瀬戸内海『小豆島の岩場』
『岳人』 1983年7月号(No433)紙面にて、カラ−グラビアと共に、充実の紙面内容で『小豆島の岩場』を紹介してから、この瀬戸内の素晴らしい、環境の中でのクライミング・フィ−ルドは関西のみならず、広く国内のクライマ-情報として、知れ渡った。紙面・記事はP29〜P32まで。

当時『吉田の岩場』の開拓は、私が所属していた『神戸登攀倶楽部』の仲間達が、精力的にフリ−クライミングに最適な、花崗岩のスラブとクラック・ラインに開拓していて、私は特に『拇岳の岩場』に長年、通い込んでいて小豆島の他の、岩場の探査と開拓にも手を付け始めていた、恵まれた環境だったので『小豆島』が、初めてだというOCSの若手クライマ-林君を誘って、更なる開拓ル−トと新しいエリアの発見を求めて海を渡った。
その時の「数日間」の、新鮮なクライミング体験記録を、含めて林君が『岳人』に投稿。
この『特集記事』から、小豆島の岩場は、俄然・注目されるようになった。
『岳人 No433』瀬戸内の岩場を訪ねて『小豆島・吉田の岩場、拇岳の登攀紀行』
『岳人』に、林君が原稿を書く前年に、私は2週間の休暇を『吉田の岩場・下』でキャンプを張りながら周辺での
クライミングを楽しんでいた。それ以前にも、数度『吉田と福田の岩場』には、拇岳の岩場の次いでの感覚で立ち寄っては、いたが集中して登り込むのは登攀倶楽部の仲間が『雑誌』に、詳しい紹介記事を書いて、それを読んでからだった。メインの正面壁は特徴的なハング帯を、下部に配置していて一見、このハングはフリ−クライミングでは不可能だと、思われるらしく・まだ誰も手を付けていないようだったし、メイン・ル−ト以外の周辺の壁には、まだ開拓余地が充分に残されていた頃だったので、集中クライミングの毎に毎回のチャレンジでは予想以上の楽しみを味わえていた。林君と共に『小豆島ツア-』に、入った時は雑誌・情報を見て、この『吉田の岩場』にも大阪、京都からもフリ−クライミングの場を求めて、大勢のクライマ−達が集まり出していた。
大阪から来た数人の、クライマ−は私達二人の顔見知りで、共に若手クライマ-だったので、私が前回のクライミング時に、開拓の余地を見つけておいた、まだ誰も潅木帯を抜けて「取り付き」に入っていない『壁』に合同でル−トを拓きに入った。同時に、周辺でのボルダリングも楽しんだ。
『雑誌グラビア』を飾った事により、このすっきりとした「カンテ・ライン」を、お気に入りル−トとして再登してくれるクライマ−は俄然・急増した。しかし、残念な事に、この独立した岩塔状の岩場もカンテ・ラインもダム工事により、全て失われてしまった。

私達の世代は、当時は若手と呼ばれていてもフリ−クライミング・ル−トの開拓時にも事前に下降・チヨックやプロテクションを設置してから、ル−トを拓くのは最終手段と言うよりも『邪道・アンフェア-』だという意識が、強く。この「カンテ」でも、下からのグランド・アップでロ−プを延ばした。
『吉田の岩場』に通い始めた頃。周囲に施設も、ダムも存在していなかった、福田港から徒歩で・・・
当時『残置物』も無く、自分でチヨックを駆使して登る楽しさを満喫していた『壁』
最も、初期の『堡塁派』の系統を、受け継ぐフリ−ル−トの代表格。今のカムナッツ類ならば、より楽しいだろう
当然ながら、当時から壁前の川原の『ビッグボルダ-』は、格好のクライミング対象
スラブ&フェ−ス系の、ル−トは主だった『クラック』が攻略されてからが人気だったが、初期の開拓ル−トも
花崗岩の「シワ」「クラックもどき」に、チヨックを工夫して決め。ランナウト覚悟でのクライミングは新鮮で楽しかった。代表ル−トの「骨折り男」等の人気と比較して、訪れるクライマ−は少なかった。
当時でも『フレンズ』は標準ギアだったが、こういったル−トでは最もシンプルに、そしてフリ−クライミング本来の楽しさを味わいたくて、私達は『ヘキセン&ストッパ-』を積極的に使用して、クラックに夢を見ていた
『御在所・藤内壁』とも『名張』とも、感触が違う面白味の多いクラック。長さと共に、海を眺める景観と雰囲気を充分に楽しめる岩場だった。雑誌に出る前は、殆ど休日にもクライマ−の姿は見ず、静かなクライミングを満喫。
『吉田の岩場』
吉田湾は波静かで、クライミングに向かない、中途半端な天候時にはファルト・ボ−ト(スキン・カヤック)を汲み立て、釣竿を振るのにも適した環境。大型船の出入りも、殆ど無く漁船のオジサン達と海上で、魚の話しなどを聞く。私達が、この岩場に通い出した頃は、周辺の開発もキャンプ場や施設も、何一つ無かった頃なので地元の人とも気楽に話が出来たり、野菜を分けて貰ったり、かなりノドカな環境だった。
特徴的な『ハング』を下部壁に持ったメイン・ウォ−ルから左右に、下段・上段へと幾つもの開拓エリアとして有望な岩壁に恵まれていたが、ダム建設に伴なって左壁(上流方向)に点在していた、壁やボルダ−の殆ど全てはクライミング対象としての、存在を失った。正面メイン・ウォ−ルは下部・取り付き付近が大きく変貌したが各ル−トには、大きな変化や喪失は無くて、フェンス越えや、コンクリ−トが邪魔ながらも以前のル−トはクライミング対象として、使える。駐車スペ−ス等は、ある意味・以前よりも使い易くなったとも思えるが、工事・ダム関係の車両の通行も、時たまあるので注意して駐車して欲しい。駐車スペ−スでのテント設営や、あまりに傍若無人な装備を広げたりする事は、止めて欲しい。
細い、沢筋『左岸』に点在していた、幾つかの岩場は現在では『ダム建設』後に、全て消失していて以前の、この景色は大きく変貌している。
『備中』『岐阜範囲』の、現代的フリ−クライミングのニ−ズに最適なクライミング・エリアの開拓が急速に
進む、以前には評価も高く、クラック中心の硬い花崗岩の岩場として、ここ『吉田の岩場』は、多くのクライマ−から、注目を集めていたが90年代に、入ってからは『時代は前傾』花崗岩のスラブとフェ−スにクラックが主体の、この『岩場』は、急速に訪れるクライマ−の数が減った。
先ず『海を渡って』来なければ、ならないアクセスの不便さ。
ボルダリング・エリアとしての『課題』の、絶対的な量的・不足。そして、他の島内の『岩場』が同一のベ−ス地から移動が不便。そういった理由から、小豆島の岩場は、以前の様に人気のある『クライミング・エリア』だとは呼ばれなくなって久しいが、瀬戸内海・海洋性「気候」は、国内で唯一オリ−ブの産地である事からも窺い知れる様に、同じ時期・範囲ならば他府県の「岩場」よりも、やはり晴天率が高く、温暖でありクライミング環境は良好。特に『梅雨時期』の、穴場としてリストに付け加えておくのに良い『エリア』だと思います。複合的に遊ぶ事の出来る、最近の若いクライマ-(別に中高年でも構わないが)自転車を持ち込み島内ツ−リングや、海での遊びを組み合わせると、山の『エリア』と違った遊び、楽しみ方が広がる。

私は、昔から小豆島でカヤック利用で『海遊び』漁港・近くで『釣り』そして、泳ぎやランニングは楽しんで来た。トライアスロンのベスト・コ−スとして、使うのも良いと思う。コレで、島内にパラグライダ−・エリアとキャニオニング・コ−に使える渓谷でも、存在していたら、数年は住みたくなる島だ。
開拓・初期から、しばらくの間は岩場・下には細い路しか無くて、ごじんまりとキャンプで焚き火を楽しんでいた。数箇所の岩場・意外には、まだアプロ−チは拓かれていなかったので周囲の岩場から、山頂部の
最後の「課題」に、なりそうだった岩場への往復も、中々に面白く、幾つかの独立した「岩場」への路を拓く時には迷ったりして無駄な時間を浪費したりもしていた。今、現在はダム建設の付属で、『吉田の岩場』の対岸、高くの山腹に車道が出来て、初めて、この「岩場」に登りに来たクライマ−は簡単に『岩場の全体』を俯瞰・観察して目標とするル−トの位置関係を、簡単に理解出来る。ぜひ、双眼鏡なりを用意されて各岩場とル−トを確認されると良いでしょう。以前は、壁下から見落としていた意外なル−トも発見できてこれから、まだ開拓の余地が残されている岩場も簡単に見れるでしょう。
私が、最も頻繁に、この「岩場に通っていた」頃の装備。特にクライミングシュ−ズは比較的、安価に入手できた韓国製のレッド・ドラゴンやアゾロやガリビエ−ル社の「コンタクト・クィ−ル』等の、高粘着ゴム・ソ−ルが出現する以前の、当時の一般的なソ−ルで、カム・ディバイス類は、一通りのセットは所有していたが意識的に『吉田の岩場』では、それらの新用具を使わない努力を続けていた。フレンズのNo2/1等は緊急用品の一種と言う、認識が在った。当然、3カム・タイプやフィンガ−サイズのクラックに使えるタイプの用具は主に、ワイヤ−ストッパ−で対応するのが、常識と言うよりは『意思と意欲』だった頃だ。

20年後の、2000年、辺りから『パッシブ・チョツク』と言うスタイルが、改めて主張されだした。
それが、何か新しい意識やスタイルだとでも、言いたげな部分に私は少しばかり、違和感を感じてしまう。

フリ−クライミングの意識面で、理想やスタイル面での当事者である「クライマ−」の自意識・プライドが20年も経たずに、変化したり変質する訳は無い。
過去があり、現在が在っての・未来。今は過去からの継承の筈だから。
かって墜落の危険のあるビバ−ク地で1本の「ボルト」の使用が「不可能の抹殺」と言う理念と理想に反し己のクライミングに対する信念に従って、グラグラの打ち込み出来ない、不安定な「ビトン」に命を託したWボナッティの継承は、今は失われた。『悪魔に魂を、売り渡しても手に入れたい山頂』が、高所・極限の死の地帯だと言う理由は、生命の危険に瀕している同胞・クライマ−仲間を見捨てる、唯一の大儀と錦の御旗になり下がって、私には出来る事は無いと言う「言葉」は、暗黙の了解を得られる世界となった。

アルピニズムの理想の担い手として、評価され尊敬を受ける価値のある「職業」も、高所ビジネスとの結託と商業主義の狭間で、死の商人・顔負けのビジネスを展開。
『神戸登攀倶楽部』の、かっての仲間Nの開拓した「クラックル−ト」等は、徐々に、ある意味ではクライミングか゜「フリ−クライミング」に名を変えて、明るく楽しく、スポ−ティ−に変貌し出す直前。違う側面からは、クライミングが偏狭で狭苦しく、一つの方向性にしか価値を認めず、難度の追求に「ロマンも理想」も純粋さも投げ捨てる、その手前の中で、このそれほど大きくも無く、壁の傾斜も現在ならば「緩い」と言い切られる範囲の『壁』から、遠い極北の大岩壁や、まだ見ぬ「夢」が果てしなく続く。そういった良き時代を彼らの拓いたル−トから、継承して楽しめたのは運が良かったと言えるでしょう。
かっての『トラッド派の牙城』だった、ヨセミテでの純粋・思想『自然回帰」や「過剰な物資とテクノロジ−」の呪縛から人間の肉体能力と意思・意欲の限界を、求めてフリ−クライミングの限界を追求した『スタイル』は、結果・至上主義と、競争意識や『記録』の二文字の前で、ボルトを容認した。

パウロ・プロイスを始祖?として、最後の殉教者はWボナッティで『夢想家』の血脈は、ほぼ途絶えた。

マスコミ・社会評価の中で、僅かに継承系のスタイルを押し通したと言われる、メスナ−は岩壁から高所・極地へと活動と発言の場を移してしまい。『不可能の抹殺』その意識・理念・思想は高所では消えた。

小豆島『吉田の岩場』は、三倉岳からの純粋派の系統は移植されなかった。その系統が移り定着する素養と可能性は高い『岩場』だったが、多分?近くに「インスボン・タイプ」で、ボルトの積極的・使用でしか後発のクライマ−には表現の方法が簡単には、見つけられなかった「理由を説明するのが容易い岩場」が、近くに存在していたのも、理由の一つだろう。
現在は、巨大な『ダム』が建設されて、この風景は消失している
先に『地中海』の気候にも似てと書いた。確かに不動産の広告や一時期、日本中を騒がせた『別荘ブ−ム』が世間を賑わせた頃。この「小豆島」は、そういった浮かれた世相に合致しやすい環境を有していたようだ。
(上・写真)正真正銘・地中海の西「マルセイユ」港外から街並みに落ちる「夕日」
そして(下・写真)は、日本の地中海と呼ばれる、瀬戸内を走るフェリ−からの夕日。どちらもクライミング目的
の『旅・途中』での、記憶に残る美しい風景の一場面。
『左岩壁』開拓後には、最もクライマ−が集まる
吉田の岩場を代表する『メイン・ウォ−ル』だった。
ダム建設後は、周辺は激変していて一部のル−ト
下部・取り付き地点は人工的な場所となっている。

現在まで、施設管理・者との大きな問題は生じては
いないようだが、観光客や地元・保守点検の従事者
と、駐車に関してクライマ−の不注意や常識の無さ
若さ?からの無茶で『問題は発生』
『御薦めル−ト』No1

左岩壁『骨折り男のクラック』
特徴的な大きく、開いたオ−プン・ブック・ジェ−ドル
に奥深く入ったクラックを登る。初期の代表的かつ
吉田の岩場を代表する『クラック・ル−ト』
グレ−ドは開拓者のNから(5・8/Y級−)と決定
されてから、変化していないが吉田のグレ−ドと
認識しておいた方が良いでしょう。
神戸登攀倶楽部メンバ−による開拓・初登ル−ト
で、当時から小川山に代表される花崗岩の快適な
そして、ジャミング・テクニックを駆使してクラックを
登る、好ル−トとして知られていて左岩壁・周辺の
各ル−トの中でも、最も人気がある。
スタ−ト部が、以前よりも容易になった以外は、ル−ト
内容に大きな変化は無いと思われる。
キャメロットや最新のカム類を使わずに登るのにも格好
のクラシック・クラック。
左岩壁には他にも「クラックとスラブ」を対象とするル−トが数本、拓かれている。
花崗岩のフリ−クションは、問題なく。プロテクションにはワイヤ−ストッパ−類にカム類が有効
ホ−ルドが、幾分、外傾しているのは、この種類の花崗岩・岩場では良く見られるパタ−ン。
左岩壁『モンキ−フリップ』
50m・5・7と、手頃な内容のウォ−ミング・アップと岩質に慣れる為に最初にトライするのに適したル−ト内容で初心者のクラックとスラブ・クライミングの入門に適していて、他のクラック・ル−トへのロ−プ・セット時に使っている人達も多いと聞く。クラックから右に出るのが初登ラインで安定したビレ−・ポイントあり。
ここに入らずに、クラックを直上して黒色のハングを越えるル−トも使われている。
通常の2ピッチ目、スタ−ト直後のスラブでの一歩の立ち込み部分も、今では安全になり容易。
左岩壁『ペカサス』
当時、私が若い仲間達やクライミング講習に参加していた数多くのクライマ−の、保険と仲間として集まる場合
に必要だった『グル−プ名称』と、全く同じ名称のル−ト名だったので、登れる為にトップロ−プを恥を忍んで、かけ出したル−ト。出だしの水平ル−フ下からのボルダ−チックなム−ブが中々に難題で、相棒たちの突破方法では、私は身長が足りずに踏み台・石から最初の突破。そうやって苦労したル−トだったが・・・
技術的にはスタ−ト箇所に困難な部分は集約されていて、フレ−ク状の浅く閉じた雰囲気の『クラック』も慣れると意外と快適なホ−ルドを提供してくれた。ただ、ストッパ−類の効きが、少々、甘くリ−ド時は緊張感を強いられた。『モンキ−フリップ』のスラブ下のレッジに抜けて終了。
個人的には、好きなタイプのフレ−ク・クラック・ル−トだった。ル−フ(ハング)奥部には、一段バンドに『お地蔵様』と石積みが、安置されていて後に、このハングは『地蔵ハング』と呼ばれた。当時のガイド・ブックに記載されたグレ−ドは5・10d。当然リ−ドでの課題としての評価。
左岩壁『瀬戸の花嫁』『上部チムニ−』
左岩壁を特徴ずけていた、小面(大ハング)右端の緩傾スラブと垂壁の切れ目の短い、クラックから緩傾スラブ帯に入り、左上して(殆ど歩ける程度の緩いスラブ)から、上段壁のチムニ−を抜けて終了点の潅木帯へ。
上段壁にはコ−ナ−・チムニ−ト、正面チムニ−の二つがあって、初登時のラインとは別のは私が最初に登ったようだ。技術的には容易で、最も壁の容易な部分を利用しているが中間のスラブ帯ではロ−プに足を取られて?(踏んだ???)転落・スラブ帯から、下部まで滑り落ちると言う理解し難い『事故が発生』したと聞いているので、注意が必要。初心者・同行時にはコンテで同時行動するなどは、論外。
『中央壁』よりどりみどり。
初心者が楽しめる範囲から、ランナウト覚悟の少し通好みのル−トまで1986年までに、殆ど岩壁上に可能性が見られた箇所には『ル−トが開拓』されたが、意外な事に通うクライマ−も少なく。
実際にクライマ−の姿を見ることも少ない。時代の流れの中で、もう少し早く登場していれば、また違った方向で多くのクライマ−に利用される『岩場』と、なったかも知れない『不遇系の岩場の一つ』
1980年代に左壁から始まった『ル−ト開拓』は、最も良いスタイルで完成されたものが多い。
壁横の潅木帯から、回り込んで終了点からロ−プを固定して、下降時にル−ト整備したり支点の設置やホ−ルドのの確認とかは、基本的にアンフェア−なクライミング・スタイルという意識が、根底に存在していたからだ。トップロ−プでの『開拓』は、開拓・初登の言葉に値し無いという暗黙の了解も持っていた。

私達が通い出して、新たに探査・発見してル−トを開拓した時にも、当然ながら初期の開拓方法と全く同じ様にル−トの下見の為に、岩場上に立つなどは論外。初見での、危険は甘受してのスタイルを厳守していたし、それが当たり前だと言う感覚でフリ−クライミングを楽しめた。同伴者は、当時からボルダリングも含めて、トップロ−プ使用に、殆ど抵抗感を抱いていない、私よりも若い層のクライマ−だったが、ハイ・ボルダ−以外のクライミングの場では、私のスタイルに文句は言わずに、付き合ってくれていた。

『三倉派』に、強い共感と憧れを抱いていた、私達には、そのシンパシィ−を行動で具現化できる、この『吉田の岩場』が、当時でも・そろそろ消え失せかけていると感じ出した『本来のフリ−』に、最も近づける場所だと感じていて、『三倉』からの良きスタイルの西の継承エリアに、成り得そうだと言う期待を抱いていた。
そういった心理面での葛藤はクラックで、フレンズ類を使用するか、通常のチヨックを使用したかで難易度が違うと言う事も、重要な要素として真剣に考えて、活動していた。
そういった意識を継続的に、保つ事は困難だったし、時代の流れには?かなり逆行・反抗しているらしい事は承知していて、徐々にスタイルも今風に流されていった。
『吉田の岩場』にも、大きな変化が起きている。
周辺の自然環境の激変もだか、クライミング・エリアの拡大が、その最も大きな変化だろう。
以前に、フレンズ等の機械的カム・ディバイスの使用を拒否、もしくは使用を制限し、ボルト類の多用に関してても、拒否感を強く抱いていた、意識面での葛藤時期に、アプロ−チを捜し歩き、新たな岩場として探査で見つけた岩場群は、いとも簡単に、あっさりと電動ドリルとボルトの使用で、ル−ト数は倍増。
別に、後悔している訳ではない。あの時代に、ある種のスタイルを固持していたのは、時代に乗り遅れたのも
中々に、面白かったのだから。量よりも『質』そういった部分での、ある意味で抑制・制限したスタイルでのクライミングの達成感や充実感を、十二分に味わえたのだから。
今からでは、その部分を追体験するのも難しいだろうから、その意味からも面白く楽しめた一時期だった。