『岳人・編集部』から依頼された、私のテントに関する『夢』は、少しぐらいバカバカしくても構わないとの連絡だったので、夢想的な部分も含めて、当時の常識では現実化は不可能と思っていた事も、比較的・気楽に書いた。
その執筆・原稿の中でも特に『空への憧れ』から、書いた山頂からの飛翔に関して82年ではクライミングと飛行は、僅かにボワバン氏の記録程度しか、私達は知らなかった。当時、まだ『クリフ・ダイブ/べ−ス・ジャンプ』の実際を私達・日本のクライマ−は殆ど、何も知らなかった頃だからだが、ハング・グライダ−での山岳・飛行には強い憧れと、衝動を押さえ込むのに苦労していた。まさか、数年後に『山岳フライト』を自分が、実際に体験して、その世界に深入りする等とは考えも、しなかった。『パラパント』緊急時には、当然シェルタ−・テントに使用できた。夢は、見ていると適う。
本物の『ユルタやパオ』は、未だに手に入れられないでいるが、同じ大陸そして政治的な介入や圧力や圧制の問題を色濃く感じてしまうが、モンゴル政府・中国(軍隊)使用の本物の『寒冷地・仕様』の、パオを連想させるこの特大・特殊、構造の中で「焚き火」が可能な、丈夫な『テント』は、不思議な巡り合わせで私個人の所有物として、今・現在も自宅で大きな存在を邪魔にしながらも、時々は『バリアフリ−企画』等では、実に有効に活用・使用している。
何よりも、車椅子・利用者が最も気楽に、そして快適にキャンプを楽しむのには、この特大サイズのパオ・タイプのテントの使い勝手は理想的だ。そして、宴会用としても・これ以上の快適空間は、そう山では得られないので、大事に使っている。2006年度の『キャニオニング・スク−ル・ベ−ス』として約70日間・常設利用
後2回、長期・常設使用すると、もう使えなくなりそうなので『バリアフリ−企画・優先』装備に残そうと思う。
当時、珍しい事に『岳人・東京、編集部』から、わざわざ『六甲山・芦屋ロックガ−デン』まで取材に来て頂いたこの頃としては、珍しい事だった。記者にとっては、RCC発祥の『地・山』としての興味は強かったようだ。
『岳人・1983年2月号 No428』
既存の『山岳会』や『大学・山岳部』等とは、異なる個人の交流関係で新しい夢や活動に、つながる『何か』を求めていた時代に、六甲山の自然環境を使って実に様々な『企画・イベント』を実施していた
海外・通販でクライミング・ギアを買う『おもろいもんを買おう会』とか、ケイビング愛好者と若手のフリ−クライマ−を集めて『技術・交流会』とか。この少しばかり、ふざけたネ−ミングの『テント・カ−ニバル』もそういった時代の、私の企画イベントの一つ。
1970年代から85年、頃までは(某)企業
が、この種の当時としては本当に珍しかった
個人の企画イベントに興味津々で、関与
広告利用を本気で考えていたようで、数度
の支援・協力を行うとの連絡を頂いていた。

しかし、私自身が、その(某社)の登山用
テントの販売方法や、基本的な営業方針
に、好まない感触を覚えていた為に、その
申出は、お断りした。
割高感の強い『登山用・テント』に、関しては
当時、国産品に関しては幾つもの不満を私
は持っていた。

『登山・専門雑誌』で、取り上げられる関係
記事や『広告』にも、大きな疑問を抱く事も
多かった。

まだ『テスト・レポ−ト』や、信頼性が高い
製品に関する『使用者側・実験』タイプの記事
や各社『性能・比較』の、様な使う側が欲して
いる現実的な、情報が中々、得られない事に
も不満を抱いていた。

当時、雑誌からの『執筆・依頼』で書いた
登山・山岳使用を前提の各種テント情報の
中に、緊急時の『テント』補修品の必要性や
メンテナンスを含めた『メ−カ−対応』と言う
項目を、雑誌掲載・時に削除されて、少し
がっかりしていたのも、こういった企画を主催
する原動力と、なった。
書かしてくれなくても『表現・公表』できると。
【ほら・話】みたいな事を書いているな。舟橋さん、はテントのことに関してはロマンチストですね、等と涸沢の居候達は『岳人』に出た、私の執筆記事を読みながら、そんな風に私の『夢』を酒の肴に笑っていた。
テントの中で「焚き火」なんて無理ですよ。若いWV部の女の子達も笑っていた。テイピ−やユルタの様に世界には、私達がコンクリ−ト箱に、ライフライン完全完備で風雨・自然の猛威を忘れるほどに進歩してしまった構造物とは、全く異なる自然環境を利用した天然素材の『ソフト・ハウス』で生きている人達も、いる事を若い彼らは情報としても知らない。テイピ−にも憧れを、持っていた私は当時から『テントの中での生活』基本的な暖を取る為に『火床』を備えた、テントを持ちたい、使いたいと本気で考えていたので、その種類の各種テントの情報は集めていた、流石に『登山用からオ−ト・キャンプ範囲』までのナイロン素材にフレ−ム構造のテントならば、かなりの大きさ・収容人数の『ソフト・ハウス』は作って、貰えたが。テント内での『焚き火』は穂高では実現しなかった。その後に、『夢見ていた』テントを手に入れて、時々・笑っていた若い子達を想い出す。
『山岳用テント』を中心としたTENT CARNIVAL
関西『神戸・発信』ブランドとしては、当時・唯一の『友光製縫・職人芸的テント製作』
一般的には、オリジナル・登山用ザックの愛用者が多かったが、登山用テントに関しても
かなり高水準で時代を先取りした、様々な機能・デザインのテントを多数、製作・発表していた。
20年後の「ウォ−ラス」や「シェラ」タイプの原形から見比べ、比較しても遜色を感じない。
フレ−ム構造や耐風強度の為の、オリジナル・デザインを当時の、登山者の何人が正しく理解していたかは疑問だが、当時としては奇抜で新鮮で、かつ楽しい様々なテント類は注目を集めた。
一度に、これだけの種類の『登山用テント』を実際に張っている状態で確認、比較できた機会は殆ど無く
シヨップ関係者からの、質問も多かった。
ヒマラヤ・クライミング
エキスペディション・ベ−ス・キャンプを想定した各種・特殊テント類は、当時の海外ブランドにも見られない、独自性・オリジナルが多数。

特に、P29での急峻な雪壁での使用を想定
して、そういった特殊状況での様々な問題を
解決すべく、開発・製作された変形トンネル
(カマボコ・タイプ)は、知る人も少ないが、特殊で、斬新。

その後、この種類の特殊タイプのテントを国内
で製作・販売される事は無かった。
『マウント・コウベ』や、その後継タイプは
市販されていなかったが、受注製作で関西
のみならず、国内から海外での使用者は存在

製縫技術やテント本体への、各種金具類の
固着方法やベンチレ−ション・システムにも
非常に優れた、アイディアが盛り込まれていた

耐風・耐雪強度の実験に私は、これらの市販品と同一タイプを、厳冬期の富士山・山頂や
南アルプス・北アルプス等での、個人的な山行とクライミングの現場で、実験目的を中心に
使用。

それらの『情報』は、実験デ−タ−や情報量
から、比例すれば僅かだったが『岳人』等の
記事や依頼・原稿として公表した。

ウォ−ル・ビバ−クに特化した片側・垂直面の
『ツエルト』は、一時期・国産品が市販されて
いたが、最近では目にしなくなった。

『シェルタ−・タイプ』も、少なくなり唯一の選択
して、使えるのは『フアィン・トラック』製品のみ
かも知れない。ゴアのツエルトは重量と価格が
最大の問題だから。
使用者・意見を充分に取り入れた冬季用モデル
グランド・シ−ト部のベンチレ−ション・タイプのホ−ル
スリ−プやテント内部での、対流・換気システムには
時代を、先取りしたアイデアが加えられていた。
実用的・現実に使用できる『ドッキング・システム』での登山用テントとしては、これらのタイプが世界初
モデルだと私は感じている。多面ドッキング・システムのベ−ス向きテントを筆頭に、小型ド−ム・テント
にも採用された、これらの『ドッキング・システム』のテント類は、残念な事に市販されて、普及しなかった
レスキュ−装備としての遭難者の緊急避難シェル−タ−
としての、『ツエルト・モデル』をデザインして、一つだけ
オリジナル・プロト・モデルを製作して貰った。
これも現場での『運搬用ソリの代用・使用』でボロボロに
損傷してしまい、破棄処分。
個人的には、このタイプを『ファイン・トラック・ブランド』で
作って貰えたら、最高だと思っている。
緊急・最悪パタ−ンに『縦位置・ポィント』でも使用でき
岩壁モデルとしての使用も、改良すれば長谷川モデル
と同じ様に、使えたかも知れない。
『ドッキング・システム』の出入り口は、再考されるべき
アイデイアではある。
悪天候・時には『涸沢野営場』の、この私のド−ム・テントに10名を収容していた。
前半期の『特製・特大ボックス・モデル』の頃は、最大26名を詰め込んだ『宴会可能』テントが懐かしかった
海外プランドとしては、誰でもが知っていて欲しかった『ノ−ス・フェ−ス・テント』
VE−24から、発展・改良した最新タイプは更に高強度だったが・・高価。
穂高岳『屏風岩』ガイド・クライミング時の横尾ベ−ス等に使っていたが、重量の問題で個人ガイド・プログラムで冬季・期間に利用する機会は少なかった。
『子供達は毎回、このタイプのテント使用を喜ぶ。
車椅子・使用者には現実的に見て、このタイプの
テントでのキャンプが、最も労力が少なくて使い易い
2006/11/14 (火) 12:34:56
北の辺境地。ヒ−ザの丘が延々と連なり、北極海からの北風が殺風景なキャンプ地を、毎日・毎日、朝から晩まで吹き抜けていく。滅多に晴天、・オテントウサマの温もりを与えてくれないが、山からクライミングを終えて降りて来ると、迷い羊達が出迎えてくれる。家型テントは子供時代から、貧乏旅行や放浪クライミング期間の唯一の、安息場所。今でも、その頃の風景やテントが、はためく音や満天の星空を想いだす
雨の日には、テント裏側に新聞紙を張って、雨漏りを抑え。テント・サイトには立かまど。
定番中の定番。濡れると重く、いつまでも乾かない分厚い綿布生地のテントは懐かしい。
天幕(テント)で、夢見ていた形は現実の形となり
再び、そのテントの中で次ぎのテントの『夢』を見て
いる。80年代の穂高の長期露営・生活で最後に夢
見ていたのは、デザインもスケッチに残しておいた
『パネル形式/折畳みシステム・テント』

時々、紙を曲げては構造を工夫したりして今でも
遊んでいる。

『パオ』に、近い天幕は日常的な夏期の生活でも
使えた。『ティピ−』は、竹にブル−シ−トで子供達
と、外観だけは同じ物を造ってみた。
コットン・キャンバス地の市販品は、どう考えても日本
の風土と自然環境で、常設・生活の場として使う気に
ならないでいる。
先ず、価格が問題だ。市販品を購入する事は無いと
思う。いつか、どこかで使うだろう

『車椅子』で、気楽にフラップをスライドさせて自由に
出入りでき、自分で折畳みベッドに、が理想。
近い所までは、来ている。
もっと遊んで貰える『環境と機会』を、造り上げれる力
と能力に恵まれていれば、とは思う。
世界的に見ても、実用化された最大の『ボックス・テント』
かも知れない。数ヶ月の雪上・露営に積雪にも耐えた。

これ以上、快適な残雪の『涸沢キャンプ』を体験した事は
これまでに無い。全面カバ−・タイプのフライ・シ−トにも
特殊な加工と、工夫を凝らしてあった。

この特殊な『大型テント』には構造上の最新デザィンや
当時としては、かなり斬新なフレ−ム・ワ−クを取り入れ
細部にも工夫を、凝らした。

関東の先輩クライマ−が、中を覗いて面白がり翌週には
テント関係に、従事していた仲間を誘って見学しに、わざ
わざ涸沢まで、差し入れ持参で上がって来たこともあった。

そして、この『テント』は、いつも非常に目立った。
中には、自衛隊の訓練キャンプと誤解していた登山者や
取材で、写真撮影を求められる機会にも恵まれた。
大勢の若い、仲間達が集まり、楽しい想い出が生まれた
場所でもあった。
プロトタイプではない『ダンロップ市販モデル』の、小人数用用テントは過去に10張り以上を、山で壊して来た。
見本は『自然界にあり』球形は、世界から宇宙まで自然界に存在している形で、その形状は外部からの圧力に対して、最も強く、内部を保護する力を有している。この理論は、現代の『レオナルド・ダヴィンチ』とも称され宇宙工学と現代・建築に多大な影響を残した『リチャ−ド・バックミンスタ−博士』が、確立した構造理論。
この理論は様々な、分野で応用され『ド−ム理論/ジオデシック(測地線)理論』として、山岳・極地で最も信頼される『ド−ム・テントのオ−バル・インテンション』へと繋がっていった。この辺りは、ビパ−ルとかやカタログを見ていれば、誰でも知っている知識。『ノ−ス・フェ−ス・テント』は、このバックミンスタ−理論(ジオデシック)で、世界で最も知られたテントを製作・販売。日本人にも馴染み深いテントだ。
私にとっての『テントの原風景』は、古典的なのだが1本ポ−ルの三角テントと、2本ポ−ルの俗に『家型・三角テント』と、呼ばれていた最も基本形のテントだ。小学校4年から、このタイプの基本形とも呼べる、シンプルな構造のテントに親しんでいたので、今現在も、このタイプのテントには愛着を持っている。

本格的に雪と岩の世界に、入り始めた時に専門店で働ける機会と、日本のモスとも呼べる『トモミツ氏』からの特別な、御好意を長く受ける事が出来た私は『テント・山岳用』の使用を、他の多くの登山者には申し訳無いほどに多く持てた。(下・写真)最初の残雪期・穂高岳での体験、槍ヶ岳・北鎌尾根にて、高校生には刺激的な体験だった。
一時期、狭い我家に使えない、フレ−ム数も不足しているような各種『テント』が、サイズもバラバラに実に80張り総数。どうして、こんなに各種『テント』が、集まっていた時期があったのか不思議だ。コレクタ−趣味は『テント』には、似つかわしくないと思っていたので、今は使える、使う必要数のみを保管。それでも、どうしても捨てられない10数張りの『特殊テント』は、倉庫の奥に大事に、しまっている。
残雪・雪渓が8月の登山最盛期にも豊富だった頃の『穂高岳・涸沢キャンプ場』銀フライが目立った。