80年代『大阪・周辺の岩場』若い世代の活動拠点
約15年間・期間ほどの短い利用後に、使えなくなったり。使えない環境になった
『岩場』が、特に多く。現代に続く「クライミング環境」の変化を予兆させた地域・特性。
『大阪・周辺』特に、高尾山や近辺・山域のボルダ−を含めて、使用禁止や元々が
クライミング対象としては、使いにくい岩や、自然環境から施設や人工的な建造物の
設置、場所へと大きく環境が変化した『場所』が多い。
『コンペ・タイプ』のイベントだったので、この時に私は
初めて、今で言う『プリプロ』予め、クライミング・ル−ト
上の残置支点に「クイックドロ−・スリング』を残して
リ−ドで、それらのカラビナにロ−プを通すスタイルで
クライミングを行った。今でも、このスタイルは一種の
理想や、更なる『夢』には反抗する手段だと理解。

この時も、かなり抵抗感が強かった。
確かに、より『安全でム−ブに集中』出来て、かつ『安全』
だから、どうだ・みたいな感触で使った。
この「写真」の頃から、もう30年近い年数が経ちスタイル
やクライミングを楽しむ、次ぎの『夢』にクライミング技術の
向上が必要不可欠な、人達も含めて『予めセット』された
予定された『安全』この方法は、更なる困難度の追求と言う
意識の下で、誰でもが当たり前の『常識・方法論』として容認
理解され、難度に関わらず、地域もエリアも岩質を問わずに
利用されている。
そして、私は今・現在でも『予定された安全』この方法での
限界を想定した『クライミングの場』が、自分の選ぶル−ト
では使わない、自由を持っている。
『高尾山の岩場』
大阪の最も、都市近郊の山にある『岩場』として知られていた。
実際には、他の関西の古くから知られ、登られて来た岩場とは
違って、クライミングの対象として利用され出したのは、意外と
新しく、知名度は当時も高くは無かったが『雑誌・紹介』後から
アプロ−チの容易さと、ル−ト内容も当時の水準として徐々に
クライマ−の欲求に応え出し、元々・岩場の乏しい大阪平野
から、近辺の山域に『六甲山』程度の岩場が、皆無だった事も
あって、岩質も硬くライン取りの限定や工夫で、進化・進歩系
の『新しい岩場』として人気が出て来た。
情報が「紹介」された雑誌・記事に『ボルダ−・エリア』として
紹介された事は、残念で。
高尾山・山頂の目立つ目立つ岩場を含めて、幾つかの岩場が
クライミング対象となっていて、西の「堡塁岩」と比較しても
この『岩場』は、将来性と可能性を秘めていた。私は『六甲山』
の正真正銘の『堡塁派』で、子供の頃から登り親しみ、岩を
楽しむ事を知った場所が、同じ『六甲山・仁川渓谷の岩場』だっ
たが、交友関係に恵まれていた当時の環境と立場が幸運で
最も、初期の開拓メンバ−の若手クライマ−達からの招待で
この『大阪の岩場』を早くから知り、登っていた。
神戸範囲のクライマ−が、まだ誰一人この『岩場』の良さを知ら
ない頃に、今から思えば、登れなくなる「エリア」としての思い
もあるが、頻繁に通う機会に恵まれていたのは幸運。

地元メンバ−が,中心となって「この写真」に出ている関西
では、かなり画期的だった「クライミング・コンペ」もロ−カル
スタイルながらも、この岩場で彼らが実施。私も当時は競技
に興味も意欲も無かったが、オブザ−バ−として現場で実際の
クライミングを楽しめた。
参加者の高校生が、クライミング・シュ−ズが買えず、安物の
スニ−カ−履きで参加していても、それが別段・問題にも
ならない程の「若いコンペ」だった。

その後、この『岩場』には、私からの紹介で関東勢も登りに
来る事もあったり、六甲山の岩場には、その頃に無かった
タイプのル−トが追加されたりと、話題も多く楽しい岩場として
知名度も高くなっていった。
『2期か3機種・目の新しいEBシュ−ズ』を履けない、若い学生達は安物のスニ−カ−に穴を空けて。そして少し懐からシュ−ズ費用が捻出出来る者は、誇らしげに『EBシュ−ズ』を履いて。私は、その頃にはガリビェ−ルが出した、今の標準タイプともなったモデルの「コンタクト」を使用していた。赤い靴紐でEBを履くのが一種のステイタスそんな感じの頃だ。眼下に街並みを、見下ろせる大阪を代表した『岩場』にて。
1983年『OCS主催フリ−クライミング・コンペ』
『世代間ギヤップ』は、スタイルやフアッションの変化
に代表される外見上の問題だが、クライミングに関し
も、その違いは『過去の情報』の伝達が途絶えた
その結果にも現れている。

通説・10年、ひと昔はクライミング環境と情報に関して
最も、当てはまるらしい。

90年代からの、雑誌情報をよく読めば、70年代の後半
から80年代の、中頃までに探査・調査から実際に岩場
ボルダ−の多くが、先行者のチョ−ク跡・記憶の残る
箇所が、意外に多い。後続・継承者が、その事実を知る
術を持たないのか、情報を調べるだけの熱意と努力を
実際のクライミング程には、持ち合わせていないか。

もしくは、噂程度の『知識や情報』も聞く環境を周囲に
持たない・それだけの事だろう。
そういった意味合いで「生駒山」「交野山」「千行寺」
「御手洗」その他のエリアは、不遇な岩だと思われる。

登れなくなったり、登る行為そのものを禁止されたり。
登る対象そのものが様々な理由で、失われた場所も
含めて、関西・範囲では情報の継承が、雑誌類・活字
メディア範囲でしか、広くは伝わらなかった環境は惜し
い現実だと、私には思えて仕方が無い。

『関西の岩場』が、はたした貢献は今は昔。

次ぎの『貢献・媒体』はネットに移行しそうだ。
大阪周辺での『岩場・捜し』は、旧RCCの時代と違って
目ぼしい『毛虫』には、何かしら現地に立つと過去の先輩達
の痕跡が、見受けられるパタ−ンが多かった。

丁度、私達の一つ先輩達の「時代」が「鉄」と呼ばれた様に
各地の名も知らぬ、潅木と背丈を越える草や棘を掻き分け
て、辿り着いた「岩場」の多くには錆びて、使い物に、ならな
い『リング・ボルト』やハンド・メイド・タイプの同じく、錆びた
プレ−ト等が残されている事が多かった。

それでも、当時の「情報」の中には決して見つけられない。
そして、誰からも『噂』を聞かなかった岩場は意外な程に
都市近郊から、近い場所にも、道路から苦労少なく見つけら
れる場所や地域に点在していた。

ハイキング大好きの私は、特に小さくとも尾根や山頂・付近
に点在している「ボルダ−」や何かしら、古代の歴史や古風
な標識や岩に刻まれた、判読不可能な印などを見つけては
実際の「ボルダリング」よりも興味を覚えて、岩を首尾良く
発見できなくても、それなりに楽しい山での時間が過ごせた。

そういった意味では『大阪・奈良』山域の中でも、簡単に
入山できる、エリアが実に数多く点在していて、その当時の
クライマ−が、誰も興味を示さなかった「エリアと岩場」の探査
山行は、日数と比例して毎回『得るものは大きかった』
今の様に地域別の『ル−ト図集やトポ』そういった市販品の、便利で探す楽しみを最初から放棄さす便利な
「情報」が、殆ど無く。あったとしても『登山・雑誌』の断片情報や、ごく稀に「山岳会」の出している、少し思い込み・や自意識過剰・気味の「記録」そして、怪しいクチコミ情報、その程度しか「関西・範囲」では、岩場情報は知られていず、新しいと感じる「情報」は非常に少なかった。ある意味で(1940年〜1950年)頃に精力的に活動していた、大先輩たちの『記録』の、方が夢があって貴重な情報と感じていた。
『六甲山』は、神戸の山。大阪には『生駒山』そして、意外と知られていなかった「生駒山系の北部」には、当時でも、殆ど大阪のクライマ−に知られていなかった『私市の岩場』が、あった。開拓精神が旺盛だった先輩達はこの岩場にも「ボルト・ル−ト」を数多く拓いていたが、私達が入り始めた頃には少人数のクライマ−にしかフリ−での対象・課題としては見られていなかった。そして、フリ−クライミングのル−トが知られ出した後に、この大阪・範囲では貴重だった岩場は、施設へと変貌して今、現在は残ってはいない。
現在は『ホシダ』の名称で、関西範囲でも
最も、著名な『クライミング施設』の立地場所。

時代は『人工壁』
かっての、石切場・跡の『私市の岩場』の記憶
を持ったクライマ−は少数派だろう。

この『岩場』には、現在・日本各地のロ−カル
エリアで生じている管理「責任」の問題で引き
起こされる『クライミング禁止』や『自粛』と言った
問題の、解決策・方法での先鞭を付けた岩場。

元々か『大阪府民の森』に指定されていた公園
で、クライマ−からの要請が受理されて、当時と
しては、本当に珍しく管理事務所との関係が好転
クライマ−が、届けを出せば「クライミング可能」と
いったシステムが機能した、数少ない場所だった。

その歴史から、ここには関西でも人気が高い規模
の大きな『人工壁』が設置されて、クライマ−には
格好のトレ−ニング場所として今に歴史が続いた。
(下・写真)の生駒『哮塁雅の岩場(タケルガの岩場)』も、上記の『私市の岩場』と同じく、かっての先輩達が
ボルト連打のエイド・ル−トを作っていた。高距は50mと意外に大きく、下部に手頃なクラック・ラインが走っており初期には手頃なフリ−クライミングが楽しめた。開拓後の『記録』から、訪ねて来るクライマ−も僅かには、いたが、この「岩場」も、忘れられた岩場の一つだろう。大きな蜂の巣がハングに存在する事が多くて、実際に蜂の被害にあったとの『報告例』も聞いていた。私は数度しか、この岩場に通った事は無く、周辺のハイ・ボルダ−を含めて、可能性が見られた岩も、あったが一般的なエリアとは当時から、ならなかった。

『私市の岩場』からも近い場所にあり、高距も周辺の岩場と比べても50mと大きな岩場だったので、昭和の時代のクライマ−はエイド・ル−トを開拓していたが、それらの古いル−トは不思議な事に殆どが『壁中の途中』で終了しているタイプが多かった。1980年代に、次の世代であった大阪の若いクライマ−が、この壁に注目し出した頃には実質2本のル−トが登られていただけで、誘いを受けた私も彼らのル−トを再登した。
この岩場・周辺は当時としては再発見された『クライミング・エリア』として隣接する『前傾大ハング岩』と称された磐船神社、近くの大岩もクライミング対象とされたが、この周辺のビック・ボルダ−は御神体でもあり、この頃からクライミング、クライマ−の行動が一種・社会問題化する兆しを見せていたようだ。
大阪北部のクライミング禁止の岩場の問題も、その後のボルダ−・エリアでの問題も、原点は同じで国内の他のクライミング環境とクライマ−の、問題の最も早い時期に論点を考えるべきだったのは、やはり大阪範囲での若いクライマ−の行為だったのは残念な事なのだが、当時の彼らを短絡的に非難すべきでもない。
彼らに注意を与えなかった側の、先輩クライマ−にも責任の一端はあると思える。
こんな所(場所)まで、探査・クライミング対象にするのか?
と、言うぐらいに70年代の後半から、80年代・前半には広範囲に岩場を探して私達は活動していた。

「この風化・奇勝地」も、話しの種、程度に実際にクライミング
を行った。この種類の「クライミング」は和歌山県まで含めれば
覚えていないほどに、数多く中には、使える。可能性を感じる「場」も、存在していたが、その後に本格的な「開拓に着手」した『場所』は、一切・情報を公開したり『記録』を出す事も無くなった。

そういった岩場の一つが『生駒山地・範囲の岩場』で、数箇所
ボルダリングの場として、雑誌で短く記録文が公開されて、興味
を引かれてクライマ−が訪れていた。

『千光寺・行場のボルダ−』等は、特に著名な部類に入る
ボルダリングの記録として公表されたが、ボルト設置の短い
リ−ド及び、トップ・ロ−プ課題のル−トというのが実情。

風化、浸食の激しい今ならばクライミングの対象としては考えないような場所での、ある種の冒険的な試みも、この頃には抵抗感が薄く、ボロボロの泥壁や、潅木密生の草壁同様の対象も、登る機会はあった。後に、そういったクライミング体験は役立ったと思う。
70年代まではクライミング環境に乏しく、これといった岩場が存在しないとまで言われていた大阪範囲は意外な事に街中から気楽に、訪れる事が可能な岩場が多いと言うことが80年代から、ごく少数の若手クライマ−の探究心と探査労力で発見され出した。『高尾山』が人気が出だしていた時期と前後して、周辺で幾つかの岩場が利用され出していたが、そういった岩場は、あまり公開されることも無く多くのクライマ−に触れられる事も無かった。代表的な、そういったロ−カルな岩場の中でも『二子岩』などは、もっと評価を受けても良さそうなエリアの一つだった。
1983年〜87年頃に私達の登った大阪周辺地の岩場や山頂付近のボルダ−に、関する記録や雑感を含めたような文章は主にアラン・ドレザレックが幾つかの雑誌に記録を投稿していて、南紀『白崎』のときと同じ様に雑誌・紙面で紹介された。同時期に神戸の仲間達と共に、新しい岩場の探査・開拓に参加・協力してくれていた在日メンバ−の数人は、クライミングや登山関係とは別の旅行雑誌や幾つかのロ−カル情報誌や新聞紙面からのインタビュ−等でも、この辺りでの楽しいクライミングを報告してくれていた。そういった記録の多くも、震災時・震災後に殆ど全て消失したか、使えない状態として廃棄してしまい惜しい。
私が『紙面・名称』を提供した、一時期の若手・大阪クライマ−のプライベ−ト・タイプのクライミング情報にも幾つかの記録が出ていた記憶もあるが、その種類も今現在・私の手元には残されていない。