『百丈岩』
この岩場も、私が『日本登山体系No10』で、執筆を担当したので想い入れ、懐かしさが強い
『RCC時代』に、堡塁岩・芦屋ロックガ−デン・仁川渓谷の岩場と同時期に、発見され開拓クライミングが実践された、関西範囲のみならず当時の、日本国内での『ロック・クライミング・ゲレンデ』として、最も初期の『岩場』
都市近郊の『六甲山・南側』の岩場と、違って開拓期には「百丈岩」は、山奥の隠された場所に存在した、見え難い『岩場』だったが、そのスケ−ルとドロミテの岩峰を連想させると、言われた外観は大正末期の、若き登攀者の登攀意欲を、強く刺激した。その為、この「百丈岩」よりも、発見も早く開拓に関しての、苦労や岩場までのアプロ−チを含めて、はるかに容易だった筈の『不動岩』の方が、本格的な挑戦は後になった。『百丈岩の中央・左』と『不動岩の東壁』は、ほぼ同時期にクライマ−が手を触れた『岩場』だと言われているが、どちらが先に完全攻略されたのかは、詳しい資料を調査していないので、私には解りかねる。
1960年代、後半。私達が、この『岩場』に初挑戦した頃には、電化される前の旧・国鉄(現JR)の『福知山線』が、武庫川・沿いに幾つものトンネルを抜けて『道場・駅』に近づくと、進行方向・右側に見上げる『不動岩』が出迎えてくれていたので、当然ながら駅を降りて、多くのクライマ−の向う方向は『不動岩』へ。

特に、時代背景的に垂直を越えて、空間に飛び出るタイプでのアブミとロ−プ操作の、醍醐味を眼下に武庫川を見て、高度感も抜群。アプロ−チも「岩場・下」の急登だけと単純で、帰路は再び車窓から、自分達が登って来た岩場を、見上げて達成感も得られたので、殆どのクライマ−は『百丈岩』へ向わず。『不動岩』へと足を向けるのが多かった。
初登攀を行った、RCCメンバ−がアプロ−チを含めて当時でも、最初に取り付きやすかった『不動岩』では、無くて何故?『百丈岩』の方に、開拓の勢力を集中させたのかを、私は判る気がする。

多分、感覚的・には現代のクライマ−意識と、似たような部分が、あったのでは無いかと推察していて。ル−トを拓く、そのこと自体に対する興味や熱意は、時として『美的感覚・将来の夢への布石』そういった岩場での自身の行為に付随する、精神的なものを、二つの『岩場』を、単純に見比べて、その当時の『六甲山・ホ−ム・ゲレンデ』では、得られない高距と共に岩場の外観・つまり、空に向う岩峰・岩塔を連想させる『百丈岩・中央岩峰』に欧州や、憧れている海外の岩場に、その雰囲気を感じたのだろう・・と、私は思う。

岩場に『ル−ト』を残す、行為は初登の時代だからこそ、彼らが確率的にも当時の用具・技術の範囲で、落としやすい『不動岩・範囲』よりも、多分その頃の用具では危険性も高く、初登の栄誉も得られないかも知れなかった『百丈岩』に視線を向けたのは、心地よい感触を覚える。
大正モダニズムを背景に、それでなくとも『ロック・クライミング』等といった当時ならば、かなり変人・変った趣味に全力をを傾け、危険を甘受して国内で、他に見本や参考にすべき実例の無い環境で、試行錯誤しながらの冒険を楽しんでいた、人達なのだから『かっこ良い・スタイリッシュ』感覚は、必ず、持ち合わせていたと私は思う。『ボルト』は、おろか確保器具さえ存在しない時代であり、彼らの履物は一部に本格的な登山靴を使用できたメンバ−は、いただろうが初期の荒巻きフェルト・ソ−ルの、クレッタの原型シュ−ズや地下足袋スタイルで、クライミング・ロ−プはマニラ麻、使用できた長さは20m〜30m程度の頃なのだから、挑戦した対象が、現代のグレ−ド基準で低いと判断するのは、あまりにも早計。
『百丈岩』で、果敢に初期の挑戦が行われた『ル−ト』は、今も現存。驚く事に、今・現在も意外とポピュラ−な
ル−トとして登っているクライマ−も多く『ル−ト整備と支点の打ち替え』は、17年ほど前に私が行った。
加藤文太郎・氏との面識を持たれ。当時の『六甲山・開拓期』の時代を、、自らの実体験で知る大先輩と
『ム−ン・ライトや三段岩』の、取り付きで。そして『芦屋ロック・ガ−デン』入口の、大谷茶屋でビ−ルを飲みながら親しく、そして穏やかに、語り聞かせて頂いていたので、『百丈岩』が、国内で最初にクライミング中の事故が、発生した場所だと言う事も、知っている。高座滝の上で『テント・カ−ニバル』を実施した時にも、珍しがられて差し入れも頂戴した。そういった古き良き時代の『先輩達』も、惜しむらくは今は、おられない。
もっと、遠慮を捨てて『六甲山のクライミングの歴史』を、詳しく聞かせて頂いておけばよかった。惜しい

『仁川渓谷の主』大瀬さん、達は次ぎの世代の「六甲派のクライマ−」で、私の直系『先輩達』は、昭和の世代の新しい『クライマ−世代』だ。最も初期の『六甲派クライマ−』の足跡や、記録を探すのは中々に難しい。
        『日本登山・体系No10・百丈岩』 舟橋 健(執筆・担当)
不動岩と並ぶ「裏六甲の山」の代表的ゲレンデで、スケ−ルのは大きい。岩質は、最も高距のある中央稜を除いて、西壁、西稜、東稜、中央稜・下部壁とも比較的しっかりとしており、浸食によりできた小さな凹凸が数多くあり、よいホ−ルドとして利用できる。
ただし、中央稜以外のル−トは中間支点が少ないのが特徴で、初心者同士の練習には向かない。
これまで(1980年代・以前)百丈岩では、中央稜での困難な人工登攀に人気があり、フリ−ル−トは他の六甲山の岩場に比べ登る者も少なかった。
しかし、中央稜以外は岩質の良さもあって困難なフリ−クライミングが行えるため、近年、人工ル−トもフリ−で登られ始めた。特に中央稜下部壁・中央ルンゼ及び、西壁周辺などは、距離は短いが快適なフリ−の岩場として、もっと登られてもよいと思える。
原稿・執筆時から「中央稜ル−ト」でのフリ−化は、私にとっての課題の、一つだったが「悪名高い引き出しホ−ルド」や核心部のフレ−クの不安定さから、完全なフリ−での攻略は果されていなかった。それでも70年代にアブミを使用せずに、A0使用とは言え、意識的な挑戦を実行していたのは、私達だけだった。
アプロ−チは国鉄(現JR)福知山線『道場駅』下車。後方に『不動岩』を見送り、鎌倉峡へのハイキング・コ−スの道標に導かれ、30分ほどで『百丈岩』への入口カモシカ谷への分技点に着く。
ここから『百丈岩』へ向うには、カモシカ谷をつめ、下部壁または各岩壁直下へ、つながるルンゼをつめるコ−スと、カモシカ谷入口にある売店の裏『修験者の道』と、名づけられた一般コ−スを登り、中央ルンゼ上部が、中央稜と東稜への下降路のあるコ−スより各ル−トの取り付きへ下るコ−スの、二つがあるが、出来れば前者を選んで下部岩壁より登られるとよいだろう。カモシカ谷には、『百丈岩』を見上げる、水流に恵まれた静かな幕営地が、いくつかある。

谷からは左側の二本のルンゼの、右のルンゼをつめて中央ルンゼ下部に出るか、ルンゼの右側のガレ場から岩尾根を登り、大テラスへ出るものが一般的である。
大テラスよりトラバ−スして、中央稜・西壁・西稜に取り付き、東稜へは、中央稜のド−ム状の壁の下を右へ巻き込むようにして潅木の中の、つけられたトレ−ルをつたって東稜直下へと出る。
これらのル−トとは別に、さらにカモシカ谷を上流へつめ、遭難碑のある台地と、その上流40mにある台地から直接・中央稜へつなげる下部壁がある。ル−トは自由に取れ、右によるほど困難となる(40m・U〜X)
20〜30年前とは、違って周辺の河川は汚れていて往時の清流環境は全て失われている。
下部壁は、以前から大阪『府岳連』メンバ−の,確保練習用として長年・利用されて来た『岩場』で、売店・横に建設された『確保・練習、施設ヤグラ』にクライマ−が移ったので、最近はフリ−クライミングの岩場として、使いやすくなっている。周辺の岩場の、中では最も岩質が良く、トレ−ニング環境も良いが、少しばかり暗く降雨後の乾きは遅い。上部からの『落石』にも、注意する必要あり。
幕営地(キャンブ使用)は、狭くて少人数でしか利用できないので、売店方面に出た川原・辺りが適当。駐車は指定された『場所を使用』する事が当たり前。
(住宅・裏の駐車スペ−スを使用・1台500円)
          『中央稜』の4本の、ル−トは全て『フリ−化されている』
岩質・以前に、この岩場『中央稜』は実際に手を触れる
前に、近くから見上げると一目で剥離系ホ−ルドに視線
が、釘付けとなり。
大抵のクライマ−は、一瞥しただけでフリ−クライミング
での、ピ−クへの到達を疑い、諦める。
特に、地元『神戸・大阪』の、クライマ−からは近くに
『不動岩』と、いった現代的なフリ−ル−トが続々、新規
に登場していた岩場が、存在していたので比較的にも
この『悪そうに見える、岩場』での本格的なフリ−に関する
情熱は、殆ど見受けられなかった。

私に、付き合ってくれたのも遠く長野から来訪の涸沢時代
の友人や、同じく穂高の頃に知り合った、関東の仲間達で
見かけより悪くない、そう私に騙されて皆さん、付き合って
くれました。おかげで、実証例・登れる、と納得した神戸の
講習生達も、付き合って登る機会は増えた。
故・黒川君やOCSの若手達も、付き合ってくれた頃には
設定・希望していた『課題は全て終了・成功』
記録なども、幾つかの雑誌に数度、出ている。
『フリ−化の為の、支点の打ち足し』『トップロ−プによるリハ−サル』等は、行わないスタイルでの、フリ−クライミング。一部を除いて、この岩場の既存エイド・ル−トでの、フリ−クライミング挑戦では、殆どチヨック類での確保は物理的な『安全の手助け、補助』としては、役立たなかった。
『裏・六甲山の岩場・百丈岩』西壁・西稜・中央ルンゼ(日本登山・体系P174〜179)
主に初心者から中級者向きの、ルンゼとフェ−スからなる明るく快適な岩場。西壁のル−トは比較的・自由にとれるが、西稜側によるほど難しくなる。中央ルンゼは『百丈岩』中央に位置する顕著なルンゼ状スラブで
下降路にも使われる。、
西壁・終了点付近は以前は、比較的『安定した植生と土壌』だったが、年々・浸食と植生の荒れで小石混じりの斜面が崩れ出していて、一部には降雨で削られた箇所も見られるので『落石・以上』の、危険性も充分に考慮しておいた方が良い。壁そのものには、大きな変化は見られないが右端のリッジ部と、更に右側の岩場に関しては、以前より不安定となっている。中央ルンゼ左側の逆層スラブ壁は、以前には中間支点の問題で登るクライマ−も、少なく。終了点からのトップ・ロ−プ設置も不便だったので、私が97年頃から支点と終了点の確保・支点の、幾つかを整備しておいた。
中央ルンゼ周辺での、転落・滑落による事故者は以前より多く。初心者の利用に当っては確保が必要と考えておいた方が良い。右側壁よりに比較的・安定したホ−ルドが続くが、染み出しで岩肌が濡れている時にスリップ事故も予測される。実際、過去に「この下降路」で起きた、事故の多くは確保態勢の不備もしくは、ロ−プ不使用・時に発生している。大テラスからの、信じられないような転落事故や、中央稜・下部を東稜に巻き上がる『アプロ−チ部分』での、事故例も確保態勢の不備によるものだと報告されている。
(1)西壁・左フェ−ス・ル−ト
   技術的には容易で、西壁左端。比較的、安定したホ−ルドに恵まれ、初心者のトレ−ニングに良い。
   西壁・全体に言えることだが、終了点付近での立木による支点設置には、充分な注意を。

(2)西壁・中央ル−ト
   左フェ−ス取り付きより、一段・下がった箇所より上部を自由にラインを選択して登る。
   トップロ−プ練習での、初心者のクライミングや固定ロ−プ設置での個人トレ−ニングの場としても
   使用している人達が多いようだ。プロテクションの殆ど、使用されていない時代に登山靴スタイルで
   登られていた。

(3)西壁・ルンゼル−ト
   西壁の右端・リッジ状部を右に抑えられた狭い、範囲を直上するか、左に出てホ−ルドの豊富なフェ−
   ス壁を登るなど、自由にラインを選べる。かっては取り付き上の壁面に、浸食・穴が多く、ロ−プスリング
   類を通した『俗に言われる砂時計』式の、中間支点を作ることも出来たが、その多くの小さな浸食穴は
   誰かの手により、殆どがハンマ−の打撃で潰されてしまった。
   ルンゼ状壁の直上ラインは、初登時代のクライマ−により完全・攻略されていたと聞く。
   多分。中間のプロテクションは皆無、殆どフリ−ソロ状態でのクライミングだったろうと思われる。

(4)西稜ル−ト(形状的には左側から見てリッジ)
   西壁ルンゼ壁との、コンタクト部を形成している『岩壁』で、上部は緩いスラブ・タイプだが、取り付き箇所
   の突破から、短い垂直のフェ−スが楽しめる。ここも、以前には残置支点は存在していなかった記録とし   て゜聞く範囲では同一ラインをRCCメンバ−が、フリ−でフェルト底のクレッタ・シュ−ズで完登したと
   聞いている。現代的な、装備・用具では当然ながら容易。取り付き地点へは、大テラスから中央ルンゼ
   を左へ、横断してバンドから入るか。西壁直下から、右へ一段・上がった潅木の中の台地へ。
   取り付き部分からの、被り気味の壁から、左上バンドまでの箇所で墜落・事故例がある。プロテクション
   用ギアの携帯を薦める。

コンタクト・フェ−ス(西稜と中央ルンゼの間のスラブ壁)
   『登山体系』や、他の雑誌類では記載しなかった練習壁として説明
   97年、以降は「ボルト設置」で、安心して利用できる為か利用者は多く、混雑する場合もある。
   中央ルンゼ下部の、安定した『バンド』か、一段ゆるいスラブを上がった『レッジ』で確保が可能。
   ル−トは自由に選べて、逆層フット・ホ−ルドを押さえながらのバランス・クライミング練習に最適。
   中央部と、右がリ−ドでのクライミング対象としても、使用される。

(5)中央ルンゼ右ル−ト
   ルンゼ状壁の中に、顕著な『バンド』が数本あり、このバンドで区切られる形で大きく上段・中段
   下段と分けて、ライン取りを初心者の練習時に説明、利用できて便利。1960年代の、後半から70年代
   の中期まで、『芦屋ロック・ガ−デンのゲ−ト・ロック』と、同じトレ−ニング意識で、かなり多数の登山者
   が冬季・登攀、想定でのアイゼン使用でのクライミングの「場」として利用。今でも、同じ様に使われてい   るが、その人数は激減した。全体傾斜も緩く、重荷を背負っての練習や固定ロ−プ利用での、登下降
   練習などにも使用されているが、基本的には『下降路』なので、混雑・込み合う時の利用には注意が
   必要であり、ルンゼ終了部は「岩場が゜終わっていて」尾根に上がる箇所からの『落石』の危険が高い。
   頻繁に、下部を含めて人の存在が、考えられる箇所なので『充分な注意義務』が要求される。

(6)中央ルンゼ左ル−ト
   『西壁』側のコンタクト・フェ−ス上部へ、最終部分で交差して交差して入ることも可能。
   中央ルンゼ左側の逆層スラブの真ん中を登っていたが、ルンゼ状壁を忠実に登る場合は、最上部で
   傾斜が増し、、ホ−ルドが外傾しているので濡れている時には要注意。
                  『百丈岩・中央ド−ム壁(中央稜)
困難な人工登攀と、ゲレンデ離れした高度感を味わえる。実践的な岩場として、古くから多くのクライマ−に親しまれているがド−ム状の壁全体に岩質が非常に悪く、壁を構成している表面岩片が剥離しやすいと言う危険性を秘めている為、積極的なフリ−クライミングのル−トは初期から、開拓されていなかった。残置支点・特に古いロック・ピトン(ハ−ケン)類の効きも当然だが、悪い部類に入る。
特徴的な『ド−ム・岩塔壁』左端と右端のフェ−スを除いて、中央範囲は初期のクライマ−の持ちえていた技術と用具では対応できず、『遅れて来た、次ぎの後継者・達』が物量で突破した。その頃の、記録・情報は誰が。何時といった基本的な記録も、少なく。数度に分けた挑戦・クライミング・スタイルでも、あったらしく詳細が世に出ていないようだ。それに、比較して最も初期『正真正銘の開拓者・達』が、当時の技術水準・使用できた限られた用具。そして何よりも『フリ−クライミング思想』を頑なに、守り通して完登・初登したル−トは素晴らしいと思われる。最も、初期の挑戦時期に、国内で最初のクライミング中の事故例が、発生したのも「この岩場」で、あった事からも当時のクライマ−達の挑戦・意欲と冒険心は私達は、敵わない。

60年代の、中頃に一人で西壁付近や中央ルンゼを・テニス・シュ−ズ履きで、遊んでいた時に、見た3人のクライマ−は、衣服は別として『中央稜でのクライミング』で、とても格好良かった。

他の、大勢の似たようなクライマ−と違って、当時は珍しかったプレ−ト式の3段アブミとは、違ったテ−プ式の多段タイプを使用していて、後続者はユマ−リングで、あっと言う間に終了点へ消えていった。
66年か、67年、当時の事なので、そういった新式・若造には手が出せない最先端・用具を使用している大人達を、興味津々で凝視していた事を記憶している。

その後に、そのグル−プが日本人で初めて、アメリカ・カリフォルニアの『ヨセミテ渓谷でのクライミング』を体験し、日本で最初の『ヨセミテ・クライミング紹介』だった事を知った。確か『岳人』の記事が、何かだったろう。
時代を数歩、先取りしたクライマ−が、同じ関西『大阪のクライマ−』だった事を知るのは、その後で彼ら先輩達が、『百丈岩で見学』させて、頂いていたグル−プ『大阪・山の会』のメンバ−だった事を知ったのは、また、その後になってからだった。
『作図・ル−ト解説 舟橋 健』
『上・写真』は、80年代に私が殆ど「確保練習」にしか使われていず、過去の記録には『壁の存在』さえ、紹介される、ことの無かった『中央ド−ム壁・下部』に位置する、ある意味独立したフェ−ス壁。下部壁と称して、登山体系・以降も『雑誌・記事や記録』で、紹介してからは利用者も、幾分かは増加した。

上部の『ド−ム壁』とは、岩壁の構成・岩の質・形状共に大きく違っていて、『百丈岩・範囲』では、この岩場が最も岩質が硬く、ル−トが安定していた為に初期から『フリ−クライミング』の、トレ−ニング場所として頻繁に使用していた。現在は、少し周辺の立木が立ち枯れたり、誰かが伐採したのか雰囲気も明るくなった。この『下部壁』から、継続して『ド−ム壁』へ。そして、更に東壁・東稜へ抜けるというパタ−ンが私の、講習スタイルとして頻繁な利用例。元々が、高距のある岩場だったので、この『下部壁』も使うと、登攀距離も長く充実したトレ−ニング内容となります。数年おきに、個人的に清掃・整備の手を加えています。
(7)中央稜・正面壁・左ル−ト『ド−ム状壁・左端の、古い歴史を秘めたル−ト』
   『日本登山体系』調査、執筆時には知らなかった貴重な、情報や資料を後に入手する機会に恵まれた。

   正面壁基部・左端の、窪んだフェ−スより取り付き、白いフェ−スを右へトラバ−スして右上する外傾バン    ドを登り、バンドの切れた所より左に一段・上がって小レッジでハンギング・ビレ−。
   2ピッチ目は逆層の垂壁を左上する、リスに打たれたハ−ケン(ロック・ピトン)に沿ってアブミで登り、逆    層のフェ−スを、さらに人工で左上後、小ハング上を左に回り込み、潅木の生えたテラスで確保。
   次いでリッジを右に回り込み、危ない垂壁を直上。小ハングを越え、やや傾斜の落ちた草付帯を登り、頂 
   上直下の小レッジを経て数メ−トルの簡単な登りで頂上へ。
   『体系』出版後に旧ソ連からの来訪クライマ−達が、このル−トと左壁を使用した当時・注目だったスピ−
   ド・クライミングを披露。日露・交流登山の一環パフォ−マンスでのクライミングだったが、この時に使用
   された「ル−ト」は、トップロ−プ・クライミングでの、かなり強引なライン選択だったので、その後に誰かが
   リ−ドでの『課題』として、再生したとの情報は聞かない。ド−ム壁でも、岩質・岩壁表面の剥離岩の危険 
   が、高い部分なのと、殆ど既成ル−トも利用されていない環境なのでクライマ−の姿を見るル−トでは無
   い。支点の打ち替え、ラインを変えてのリニュアルの可能性は残されている。
(8)中央稜・正面壁・バンドル−ト『ド−ム状壁・中央の最も登攀者の多いル−ト』
   昭和期の、『関西クライマ−開拓ル−ト』エイド・クライミングでの、一つの目標『課題』として知られた。
   フリ−化は、私と長野の友人で達成。後に大阪範囲の若手クライマ−達と反復・再登。記録・公表

   中央稜の各ル−トの中で、最もよく登られており、安定したル−トとして人気がある。(70年代の状態)
   初めて、この壁を見上げるクライマ−には、白く崩壊した逆層の垂壁は登攀意欲を減少させるに充分で
   あろう。近年、徐々に中央稜・各ル−トの人工部分のフリ−化が行われているが、もともと岩質に信頼感
   の乏しい、この壁では、無理なフリ−化は危険であろう。
   基本的にエイド・クライミングのル−トとして利用されていたル−トだったが、私達の世代が本格的に、こ   の岩場での活動を行いだした頃には、1ピッチ目の垂直箇所と2ピッチ目のエイド箇所を除いてフリ−で    登れる部分は意外と、多く。エイド部分も「アブミ使用」を避けた、A0利用で全て、こなせていた。
   最終的に、全て『フリ−クライミング』での完登と、なったのは残置支点の悪さに、耐えれる精神的な強さ
   が何度もの、このル−トでのクライミング体験で得られたからで、技術的に飛躍したからではなかった。
   それでも、数年前まで、ほとんどアブミに頼って登られていた、このル−トも、現在(体系・執筆時)
   現在ではカラビナをホ−ルドとしたA0で、全てのエイド・セクションを突破するのが一般的である。

   取り付きは、正面壁の真ん中、浅いジェ−ドル状・箇所から始まる。
   ジェ−ドルを快適な開脚で直上。頭上を押さえられた所より左へ二歩トラバ−ス後、かぶり気味の垂壁
   を直上し、中央稜・中央部を取り巻くように右上する外傾バンド左端の、小レッジ(スタンス)に出てピッチ
   を切る。右上するランペ(バンド状)を登り、バンド部が切れた壁からフレ−ク・ロックをホ−ルドに豪快に
   右へ水平にトラバ−スして、崩壊後に荒れた壁部に連打されたハ−ケン(ロック・ピトン)に沿って直上。
   小ハング下のスタンスへ。そこよりクラックのあるハングを越えて『肩のテラス』へ。
   3ピッチ目(最終ピッチ)は、なめらかな小スラブから左に出て、小ハング左端の弱点を越えて、頭上の壁   に抜けて、黒いフェ−スを直上、約15mで頂上・終了点へ。安定した松の木で確保

(9)中央稜・正面壁・ダイレクトル−ト『ド−ム状壁・上部のエイドル−ト』
   重箱の隅、的な『開拓者達から、遅れて来た世代の製作ル−ト』再登者は、殆どいない。

   バンド・ル−トの登攀内容と、歴史的な価値と比較して、評価を受ける部分は少なく、ル−ト開拓時の
   センスやピトン・ワ−クにも、後年・不評が多かったル−ト。現在では、残置支点の老朽化や剥離面の
   状態から、かなり危険だと予測されている。再リニュアル・ル−ト整備の必要性が残っているか?不明


   バンド・ル−ト2ピッチ目が始まる、小レッジより右へ出てから、頭上(左側)小ハングを直接、越えて行く。
   これは中央稜・中央部を直上する人工登攀主体の『当時・人気のダイレクトル−ト』的な性格を求めた
   ル−トであるが、残置された支点は効きが悪く(70年代で)特に、逆さに打たれたハ−ケン(ロック・ピト    ン)が多く、強引なアブミ操作には注意が必要。ポィントは、垂壁を直上後、前傾壁にトラバ−スする浮い   たフレ−ク部分での、不安定な姿勢での移動と、確保箇所。
   (体系・執筆時の調査クライミング時でも、殆ど登られた痕跡は見受けられず。登っているクライマ−を当   時から見た、記憶も無い)逆層の垂直壁に残置された支点類は信用できない。

(10)中央稜・右クラックル−ト『故・黒川君との協力フリ−化・挑戦後に他の仲間と完登』
    中央稜・基部を右に回り込み、顕著な2本のクラックのうち左側の垂直に延びる、クラックに取り付く。
    出だしに打たれているハ−ケンから、以前は完全にアブミ操作に連打されたピトンに沿っての単調な
    エイド・クライミングだった。フリ−クライミングを意識し出してからは、百丈岩でも最も初期からスタ−ト
    部分のクラックは注目を集めていたので、ジェ−ドル・クラックの途切れた部分までは挑戦していた人達
    は多そうだ。初登時のスタイルは不明、噂話では今のようなアブミは、使われていなかったとも聞く。
    クラックの途切れた、箇所から小ハング下を左へ出て。頭上の松の木までが核心。
    プロテクションの悪さは、変化しているのだろうか?
    数度の、岩面・剥離、岩片の崩壊で、かっての状態から変化している。事故例・多し。
    (下部・岩壁からの継続に無理なく使えて、雰囲気は明るく開放的)
    右壁側にも、登攀者の姿を、よく見るル−トがあり。少し清掃、整備の手を加えれば更にル−トが増え     て利用環境が改善されそうだ。一般的には『ル−ト紹介・記録』は公表されていないが、好んで登って     いる人達は70年代から、意外と多い潅木と立木に覆われて『右端・壁』ただし、一部に脆い部分もあり    落石には注意が必要。真下は『東稜・東壁へのアプロ−チ』であり、上部尾根のコルからの下降路とも    岩壁下は通行路として重なっている。
『百丈岩・東稜・東壁』 中央稜(ド−ム壁)下の下部壁と共に、岩質良好の岩場として人気のある岩場
(11)東稜・正面壁直上ル−ト『下部は緩いスラブ・タイプの容易な壁だが、特徴的なハング下から上部壁で    は開拓・初期から様々な内容のクライミングが実践されて来た。

    取り付きは、階段状の傾斜の落ちた岩場を登った、特徴的なル−フ(ハング)直下の安定したバンド。
    垂直・範囲の短いフェ−スを弱点を使って、フリ−で登り、ハング下から付け根のクラックをアンダ−
    クリング・ホ−ルド利用で態勢を保ち、ハング出口のガバと外傾ホ−ルドで乗り越す。
    ハング出口には、上部フェ−スの小穴に指が入り、身長差にかかわらず幾つかの方法が使えて
    楽しめる。ハング部分からは、岩質も良く、硬い岩面の垂直のフェ−スを越えて、さらに幾分・傾斜の
    落ち出したフェ−ス残置支点に沿って直上。エイド・クライミング時には、ハング下からアブミ操作となり
    一般的には、フェ−ス部分はカラビナ・ホ−ルドでのA0の連続動作。
    『体系・執筆時からフリ−化の挑戦・対象ル−トで、その後すぐに完登した』
    私以前にも、大阪(某クラブ所属)の、T氏も頻繁に不動岩の当時の「課題」と、共に百丈岩・周辺でも
    活発に活動していた。リッジ裏側の、殆どのクライマ−に見落とされているフリ−ル−トも、その頃に
    大阪のクライマ−が、着目。手を付け始めていた『壁・課題』の、一つだと思われる。
(12)東稜コンタクト・クラックル−ト(ノ−マル・ル−ト)
    東リッジ部か、この東壁との境をクラックで、つなぐラインの、どちらかがRCC時代の初登ラインだと
    言われているが、真意・詳細情報、共に不明。個人的には『リッジ・ル−ト』が、最も初期に登られた
    ル−トなのでは、そう感じてはいる。
    ただし1943年か33年かは、情報が錯綜してはいるが東稜・範囲で開拓・初期の岩場自体が大きく
    変化したと言われている(伝聞)ので、その辺りの条件からクラック部分がRCC時代の履物や装備で
    最も、論理的で当時のクライマ−の挑戦・対象であった可能性は高い。
    2006年・現在でも私の知る過去30数年間・範囲で、この辺り・特に中段部付近の岩場の状態は
    目に見えて変化しているので、将来は更に大きな岩場の崩落や変化が起こる可能性は高く、注意
    する必要が、ありそうだ。
(13)東稜リッジ・ル−ト『RCCメンバ−初登と伝え聞く、歴史的フリ−・ル−ト』
    コンタクト・クラックと同じく、「ノ−マル・ル−ト」の、名称も古くから知られていた。
    リッジ末端のクラックの走った、大まかな岩場を越して、右上して崩壊後のピナクルが残るレッジから
    左にリッジ状・壁に入りフェ−スを直上。途中から左に出てフェ−スを登るラインもある。
    フェ−ス壁から、壁の段差として現れた小レッジに立ち、簡単な壁を左上して岩稜上のテラスに出て
    終了。ここから、山頂部ま゛も、簡単な岩尾根が続くので、初心者・不安な方は確保状態で更に少し
    ロ−プを使用した方が良いでしょう。同一ル−トの下降は、不向きなライン取りなので真下へ、東壁
    をラッペル下降後に、中央稜・側にトラバ−ス、クライミング・ダウンを交えて取り付きに戻れる。

    通常ピッチの区切りは、リッジに移る前のフェ−ス下のピナクル・レッジが゜適当。
    『堡塁岩・東稜ル−ト』と、同時期に開拓者・達が、国内・初製作のクライミング・シュ−ズを使用したの    も同じ、東稜ル−ト『百丈岩』多くの、登山者が革靴・ナゲ−ル・トリコニ−打ち靴の使用時期だった事
    を考えれば、かなりモダンで先鋭的な、先輩達だと思える
(14)中央稜・下部壁 『日本登山体系』執筆時に私が、名称を決定、紹介。
    中央稜(ド−ム壁)右端から、カモシカ谷に下る岩尾根・末端にある幅70m、高距・約40mあまりの
    岩場である。中間部・左側は傾斜の緩いルンゼ状で、潅木も多く登攀じ価値は低いが、左右・特に
    右端の壁は、百丈岩の中では最も岩が硬く、ル−トの取り方によっては困難なフリ−クライミングの良    い練習場所として利用価値は高い。また、岳連盟の貸切「確保・練習」場所としても、長年・使われてい    た。2008年4月4日に『右壁』の、清掃作業を行なった、苔ゆ細い潅木を除去して取り付き地点の草な
    ども、おおかた引き抜いておいた。以前から気になっていた休憩場所に散乱していた割れたガラス片も
    見える範囲の物と、大きな破片は回収したが、まだ完全とはいえないので、少しずつ回収する予定。
中学生の頃『安物のテニス・シュ−ズ』を履いて腰に直接
巻いて、カラビナやスリングも持たずに登っていた百丈岩
の『西壁』・・恐いもの知らず。無謀の標本・・・・
60年代にはル−ト上に、残置支点は無かった。
20数年間で、ほとんどクライマ−からは忘れられた岩場に、なってしまった。
高校生の頃、交通費の工面にも苦労して、自宅から自転車で往復していた岩場の一つ。暗いうちに六甲を越えて、再び暗闇を宝塚の国道・経由で帰宅。『堡塁岩』への、あの暗く、やたら長いケ−ブル軌道の階段、登りと共に岩場へのアプロ−チとしては記憶に残る、楽しい想い出。
まだ、鎌倉峡への林道が土道で、岩場上への一般コ−スが整備されていなかった頃だ。
2008年4月に撮影。未だに『リング・ボルト』使用で、何か練習目的か試し打ち状態に見られる残置物が取り付き点に大量に残されていた。以前よりも『左壁』を、含めて多過ぎて、無意味とも見えるボルトが増加。
中には、指で回すと回転してしまう様な、かなりヒドイ設置物も存在している。
中段に私が15年ほど前に設置した『ハンガ−・ボルト』に、比較的・新しいスリングや固定マイロンが設置されていたり、右端の黒いスラブ面にラインが設定されていたり、自家製のハンガ−・ボルト等も設置されて、少し・まとまりの無い状態に、変化し出している。壁中のメイン・ル−トを少しばかり清掃した。誰も、苔などを除去していなかったようで、20年前の状態に戻すのには、半日作業が必要だった。『左壁』も、少し清掃の手を加えておいた。ここも真新しいリング・ボルトが増加している。
Friday, 04 April, 2008
2008年4月8日『下部壁』に、残置されてい『トップロ−プ用・支点のスリング』を、回収・交換。同時に少しばかり不安だった支点を『ロング・ライフ使用』で、補強。中央稜に、つながる終了点へのル−トも不安定な浮石と草付・泥を除去して、浮いたピトン1本を回収し、代わりにボルトを設置。左壁も清掃
2009年10月に、古い山仲間から贈られて来た『百丈岩』クライミング時の写真。足元を見ると、中学生の時に履いていた懐かしいテニス・シュ−ズだった。オニヅカを履き始めるまで、このスニ−カ−で六甲山の岩場を攀じていた。(下・写真)シット・ハ−ネスも使っていない。腰にロ−プを、ブ−リンで結んでいるだけ。
Friday, 23 October, 2009