瀬戸内海『小豆島』 |
福崎・天狗岩『小豆島のインスボン』 |
1972年、頃に私達が大阪『弁天埠頭』からのフェリ−で『小豆島』に渡った頃は、今の様に高速道の利用から接続が容易ではなかったので、姫路『飾磨港』から『福崎港』に入り、この岩場を船上から見る機会は殆ど無かった。その為、吉田の岩場にクライマ−の、視線と興味が集まりだす前には、このスラブ壁が多くのクライマ−から注目を集める事は少なく、話題としても取り上げられる事は稀であった。 そういった状況の中でも、、開拓精神に富み、自分達で新しいクライミング・ル−トを拓く意欲を持つクライマ−は存在していて、1971年から1972年・期間で『守口市暁山会』メンバ−によって、岩肌に手が触れられて最初の開拓ル−トが拓かれていた。 丁度、私が小豆島に初めてクライミング目的で入島した前年・頃の記録だったので、当時の大阪「山の店」で、断片的な情報は顔見知りのクライマ−から、大きな岩場が小豆島には数多くあり、その中に既存のル−トが無くて、開拓可能な岩場が『福崎港』近くに、ある・そんな話は聞いていた。 『岳人』の瀬戸内の岩場・記録が私に同行した大阪OCSの林君により、特集記事として紙面に出て。 その記事の中に、この『福崎港・黒岳・天狗岩』と、開拓者に呼ばれていたスラブ岩壁も記載されて、広く知られ出した。 当時、小豆島ツア−を終えて、福崎港を後にした船上から見える『この岩場』の事を、林君に訊ねられて、開拓者グル−プや当時・呼ばれていた、岩場の名称などを彼に詳しく教えた。ただ、その当時に私は岩場の概略は知っていたが、実際には取り付きや、山頂からの景観を自分の足で登って、体験としても知ってはいたが本格的なフリ−ル−トとして、自分の手ではル−トは開拓していなかった。 |
その後に、情報を活用する事では、他者と比べて格段に「抜きん出ている」林君は、すぐさま彼女を連れて、この岩場に探査の手を伸ばし、いつもの様に記録を雑誌に投稿していた。私も前後して当時『和歌山の白崎』に付き合ってくれていた『アラン達』をパ−トナ−に、現在・右稜と呼ばれている辺りから、山頂に抜け出る、快適なル−トから手を付け始めて、正面壁のクラックに移動して活動を開始した。 1982年。私達が遊び始めてから、この岩場は再び注目を集めた。 |
『開拓・初登は守口市暁山会』のメンバ−。彼らが公的に当時の記録や詳細な岩場での開拓・活動を公開していたのか、どうかを残念な事に私は知らない。 大阪の「山の店」での、噂話・程度の情報や『クライマ−の集まる』週末の喫茶店など、当時の狭いクライマ−環境で、聞き及んではいたが、開拓後に『小豆島・黒岳・天狗岩』でのクライミングを聞く事は、殆ど無かった。 OCSレポ−トが、数回『岳人』等の登山雑誌や『CJ』の記録に出たが、当時は『吉田の岩場』に、流行的なフリ−クライミングの課題『クラック』が、存在していたので、対極的に見える『スラブ壁の天狗岩』に積極的に、新たなクライミングの場を求める、クライマ−は少なかった。 |
(CJ・クライミング・ジャ−ナル)の1985年16号35ペ−ジから36ぺ−ジ『小豆島の仁寿峰・黒岳・天狗岩』 紹介で、クライマ−に『小豆島の仁寿峰(インスボン)と言う名称』が知られた。 『インスボン』は、お隣の国『韓国』の代表的な岩場で、ビック゜ドラゴン等のル−トを日本人として始めて登った廣瀬氏の記録などが『岳人・記録』でも紹介されていて、過去にも岩場の紹介は広く知られていて、朝鮮戦争・時から在韓米軍が駐留して、その中のクライマ−が韓国・国内でヨセミテ派のフリ−クライミング思想と共に、クラック系のクライミング技術や用具の使用を、現地・地元の韓国人クライマ−に伝えた、事から、早い時期から『ソウルから近い位置にあるインスボンの岩場』は、良質の花崗岩・岩壁として、素晴らしいクライミング・エリアへと成長していて、シュィナ−ド・ル−トや日本には無い、タイプのル−トの存在・情報も含めて、比較的・当時のクライマ−にも、名称に関しての知識を持った者は多かった。 この『記録・情報』が、出てからは『小豆島のインスボン』と呼ばれる岩場となり、かっての『黒岳・天狗岩』の名称を知るクライマ−は少数派。 『その後に』アラン達と、クライミングを楽しんでいた時。正面のル−トから確か、ラッペルで下降中だったが 壁の途中で、若いクライマ−達と出合ったが私の下降用に残置したテ−プ・スリングに名前が、記入されている事が、気に入らないようで文句を言っていた。自分達の『岩場』だとでも言いたい雰囲気を感じた。 発見・探査から開拓ル−トそして、次に既存のエイド・ル−トのフリ−化。そして、オリジナルなフリ−ル−トの開拓と世代が変わって、訪れるクライマ−は変る。それでも、岩場に関する独占欲を言葉や態度で表明する連中は、珍しい。 『西日本エリア巡り』が、少しばかり通のクライマ−に興味を惹かれ出した80年代の、前半期に私の六甲の アパ−トや、その後に再び戻った、西宮市の自宅を中継点として、関東の若い仲間達や、岩崎氏からの紹介や、縁故を頼っての若いクライマ−が、この『岩場』にも、挑戦しに行っていた。 彼らの多くは、長期休暇なみの日数を確保しているものが多くて、集中的に『この岩場』で開拓を目的として活動したメンバ−も存在した。後に、京都のクライマ−が拓いたと記録を公表した、数本のル−トの中には、試登時に、課題が解決されていたものも多く含んでいたようだ。登り廻るのに、忙しくて雑誌に記事を書かなかった連中も、今は現役から遠のいてしまい、かれら関東勢の小豆島での記録は人目に出回らなかったらしい。宿泊ノ−トの類も、震災時に私は遺失してしまった、 ル−ト図、コメントが書かれていた、記録部分は記憶に残っているのだが、詳細は覚えていない。 関東の仲間達と遊びに行った頃の『小豆島の岩場』吉田も、福崎も親指の写真・記録も、殆ど手元には 残っていない、岩崎氏・関係の仲間達とのクライミング時の写真も、どうやら固着し、黴も生えてしまった アルバムの中の様だ。復元する手段は、判っているのだが金銭的な負担も含めて、再現する機会は、まず 無さそうだ。 |