『六甲山・西端・妙号岩』
『日本登山体系』執筆・担当時に、それまで阿弥陀仏や、銘文スタンスと呼ばれていたが固有のル−ト名称が無かった為、私が『罰当りル−ト』と命名して、紹介文を記載。その後はル−ト名として、広くクライマ−に使われています。             1977年(撮影)
私が、所属していた『神戸登攀倶楽部』のメンバ−は、神戸・範囲の岩場ながら、蝙蝠谷や堡塁岩と比べて
この『妙号岩』に、通ってくる事は少なかった。逆に、神戸以外の、大坂範囲のクライマ−に利用者が多かった。74年・当時は、まだ『EBシュ−ズ』も、市販品としては流通していなかったので大阪の仲間と、私は格別に足元は目立っていた。購入には、大阪の『店』でバイトで働いていた頃に、懇意に付き合っていたS氏が得意の語学力を駆使して、私達・仲間の分を含めて英国から直接、通販で購入してくれた。国内でも、もっとも初期の使用者だった筈だ。
『日本登山・体系』執筆時にも、書いているが、この岩場
は、他の『六甲山』に点在する岩場とは趣き、雰囲気が
異なる。多分に正面壁に刻まれて『南無阿弥陀仏』の
経文そのものをスタンス・ホ−ルドにして登るフェ−ス
が特異だからだ。

初めて、この「経文が彫られた岩場」を見上げた時には
仲間と、顔を見合わせた。

まだ中学生だった私達には、このル−トを登って良いものか
判断する、知識やクライミング環境での大人達の見本さえも
見ていなかったので、前年に同じ仲間達3人で、同じ様に
登りに行った『蓬莱峡・大屏風岩』の当時はダイレクト・ル-ト
と呼ばれていた最も高距の長いル−ト。

私がトップで登り出すと、中段のレッジまで1本のランニング
ビレ−が取れる支点は無くて、その最初で最後の1本の
ピトンに、かけたカラビナに通したロ−プは、まさに天の助け
取り付きの二人に、喜びを伝えた事を、後々までUに想い
出す毎に言われた。この『経文』に頼って登り出したル−ト
も、やはり同じパタ−ンで磨り減った運動靴で丸い縁の岩
に彫られたスタンスと相性は悪い。
ようやく、中段で右に出て1本のピトンからランニング・ビレ−
を取って、経文・直上は、その時には、根性負けして右へ逃げて敗退。その後も、このル−トは落ちれないル−トの代名詞で国産だったが、最初に手に入れたクレッタ・シュ−ズで挑戦するまでは、終了点に・すっきりと立てなかった。
その後に、上部に入る箇所に1本のRCC型ボルトが打ち込まれて、落ちれない「ル−ト」としての価値と恐怖は消えてしまった。現在、アルミ・リベットが残置されている
2006年、現在この『妙号岩』と対岸に、位置する『菊水ルンゼ』へのアプロ−チは大きく変貌した。
かっての神戸電鉄『菊水山』無人・駅は軌道の変更と、車道の建設・設置により、岩場への出発地点としての役目を終えた。私にとっては、駅を出て「アウトロ−感覚」で、トンネルを小走りで駆け抜けた、近道が懐かしい。
                 『日本登山・体系 No10関西・中国・四国・九州の山・編』
                   (P168〜P170) 『百丈岩』と共に、舟橋が担当・執筆
                              『妙号岩』

西六甲・菊水山の西に位置する『妙号岩』は「前の壁」「中の壁」「奥の壁」の三つのフェ−スで形成されている。高距は20〜50mwで、「奥の壁」を除いて、概ね岩は硬い。
「前の壁」には往時、行人の安全を祈願した『南無阿弥陀仏』の大文字が刻まれれ、得意な雰囲気をかもし出している。

アプロ−チは神戸電鉄「有馬線・菊水駅にて下車」、線路を有馬方面に行き(電車に注意)鉄橋を渡ると数分で菊水ルンゼとの、文技点に達するので、左の急なガレを登れば「前の壁」の下に出る。幕営地は鉄橋の左側の小さな、滝場付近か菊水ルンゼの出合が良い。
           (上・記述の『妙号岩』への、アプロ−チは現在では、使えません)

(1)「前の壁」下段(右ル−ト)加茂川・吉井ル−ト
   『前の壁』は上・下段に分かれ。下段は幅、高距共に30mあまり、上段は10mと小さい。
   フェ−ス中央に刻まれた「経文」の右側、小ハング直下のリスを直上。ハング付け根に打たれた、逆さ打
   ちのハ−ケンより、ハング右横を登り、上段フェ−ス直下の松の木まで登る。
             (壁下で1976年・に、初登の大阪稜友会の加茂川氏から、当時の想い出・話しを聞く)

(2)「前の壁」下段(中央ル−ト)
   取り付きは「右ル−ト」と同じ。ハング下より左に出て、A02回で経文の『南無』の文字に入り、ここから
   経文をホ−ルドとして直上。出口のスラブを左に登りテラスに出るか、右に出て右ル−ト終了点へ。
   なお、このル−ト及び、次ぎのル−トは過去、宗教関係者から登山者・クライマ−に強い非難が寄せら
   れており、登攀にあたってはアイゼンの使用その他、岩肌に傷をつけるような行為は厳に慎みたい。
      (現在では、当然フリ−。雨後のクライミングでは「経文」のフット・ホ−ルドが滑りやすい)

(3)「前の壁」下段(罰当たりル−ト) 『登山体系・執筆時に舟橋が名称・決定』
   フェ−ス中央に刻まれた「南無阿弥陀仏」の文字を直登するル−ト。
   岩肌に刻まれた文字は全て、外傾気味の丸いホ−ルドである。
   デリケ−トな動作を要求するフリ−ル−トとして人気がある。
   『阿』の文字まの横のボルトまで、支点はなく初級者には上部からの確保が無難。
『罰当たりル−ト』は、「登山体系・西日本、編」の関西・六甲山エリアで私が『百丈岩』と共に、紹介文と各ル−トの内容を執筆する事を、依頼された時に、固有の「ル−ト名称」が存在していなかったので、私が感じていた「想い」を、そのままにル−ト名に使用した。当時のグレ−ドで「X級−・約20m」のル−トだが、登山靴にチョ−ク無し、もしくは運動靴や地下足袋・履きで中間・支点が上部に「ロック・ピトン」1本の、頃には感覚的にY級・範囲の内容として「難度・範囲」と精神的なレベルで、高距からも墜落は致命的で一定以上の技術を持ったクライマ−の挑戦・対象として、関東の三つ峠「ダイコンオロシ」にも、似た一種独特の古典派の「フリ−ル−ト」として、フェア−なスタイルでの『完登者』は、少なかった。
『経文』は、滑らかに削られていて、掘削部は浅く、ハンドホ−ルドとしても指先を、かける程度で基本的にクラックとしては、使えなかったので「チヨック・フレンズ類」の用具で、プロテクションは取れ無い。

以前には、なかった中間・支点の存在は個人的には拒否したいが、時代は『安全性・最優先』反論・抵抗は無駄だと理解しているので、せめて一定の秩序は保ったル−ト内容として、残っては欲しいものだ。

フリ−ソロの対象として、またはハイ・ボルダ−としての価値を見出したのも、30数年・前の過去のクライマ−であって、今現在の高粘着ラバ−テクノロジ−と情報で、完全武装したクライマ−の、発見や挑戦対象ではない。

新しい世代は、かなりクリエィティブな能力とクライミング・センスを磨く努力と「情熱を傾けないと」気の毒だが、過去の先輩達や先導者に、技術面やグレ−ド数字でしか、何も勝るものは無く、この程度の「岩場」では、なおさら、以前に行われた活動で、精神的な『冒険・領域』を凌駕・超えていくのは、かなり難しい。
大阪方面からの登山者、クライマ−の利用者が確かに多かったが、初期の開拓者や、その後に精力的にル−ト内容やアプロ−チや各・岩場の間の通路を整備した功績は、当然ながら地元「神戸のクライマ−」で60年代から特に活発に活動していた、老舗の「山岳会」に、混じって70年代から活動が活発に成り出した少人数のグル−プや、私の様な個人レベルのクライマ−も、数多く、この「岩場」に通っていた。

神戸FRCや後に「レスキユ−神戸」で、中心的な役割を果たす『会』や、神戸山岳会のメンバ−も当時は、蝙蝠谷の岩場と堡塁岩と、共に「妙号岩」は確実に『神戸クライマ−』のホ−ム・ゲレンデだと言う認識で一致していた。

神戸電鉄・沿線の「宅地化」が、北部に急速に浸透し、以前のように「六甲山・南側」範囲に居住する人達意外にも、俗に「裏・六甲」と呼び称される北側が生活・住宅圏内のクライマ−も急激に増えて、一時期は位置する場所が便利だった為に、「六甲山の岩場」の中でも、特に休日は込み合う時期も、あった。特に体系が出て、関西の岩場にも紹介されて隣接していた『菊水ルンゼ」が、芦屋ロックガ−デンや蓬莱峡なみにアイゼン・トレ−ニングの場としても使われた頃は、妙号岩も混雑していた。

しかし、その、その賑やかな期間は短く、今・現在は若いクライマ−からは名前も知られていないロ−カル・エリアの筆頭各。
2005年に、久しぶりに『関西・山と渓谷』情報に『妙号岩』が出たのは、うれしい。
『ロック&スノ−』にも、少しばかり『妙号岩』の現状が報告された。
(4)前の壁「下段」左ル−ト
   経文左側の、小さなジェ−ドル下から取り付き、ピトン回収で、無残に穴状に幾つものスリットが入った
   クラックを、当時はA0を交えて直上していた。現在では、この回収跡に各種カム・ディバイスを使用して
   のフリ−クライミングで容易。バンドに立ち上がり、左端より右上気味にフェ−スを登ってテラスへ出るか
   テラスより延びるクラックのあるバンドから、上段フェ−ス取り付き点へ。
この「ル−ト」も初期には支点・間隔が遠く、今・現在の様には容易なフリ−ル−トとしては見られていなかったが、60年代に登山靴で「フェア−なスタイル」で、完全フリ−で完登されている。使用された登山靴はドロミテ。ハ−ネスは着けず、最もシンプルな直接ロ−プを腰に結んで、カラビナは3個しか使用されなかった。
当然の事だが、現代風に言えば『フラッシュ=オンサイト』で、あった・だろう。
(5)前の壁「上段」左右
   高距の短い、上段壁は左端は取り付きも安定しており、初期から初心者・練習に
   使用される事が、多かった。高距の低さを、傾斜が補っており、中間支点が無かった頃には事故も起き
   ていて、終了点からの下降でも人身事故が起きている。主に容易な右ル−トを楽しむ
   クライマ−が多かった。神戸電鉄の車両・音を真下に聞き、海を見て、小さな取り付きで憩う往年の
   先輩達からハ−ケン代わりに使った『鉄道・軌道用の鉄杭』話しなどを拝聴した。

(6)前の壁「左フェ−ス」
   「前の壁」正面フェ−ス上段とは別に、一段・左上に位置しているバンドの多い、スラブ状の岩場。
   取り付きは「安定した台地状」で、初心者のトレ−ニングや基礎的な技術の講習に適した場所である。
   台地・左下方に広がるスラブも自由にル−トを選んで、登れる。岩質は上部ほど風化が進み、
   悪くなるので、注意が必要。ここも、混雑時に防げた筈の、基本的な注意の欠落で事故が発生
   している。

(7)中の壁「右ル−ト」
   高距が60mほどで、下部に当時としてはクライマ−ニ−ズに対応したル−トも開拓されて、一時期は
   開拓・ル−ト整備を目指して、数人の県外クライマ−さえ訪れていたが、地元クライマ−の視線が、この
   意外と、近くの「岩場」に向く事は、殆ど無かった。
   「右ル−ト」は、前の壁から潅木の中に、しっかりと踏み固められた径を、左上方へ上がった立木の
   生えた斜面上に、あるル−ト50mの岩場『右端』。

   このル−トの初登者が、誰なのかを長く調べたが、個人の名前は結局、判らなかった。幾つかの断片
   情報や、過去の文献に僅かな記述が、あると教えてくれた人もいたが、結局その『文献・自体』を目に
   する事は、これまで無かった。「フリ−化」は、他の主だったA0セクション・ポィントの残っていた各ル−ト
   と共に、私と仲間達により1972年から、1978年の間には成されていたと思う。「左ル−ト」のバリエ−
   ションの開拓は、少し遅れて80年代に入ってから。

   個人的には、「妙号岩」範囲で、この『中の壁』が最もライミングが楽しめ、俯瞰する景観や終了点       での達成感・など、など、お気に入りだった。
   電線・工事用なのか、終了点に鉄杭などが残されていて、初期には支点としても利用していた。
   「ル−ト」
   右ル−トの初登時期は不明。
   このル−トの取り付きはV字状の岩より、左側を登ってリッジを右上後スラブを左に横断して、上段の
   バンドまたは、テラスに出る。ここから幾つかのル−トを選べる。通常は、右上方のバンドに立ち上がり
   垂直のフェ−ス左側を巻くようにフリ−で登るか、フェ−スを単調な人工で直上する。

(現在レベルでは、全てフリ−対応・一部に97年・2004年の台風や災害で、岩が緩んだ箇所あり注意)

(過去に、取り付き付近で終了点からの、危険な落石に遭遇しています・左側は特に注意が必要)
(8)中の壁「左ル−ト」
   取り付きは「右ル−ト」と同じ。リッジ状の岩より左上し、松の木の生えたフェ−スを直上。
   傾斜の落ちたフェ−スより小ハング下へ。ハング直下を右に出て、直上後、クラックに入り
   終了点のテラスへ。ロ−プの流れを、よく考えて登らないと終了点・確保点まで苦労する。
(これを書いていた頃は、一般的にクライミング・ロ−プは40mが基本だったので)。

(9)中の壁「左ル−ト・バリエ−ション」 当時Y級・範囲として舟橋・他3名で初登
   左ル−ト中間部にある、小ハングを超えて直上する幅の広いクラックを登る。
   取り付きのハングは、ハングは82年・当時は完全にはフリ−化されておらずA0で突破。
   当時、このサイズ的にプロテクション・ギアの準備が不完全だったクライミングは少々、危険。
   殆ど、再登者を見ない「妙号岩」での最難ル−ト。

(10)奥の壁「右ル−ト」
    上部に行くに従い、岩肌の風化が進み、支点の少ない壁であるため、ホ−ルドの崩壊に注意
    岩場基部・中央の小バンドより『六甲山・特有の悪習慣』今で言うところの「チッピング」で掘り起こされ
    たスタンスをたどり右上。バンドより小凹角を登り、チヨックスト−ン左側を直上。
    浅い凹角より左上して安定した終了点に出て終了。神戸・西の海を見る

(11)奥の壁「左ル−ト」
    取り付きは「右ル−ト」と同じ。丸く膨らんだスラブを直上、さらに岩肌に、完全にステップ状に刻まれた
    穴に頼って、小ハングを容易に超えてバンドに向って直上。左端にある小さな凹角に入る。
    右上、さらに左上して閉じた「クラック」をつめて、終了点へ。なお中央バンド下のル−トは、年々・岩肌
    に刻まれるフット・ホ−ルドが大きくなり、難易度は低下している。
    (80年代、前半に入っても岩場に掘削・用具を平然と持ち込むクライマ−が存在していた)
    (救いは?神戸のクライマ−では、なかった事ぐらいか)注意した事による「喧嘩・騒ぎ』も体験。
88年からは『視覚障害者』との実際の、クライミング体験・講習会も、この妙号岩で実施している。
82年・83年・86年の海外『現場』での、バリアフリ−・クライミングのの実際に勇気付けられての活動に
この、手軽な岩場は適していて、この頃から訪れるクライマ−の人数は、激減していたのも幸いだった。
『前の壁に刻まれている、南無阿弥陀仏の経文』に、関しては約110年前に彫られたとの情報が幾つか紹介されているが、詳細に関しては未だに不明。歴史的な考察から、調査するのも面白いと思うのだが。
硬い花崗岩に、滑らかに刻まれた「経文」を観察すると、機械的な仕上がりが見られるが実際に、どのような
行程、作業で『壁』に刻まれたのかも詳しい事は不明。南無の字の掘削箇所も、実際に触れると理解できるが何か、近代の工事・作業的な岩肌への接触を感じる。コレが、全て近代・以前の手作業ならば、多分?
経文を完成させた「職人」の腕は、かなりのものなのだろう。私達が岩場に通い出した頃に、出会った先輩
達や、見学に来ていた宗教関係に興味を抱いていた人達からも、この岩場の「経文」に関しての、詳しい歴史的な解説や情報を聞く、機会は残念な事に得られなかった。
『菊水ルンゼ』
芦屋ロックガ−デン『地獄谷』等と、同じ様にクライミングの対象としてよりも、冬季・残雪期のアイゼン着用での少し、クライミング要素を含めた実地・練習の意味合いを持たせた『トレ−ニング・コ−ス』として、利用される事が多かった。

通常の状態では、殆ど『ルンゼ状・地形』の、各滝・岩場に水流は無く、あったとしても沢登り範囲で指す水流は存在していないので、雨後・意外ならば大抵は乾いた岩を登れる事から、ロ−プ・ワ−クを含めた練習として使い易い「場所」では、あった。山頂へ至る『練習コ−ス』としての、価値からも登る人達は以前は大勢いた。最近は、忘れられた『ル−ト』と、呼べるでしょう。
現在は神戸電鉄・路線もトンネル・アプロ−チ等も過去の話。ダム建設に伴なって、かっての岩場下の環境は激変して、以前の岩場へのアプロ−チ道は利用できない。同じく、『菊水ルンゼ』も使用できない状態に置かれている。これまでのアプロ−チが利用できないが、北側・住宅地からハイキング道が利用できる。岩場『正面壁』への接近は面倒になってしまった
2009年、本当に久しぶりに懐かしい岩場でクライミングを楽しめました。来年度・発刊予定の(某・雑誌)取材の、お手伝いとガイド業務での、活動。『菊水ルンゼ』の方には、私の仲間達が入りました。
岩場・終了点からの風景は激変。同じく、周辺の自然環境の変化は驚くばかり。
アプロ−チの変化は、別に苦労を要求せず、楽しい山歩き、ハイキングにも適した環境。