芦屋ロックガ−デン・奥高座プロペラ岩』 |
『写真・撮影者 山本哲男氏 クライマ−は舟橋』 『84年度版の芦屋市・市勢要覧』の芦屋ロックガ−デン範囲の、説明写真として使用されています 『1977年〜1988年』この期間は、頻繁にフリ−クライミングの場として『プロペラ岩』『奥高座の岩場』周辺を使っていました。この周辺では、主に『ブラック・フェ−ス』と呼ばれている岩場がクライマ−に知られていますが、この『プロペラ岩』と隣接する岩場を利用している人は少なく、休日でも静かなクライミングが楽しめる場所として、以前から『通好みのエリア』です。 RCC時代の、次ぎの後継者達がクライミングの場として開拓。 詳細な情報や記録は少なく、公的な『記録』も殆ど忘れられた岩場です。 私は中学生の頃から、込み合っていて大人の目が気になる芦屋ロックガ−デンの中で。この周辺の岩場は一種の探検気分が味わえて、当時は岩場までのアプロ−チも不明瞭だった為、いつも貸切状態で使える岩場として、お気に入りのエリアとして良く仲間達を連れて行った岩場の一つ。 |
範囲的には全く別のエリア・場所範囲と思えるのだが、1970年代には『芦屋ロック・ガ−デン』の混雑さを嫌って、奥高座・周辺の旧RCCの雰囲気を感じられる『岩場』から、お多福山の山頂を超えて、山稜の車道まで出てから岩場に降りたり、木々の間に見え隠れする『岩場』に、遊びに寄ったりしていた。クライミング目的と言うよりは、新しい山道の発見とか、古い岩場の再発見の様な感覚を楽しんでいた頃の記憶だ。そういった記憶の中で数少ない岩場でのクライミングは、堡塁岩の近くの『石切り場跡』と共に、最近では『水晶谷・上流部の極楽渓の岩場』と呼ばれる岩場等が、含まれる。 標高的に『六甲山』の山域の中では、『堡塁岩』や『石切り場跡の岩場』と同じく、一般的なハイキング道利用で、稜線近くの高い場所にあり、アプロ−チの不便さから訪れるクライマ−が、少ない岩場と言える。 現在ではゴルフ場への車道・利用で『尾根』からの、アプロ−チで比較的アプロ−チを短縮できるので 残されている潅木に隠されたボルダ−と共に、整備を行えば再生する可能性は残っている。 『奥高座の岩場』に関しては、ゴルフ場ゲ−ト付近から、荒地山・山頂の手前に出て支尾根を下り、各岩場へと利用できる『登山道』が利用できるが、以前のように単純ではなくて明瞭なアプロ−チ道とは言えなくなっていたのが、ごく最近は不法ペィンティングの実行者?等も、立ち入るエリアとなってしまい、奥高座の滝・付近や荒地山の石梯子を下った辺りからも、明瞭に踏まれた登山道?利用で、誰でも容易に接近できるようになってしまった。特に、荒地山からブラック・フェ−ス取り付きまでは、年々と踏み後も、はっきりし出している。。岩場の位置関係が判らない場合は、芦屋ロック・ガ−デン入口の中尾根から分かれて右の谷に入り、キヤッスル・ウォ−ル前からの『奥高座の滝』への、一般ハイキング・コ−スを利用するのが、最も判り易く『荒地山・山頂』から『岩梯子』を下り、ボルダ−・エリアの下部からトラバ−スして上記に記載した、明瞭な道を利用して『ブラック・フェ−ス』下部に出るのも、周辺の岩場の位置関係を知るのに適している。ただし、プロペラ岩から、荒地山・山頂、方面への道は少しばかり分かり難い箇所も残されているが、最近の雰囲気では、この奥部にもヤブコギ、道の整備や標識を取り付けに来る、少しばかり変った趣味の人達も増加していて、トレイル・ランニング愛好家にも、人気が出始めたので、以前の様な通好みの、雰囲気が残る山域では無くなりつつある。 この辺りの岩場には、81年から86年に関東や九州の友人達と何度か新しいラインを開拓しようと訪れたが、その当時には来訪者の痕跡を見るようになっていた。 『荒地山・西側・高座谷左岸』に点在する各・岩場群を最初に『奥高座の岩場』と称したのは、大阪の『姫島正和氏』で、小豆島の吉田の岩場でOCSの林君達と左岸壁の更に、奥の現在はダムと化してしまった当時は未開拓だった「岩場」を、一緒に開拓した私達の知人でもあった。『関西の岩場』P232〜O233で、六甲山『奥高座の岩場』として各ボルダ−を紹介している。 紹介文の中に開拓は『大阪アルデ・ベルグカメラ−ド』と記載。主に、荒地山・西側の支尾根範囲のボルダ−群と一部『荒地山ボルダ−・エリア』範囲と、重なる箇所のボルダ−を紹介。 姫島氏・達が、初期に設定した開拓ボルダ−のライン数は約12本程度だったが、後に数倍のラインが完成していたが、荒地山ボルダ−と同じく震災時に、幾つかのボルダ−は、大きな被害を受けてアプロ−チが判り難いボルダ−を含めて、最近ではライン数は減少している。 初期の開拓が一段落した後で、まだ幾つか積極的にボルダリングの仮題としてクライマ−の手が触れられていない、ボルダ−や可能性の残っているボルダ−も存在する事から、再整備の手が入れば環境は改善されると考えられる。『荒地山』周辺では、以前よりも数多くの、一種の『新道』が増加していて、点在する露岩への接近は70年代と比べれば、格段に容易になっているので、以前ならばアプロ−チが最も遠く、不便な最奥部の岩場として、殆どクライマ−にしか場所が知られていなかった『プロペラ岩』等も、現在では終了点へ、荒地山・山頂から簡単に、かつ短時間で到達できて、昔と違って岩場の存在もハイカ−の方が、良く知っているぐらいだ。2009年10月に『プロペラ岩』の終了点から、特徴的なカンテと左右の岩場の清掃・整備を行なっておきました。 『プロペラ岩』の過去の写真は、70年代からの記録として白黒写真も多数、所持していたが他の情報や写真記録と同様に、全てを失っていて『岩場』で、偶然・お会いした先輩達を写した貴重な記念撮影・時の、写真も今は残っていない。 (旧)RCC時代に、藤木氏メンバ−と共に『荒地山の岩屋根』をビバ−ク地として、周辺でのクライミングを楽しんだと、私達に話してくれた先輩の写真を無くしたのは、本当に惜しい。 滅多にクライマ−が訪れることの無い『プロペラ岩』などにも最近では、クライマ−の姿を見るようになったとか、2008年3月に講習生の、Tジジチャンがクライミング中のクライマ−を見たと言っていた。 有名な『イタリアン・リッジ』等が、消失してしまった現在では、RCC時代を思い起こせる岩場の一つとして奥高座の岩場へ、無理なく継続できる、古い岩場も利用する価値はありそうだ。 尚、震災時に中央稜・側から転落・移動して高座川・河原に定置した数個のボルダ−を一番、最初にボルダ−の課題として遊んだのは、多分?私達だと思われる。 |
俗に『奥高座の岩場』と称された、岩場群へのアプロ−チは20年〜30数年前は単純だったが、現在では 芦屋ロック・ガ−デン『地獄谷・周辺』で、頻繁に見受けられるように、なって来た少数者の手になるものと思われる蛮行行為と全く、同じ様に迷路の様に登山道が、切り開かれて先達の遺してくれていた、過去の正規道は失われかけている。 立木の不法伐採から始まり、中には本格的と見紛うばかりの土砂工事まで行われている。恥かしいのは、歴史的な経緯も知らずか、地名や岩場を自分勝手に変更さす輩も登場している。 『奥高座の岩場』は大きく3箇所のエリアに分かれており、それぞれの岩場を確認するのは初めてでは難しい。訪れるクライマ−も少なく、震災で荒地山・周辺の岩場も大きな影響を受けた。 |
『荒地山』範囲の岩場の中でも、以前はハイカ−の目に触れる機会がほとんど無かった『カスティジョー』や『プロペラ岩』『鬼角岩』『ブラック・フェ−ス』等の、岩場も最近では多くの人が実際に目にする機会が増えた。『荒地山・山頂』から、黒岩・手前を左に下る『プロペラ岩』経由のコ−スも接近を容易にした。 |
一般に、奥高座・範囲の岩場として説明する機会が多かった『プロペラ岩』だが、範囲としては『荒地山』範囲の岩場として理解した方が、位置関係としては正しいと思っている。 (下・写真 09年11月03日 火曜日)撮影『ブラック・フェ−ス側の、尾根から見たプロペラ岩』 |
芦屋市の広報写真に使用する『クライミング写真』を、この『プロペラ岩』で撮影したのが1982年で、当時は精力的に既成のエイド・ラインの『フリ−化に挑戦』していた頃で、仲間達とは1978年から、この岩場も新しい挑戦対象として、私は頻繁に通って来ていたが、その頃には終了点に一般登山道は存在していなかった。 |
残置のリング・ボルトとピトン数本を使用してのスラブでのフリ−クライミング、中間・屈曲部から上が核心。技術的には70年代、後半期の課題としては厳しかった。荒地山『爬虫類のカンテ』よりも難度的にも、核心の長さも上回っていて、EB使用での達成課題としては、現在でも誇れる内容のラインだが、スラブの花崗岩の結晶は、随分と摩減し、難易度は現在の方が上がっている。プロテクションの打ち替えは、結局、今現在まで行わず、終了点も立木を使用。この、終了点の立木も以前には幼木で、支点として使えるようになるとは、昔は考えもしなかった。 |
『ブラック・フェ−ス』はRCC時代からの最も古い時代から、クライマ−に利用されていた岩場で、芦屋ロック・ガ−デンの入口に位置する『ゲ−ト・ロック』奥高座の『キヤッスル・ウォ−ル』と、共に長年、多くの登山者に親しまれ、初心者向きのトレ−ニングの岩場として、昭和初期から70年代まで賑わっていたが、80年代の後半以降は、以前の様に賑わう事は無くなって、休日でも意外と静かな岩場となっている。岩場の構成は大まかに下段、中段、上段と3段のフェ−スで、高さは45m。終了点は安定していて、残置ボルトは老朽化しているが立木が充分に利用できる。Tuesday, 27 October, 2009上段のクラックを含めて、壁中の潅木や草付を整備・清掃しておいた。壁中の残置支点は、かなり老朽化したピトンが多いが、チヨック等も使える箇所はある。壁下から左側が、以前から利用されていた優しい下降・登行ラインで、現在も使用されている。 |
『ブラック・フェ−ス』終了点へは、荒地山ボルダ−の『鯨の頭』下から下降するコ−スが最短。 |
『荒地山』への登山コ−スと山域・西側範囲の岩場へのアプロ−チ道は、昔と比べて複雑に交差して、一般に知られている情報では殆ど役立たないほどに、混乱している。又、北側からの侵入道に関しても、無秩序に開拓?新道と看板、標識類が設置され出した状況で、ますます混乱している。 『道迷い、と現在地の確認が困難』な状況が増加していて、意味の無いマ−キング類と犯罪的な落書き行為も、一時期よりは減りはしたが、未だに再犯者は存在している。以前は、無かった場所に勝手に樹木を伐採、尾根を切り開き、身勝手に過去からの登山道に交差するだけのコ−スを自己満足だけで、作り出す輩が、この数年間で出現しているようで、山中に無許可の『掘っ立て小屋=本人は避難小屋』と、明記するような非合法・身勝手な遊び場所を造る輩さえも出現。ある意味で、国内のポピュラ−なハイキング・コ−ス範囲で、最も醜悪な部類に入りそうな場所が存在してしまった。 『荒地山ボルダ−』サンデ−・モ−ニング・スラブ等での、トップロ−プ時の支点「ボルト」にも、嫌がらせとしか思えない蛮行が行われていて、チッピングの跡も最近、見られるのでペンキ使用での落書き、大量のゴミの放置などと共に、登山者は不審者の行動に気がついたら、証拠写真などを写して欲しい。 |
番号で呼ばれていた『荒地山・尾根下から派生する露岩・尾根』下部の『鬼角岩』や以前は、接近にも苦労した『プロペラ岩』などでのクライミングを実際に知る、クライマ−は少なくなった。 |