』で直接の接待を受けて、当時としては周囲から『別格の扱い、滅多に無い幸運』と、驚かれもしていた。

様々な記憶と、想い出の場所・そして長い年数、私には忘れられない日々だった。

山での日々を、思い返して楽しめる時が訪れたら、記憶を思い返して断片を書き出してみようかとも思う。今は、まだ次ぎの山や『夢』を。求める時間の続きを楽しんでいる。