六甲山の岩場『蝙蝠谷の岩場』 |
制作進行中
『神戸登攀倶楽部』で、珍しく人数的に多く集まって、クライミング練習に利用していたのが『堡塁岩』の次に、この『蝙蝠谷の岩場』だった。当時、岩場下の林道が未舗装で、工事が進み出した頃で車両は、滅多に通行していなかった、この頃は工事関係の人しか車道で出会う事も無くて、前夜のオ−プン・ビバ−ク適地として、車道の真ん中を利用していた。81年から、個人的な『フリ−化・活動』の目的地として、仲間を誘って頻繁に、この岩場を使い始めた。記録を公表したのは83年からで85年頃の『岳人』等から、情報も他のクライマ−に知られ始めた。 OCSの林君から、白山書房・発刊での『関西の岩場』企画での、各岩場の情報・執筆の打診を聞いたのが81年か82年なので、『登山体系』で私が担当した『六甲山の岩場』の次ぎの、岩場情報として、この蝙蝠谷の岩場もクライマ−に知られ出した。76年に、最初のフリ−・クライミング対象として今で言う所の『対岸の岩場』を登攀倶楽部の仲間と試登したのが、この岩場での最初の本格的な『フリ−化・挑戦』と考えられる。当時の記録としては『岳人』の、記録速報欄や『関西の岩場』に私が、幾つかの情報を公開した。 『記録』として知られたのは『岳人』に紹介した、85年の『七夕ル−ト』だろう。この情報から関西範囲で次ぎのエリアを求めていた、多くのクライマ−に刺激を提供できた。 |
1978年に既成のエイド・ル−トのフリ−化の可能性を大阪の若い友人達と話していた頃にも、この『蝙蝠谷の岩場』の話題は出て来なかった。大阪範囲の当時の、若手クライマ−には『六甲山』から、幾分か離れた、この山域の知識は殆ど無かったのと、まだ数多くの手付かずの岩場が、手頃な場所に点在していたからだ。78年の秋に穂高から、降りて来て久しぶりに神戸の仲間達と目的意識を確認しあって『再訪』した時には、一時期の混雑していた『岩場の雰囲気は消えていた』エイドの練習に最適の感覚が、災いしてか若手のクライマ−は裏六甲山の岩場などに分散して行き出した時期で、休日にも他のクライマ−の姿を見ない日さえあるほどだった。最初の『フリ−化の挑戦』には、他のクライマ−の視線や、見物客そして煩わしいフリ−クライミングと既成のエイド・ル−トの問題などを、岩場下で話し合ったり論争に巻き込まれる恐れも無くて恰好の時期であった。1978年〜1988年までの期間は、各地の岩場で同時進行系で私は活動していたので『岳人』等への、記録の投稿は毎回、山域や岩場が違うのが当たり前。同時に5〜6箇所の新しい『記録』を書くのも、面倒なので数箇所を他人に譲った時も、たまにある。当然、同じ、紙面で違った岩場の『記録』が出るのも多かった。それらの小規模で、短信的な『記録』以外にも、遠出した本格的なクライミングやパラの記録は、面倒なので個人的なメモさえも残さず、記憶の中だけで、情報を紹介しない物が増え出した。 |
今では、意外だと思うのだが最も初期に『フリ−・クライミング』のル−トやリニュアル可能で、開拓の意識を強く見据えて挑戦した『対象』は、可能性の高い『右岸壁のクラック』や、当時としても弱点を見出していた目立つ壁ではなく、一見して不可能に見えていた『岩小舎』の岩場や、対岸のスケ−ルの大きい岩場だった。特に『対岸の岩場』と呼ばれている当時としては、かなり浮石と剥離する箇所が、危険で全く誰も整備の手を加えていず、フリ−の対象としては、誰も挑戦しなかった範囲に、私は意識を向けていた。仲間との活動では『トップロ−プ』使用で、充分に『右岸岩壁』の前傾壁や、クラックが利用できる既成ル−トの中で、かなり手応えも成果も上がっていたが、やはり下から上へのクライミング思潮?思想が捨て切れずに、下見やトップロ−プといった手段を利用せずに、最初の試みを成功させた事は、私には良い時代だったと思える。まだ81年〜85年ごろには、関西範囲のクライマ−に、この岩場の価値が認識されていなかったのが幸いで、混雑する環境とは無縁の環境を楽しむ事が可能だった。 残念だったのは、林君・白山書房からの『蝙蝠谷の岩場・情報』の、執筆・依頼を受けた時期には、まだ充分に、この岩場の既成ル−トでのフリ−化と、新規ラインの開拓が開始され出したばかりだったので、岩場ガイドとしては、現存していた既成ル−トの紹介しか行えなかった事だ。 |