六甲山『芦屋ロックガ−デン』
『ロックガ−デン』とは、よくも名づけた、そう思える
ネ−ミングだ。他に似通った、地形や岩場が存在し
ていた「六甲・山系」の中でも、やはり『芦屋ロックガ−デン』
は、最も・この名称・地名が似合っている。
『震災でブロック状に崩落した万物相』には、間違った名称
で『看板が設置』されている。嘆かわしい事だ
『ロックガ−デン』の名称に関しての、詳しい記述や歴史的な
経緯・命名時の詳しい、いきさつ等の情報は『文献』の中では
幾つか、今に残る資料は存在していても、、その当時の先輩達
から、直接に歴史的な事柄を聞く機会を、持てたクライマ−は
現在では、殆ど私達の地元・在住者にもいなくなっている。

1924年に、六甲山からの活動を元として活動を行っていた
「神戸徒歩会」は、徐々に諸外国(特に英国)からの、本格的な
ロッククライミングや氷雪の、山々への挑戦を「夢見る』若手の
登山者達の欲求や希望に、その活動が対応できなくなっていたようだ。

現在の『山岳会・離れ』現象にも、似通って既存の保守的な層や
世代との、意識面・活動面での隔たりから、更に活動の舞台や
行動の範囲を、技術的にも意識面でも広げようと、考え出した
代表的なメンバ−『藤木九三、水木祥太郎』達は、「徒歩会」から
独立して、日本国内では、他の地域にも同じ関西範囲にも、当時
ロッククライミングを主目的とした『RCC・ロック・クライミング・クラブ』を、六甲山を身近に控えた『神戸の地』で、発足させた。
当時、この『RCCメンバ−』には、単独者としての活動で有名と
なり、ガイドレス登山の最も、論理的な実証・活動者として、つとに著名な「加藤文太郎」も加わっていた。最近は、『六甲山イベント』として、他府県からも参加者が集まり、「トレイルラン」の先駆け的な活動・地域とコ−スとしても知られる『六甲山・全山縦走』も
自宅の神戸市内への、山行後の「宝塚」への下山後の徒歩帰宅
を含めて、約90Kmの半分にも満たない距離での、競争登山の
感のあるイベントは有名。
俗に『芦屋ロック・ガ−デン』と、呼ばれる山域・範囲には
諸説あって。入山口を阪急『芦屋』から住宅地を抜けた
『高座滝』からとする事に異論を、挟む者は、まず・いない
が、中央稜を挟んだ二つの、谷の周囲の範囲を、どこまで
『ロック・ガ−デン』と、称するのからには古くから意見が分
かれる説が、存在している。最上部を『風吹き岩』として。

東西を、西は『山ノ神』東を『荒地山』までを、含めて総称
する様に、なったのは、あまり古いことでは無さそうだ。
初期には、『ゲ−ト・ロック』から、『風吹き岩』直下の岩場
辺りまでの、地獄谷と支流範囲。特に風化・浸食地形が
広がる一帯を『ロック・ガ−デン』と呼ぶ事が多かった。

最近では、手軽なハイキング・山歩き感覚での記録や記述
で、個人的な判断・範囲で『お多福山』や、横池465m
付近の山域も、単純に『ロック・ガ−デン』範囲と認識して
いる人達も増えて来たようだ。
開拓期の登山者は、元々が『ロック・クライミングの練習場所』としての、価値を見ていた、山域・範囲だったので、関西に多い潅木と松の、生えた別段アルパィン風の雰囲気も、持たない稜線・尾根を、特別に見ていなかった。

彼らが、注視・注目して『可能性や夢』を、見ていたのは当然『岩場』の存在だったからだ。
『ゲ−ト・ロック』から始まり。左岸小滝から『門滝』そして
『喉・ゴルジュ』から、砂礫帯に入って『A懸垂岩』そして
中尾根(ロック・ガ−デン中央稜)以前には、存在していた
奇岩・練習斜面から、迷路ロック。チムニ−の岩場から続く
『B懸垂岩』そして、これも現存していない『ピラ−・ロック』
そして、ここも震災時に崩壊した『万物相』『墓場』そこから
荒地山・直下の『屏風岩』
『六甲山・系』の中でも、ここ『風吹き岩』は絶好の、ハイキング・コ−ス途中の休憩ポィント。眼下に広がる
景観も中々に、素晴らしく。『RCC時代の、大先輩達』や多くの登山者も、きっと・この地から「次ぎの山への夢」を限りなく。そして果てしなく見つめて、いたのだろうと思うと、改めに『ロック・ガ−デン』範囲の、山の良さを感じる。
震災で崩落・消失した『芦屋ロックガ−デン』エリア範囲の中で、位置的に中心としての場所に存在していた『ピラ−ロック』は、六甲山の岩場の中では、クライマ−に利用されるタイプの『岩場』ではなかった。
西面は、比較的・容易な段差と短い『壁』を、登れば二つのブロックに分かれたピ−クに立つ事は容易だったので、私が引率したり企画で引き連れて行った、家族や子供達も、大勢・この小さなピ−クに立っている。ちよっとしたクライミング気分を、味わえる素敵な場所だった。
地獄谷も上流・範囲に『コンクリ−ト堰堤』が、続々と設置される以前には、細い沢筋を詰め上がって尾根に出るコ−スや、途中から『奥壁』へ回り込んで、風吹き岩へ至るコ−スも使えていた。今では、趣や雰囲気と共に沢筋は荒れ果てて、往時の面影は失われている。
最近では『地獄谷』周辺には、滝が登れない人達か、最初から『滝や岩場』の通過を避けたい目的でか両岸ともに、ある意味で『自然破壊』&『環境・改変、改造』と、表現しても構わない程度に、様々な巻き道が、不特定多数の人達の作業で、毎年の様に増えて行く。昨年は無かった、小径や滝を巻く、梯子から固定ロ−プまで、不要な標識テ−プの残置と、共に増加しているのは震災以降だ。
『ロックガ−デン』の名称・範囲は広くて、地獄谷も当然・この名称の中に含まれている。大正期には地下足袋履きで、谷の入り口の『ゲ−トロック』から、尾根に上がって再び、沢筋に降り立ち上流へ幾つかの『滝』を
足を濡らしながら登っていた記録が残されていて、『ホワイト・フェ−ス』と呼ばれる、岩場はRCC時代には存在していなかった。この種の岩場は山の斜面が、崩れて露出して出来た、比較的・新しい岩場で古い歴史を持った、ロックガ−デンの岩場群の中では異色の存在だ。
『喉・ゴルジュ』と、呼ばれている地獄谷からの支流部の両岸が狭く、落ち込んだ沢筋・周辺も地形の変化が甚だしい箇所の一つで、元々が脆く・軟弱な岩質と土砂斜面は10年・単位の時間尺度で見ても変化している。変化しない、往時の外観を残す場所の一つが、この支流・入口の『ションベン滝』で、滝という名称が気恥ずかしくなる程度の段差・岩場から細く水流が、地獄谷に注ぐが、ここは常時・水流が流れている場所ではなく、水流が枯渇している時には見落としてしまう人達も多いと聞く。
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30数年かの時間の経過で、この写真の辺りの
雰囲気も地形も、大きく変化した。
面白半分に薄いアレ−トにアックスで穴を空けて
喜んでいるような登山者も存在していて、人為的
で作為的な自然破壊は、今・現在も続いている。
アイゼン(クランポウ)着用での歩行練習に過去から
引き継がれた、慣例で現在でも多くの登山者と目的
を持った人達が、尾根筋を筆頭に周辺の環境を変化
させている事は周知の事実。

この問題に関しては、批判的な人達が多い事も
私は知っている。
最も、顕著に環境・景観に変化が見られる範囲。
かってのリッジやピナクル状の岩塔は、殆どが、その
外観が変化していて、厚みや高さが減少。
完全に、往時の姿が消えてしまった箇所も存在。
『万物相』は、震災時に大きく崩落・崩壊してしまい
全く、違った姿で残っている。新と旧に別々に、存在
していた事や、名称の云われを知る人も少なくなった。
2009年 春
『キヤッスル・ウォ−ル』終了点に私が設置したビレ−ステ−ションの状態(09年10月13日 火曜日)
設置後、10年ほどの年数でマイロンの錆が目立つ。初期に設置した、チェ−ンは新たにステンレスに変更しておいたのが正解だったようだ。
『キヤッスル・ウォ−ル』
消失前の『B懸垂岩』
『荒地山ボルダ−』から見下ろした、かってのRCC時代の岩場5箇所。これらの岩場は、現在ではクライミング対象として存在していない。『イタリアン・リッジ』『エレファント』『バランス・ロック』『イ−グル』『城砦/カスティジョ−』かっての原形を留めている岩場は、一つも残っていず、これらの岩場でのクライミング経験を持つ、クライマ−も非常に少なくなって来た。手前の立木下のスラブ岩は『ブラック・フェ−ス』終了点。

70年代の後半時期から、86年までに『イタリアン・リッジ』や『イ−グル』での、写真撮影は地元の映像作家の方や、個人からのガイド依頼で数度、行っていて『プロペラ岩』でのクライミング写真は、芦屋市の広報誌などにも使用されている。『カスティジョ−』や現在は、崩落・消失した他の岩場での写真を探している最中。

上記5ヶ所の岩場での、クライミング時の記憶を共に語れる、仲間が一人も残っていないのが、寂しい。
2009年10月 数日かけて『プロペラ岩』と『ブラック・フェ−ス』壁中の、潅木類と草付、羊歯を清掃、整備しておきました。特に、クラック内に長年にわたって、詰まった泥や松を清掃して、チヨックの使用が再び、可能になったポィントもありますが、降雨が続かないと壁中に落ちた、土が綺麗に流れません。
支点類は、回収も新たに打ち足しも行っていません。
(下・資料写真)1950年〜1960年代に発刊された、六甲山ハイキングの案内本には、頻繁に登場していた芦屋ロックガ−デンには、現在の様な徹底した植林事業が整備されていず、中央稜からの俯瞰は今とは全く違う景色が楽しめ、鉄塔下の茶屋や数本の下降路からのA懸垂岩やB懸垂岩への接近が容易だった。
下の写真と同じ、景観を記憶されている方も徐々に少なくなっていて、当時はクライマ−なら誰でも知っていた旧RCC時代からの、継承されたクライミング練習の岩場で、今は消失した岩場や斜面を覚えている登山者も少ない。