六甲山 『仁川渓谷の岩場』 RCC開拓クライミングの場
阪急電鉄『宝塚線・開通後』から、主に大阪周辺クライマ−のホ−ム・ゲレンデ
表・六甲山『布引滝』周辺の、地形と共に『六甲山』に残る、数少ない渓谷・地形として古くから知られているが、震災後からは周辺の宅地化と、渓流範囲のハイキング・コ−スの荒れで、往時の面影は、失われつつある。

V字型の『幼年期の渓谷』として、六甲山では貴重な景観。クライミングが、第一次・登山ブ−ムの影響を受けて大阪・神戸、範囲の都市圏に住む若年層・範囲から、徐々に『クライマ-及び、登山技術の習得としてのクライミング』を、行う人達を増やし始めた、1930年代の後半から社会人『山岳会』と、地域的に学研都市化・傾向が進み始めていた『西宮市・環境』下で、急激に増加した、周辺・大学『山岳部』の活動を中心として、既成ル−トでの練習目的のクライマ−が、この渓谷の岩場に集まり出した。
RCC(ロック・クライミング・クラブ)活動・時期の国内でも最も初期の、岩登り練習場所として
芦屋ロック・ガ−デン、百丈岩と同時期にクライミング・エリア(ゲレンデ)としての、開拓が始まった。
クライミング・ゲレンデとしては、古い歴史を持った「岩場」なのだが、地元クライマ−には歴史的な知識が、意外と知られていない。近くの『大学』から徒歩10分・圏内なので当然ながら山岳部・WV部の練習場所としても利用されていて、『探検部』等にも頻繁に利用されていて、周辺居住の登山者も多い事から、他の岩場と比較しても以前から平日にも岩場に人を見る。
『ム−ン・ライト・ロック』
『三段岩・川原の岩場』
『ム−ン・ライトの岩場』は、蓬莱峡の『大屏風岩』と、共にRCC時代の後継者・世代の無秩序・論理思想の欠如・傾向に拍車が、かかった鉄の時代・エイド・クライミング全盛期に入る、少し前の世代・層のクライマ−の手によってチッピング・岩への加工が積極的に行われた『代表的な岩場』の、一つで。その悪習・更に悪い蛮行は今現在も続いている。

同じく、三段岩も、近代・以前からの非常に古い歴史的な価値を持っているかも知れない『石切跡』以前は、この二つの岩場が仁川渓谷をパ−ル壁と、共に代表する岩場として最も利用者が多かった。1970年代の前半には、まだ先達達が過去に、残していた鉄杭や、木製のクサビ類が岩場内で見られ。過去の歴史を感じる
『古典派の雰囲気』や、先輩たちが岩場下まで来訪する機会が得られていた。そういった、古典派の先輩たちに出会い、お話しを直接、聞く機会が得られた世代として私は、今でも運が良かったと感慨深い。

『ム−ン・ライトの岩場』前までの、渓流沿いには過去に三つの練習用ボルダ−とでも呼べる『岩場』が、あったが゜70年代からの水害や99年の震災・等の自然の猛威に、よって存在は失われたり、規模が縮小して現在は『岩場』の名に値しなくなってしまった。渓谷・入口のダイブ・ポィントだった大岩も河川工事で、その形状は失われ、僅かに岩場の名残を残すのみ。
『サン・ライト・ロック』 ごく最近(意外なのだが、チョ−ク跡)も、たまに見られる様なので登っているクライマ−も、私以外にもいるようだ。
この『サンライト・ロック』と『スタ−ライト・ロック』を取り違えて説明していたり基本的な位置関係を、間違えて情報を他者に伝えている人達が意外と多い。
『スタ−・ライト・ロック』 この10年間、私は全く整備の手を加えていない。登りに来ている痕跡も全く無いので、完全に忘れられた『岩場』と、なってしまったようだ。
フリ−化の記録は、過去に『岳人』等にも紹介されている。
2002年(現在)クライミングの場として、見れる・使える状態ではなくなっていたのでクラック・ラインのみは清掃・整備してボルトも打ち替えた。
『川原のボルダ−』 土砂の堆積で、価値が失われた。
課題の設定、解決は主に私と故・黒川君。
『パ−ル・ウォ−ル』 真珠岩(詳しくは項目・記載ペ−ジ)を、ご覧下さい。
『岳人・記録速報』『クライミング・ジャ−ナル』等にも、数度この岩場の事が出ています。2006年・現在は過去の岩場・上部からの下降路は宅地・造成、建設で利用する事は出来なくなっています。左側・下降路にも一部・崩壊箇所があり危険。
右側からの登下降路を使用するのが、無難です。
『パ−ル右壁』 85年、当時に主だった『渓谷の岩場』での過去の既成ル−トでのフリ−化が終了し、バットレスを含めて狙っていた『課題』も、解決した頃に新規に整備・開拓を始めたル−ト設定の岩場の、一つだが再登者も少なく、いつの間にか元の状態に戻り、震災などの自然災害により価値は失われた。元々、岩質が悪かった岩場で植生に覆われて、今更・整備する気も無いので、場所すら今のクライマ−達には分からないと思う。
堰堤チムニ− 初期の『代用・練習壁』英国で、この種の人工的・壁を見て来ていた私には全く抵抗感無く、使えていたが74年、当時では他のクライマ−の多くは奇異の目で見ていた。バック・アンド・フットの典型的なシュミレ−ション練習が行えた。
今も、使えるがセンタ−バ-は、握らない方が良い。時々、補修整備でグリスが散布されているので。
堰堤『左壁』 面白い『課題のリ−ド対象』だったが、今は簡単。パ−ル壁、左横・下の水穴付近のトラバ−ス課題と、共に使えると判断出来るクライマ-は、少ない。
『摩天楼の岩場』



『バットレス』
初期から、フリ−クライミングの絶好の「課題ル−ト」が、存在。六甲山・岩場で多分、堡塁岩と共に最も早くから『チヨック類』の使用が行われた岩場の一つで、金属製チヨック類が、市販品として国内に出回る以前の『プラスチック系・チヨック=当時はブロック・ハ−ケン』と、呼ばれていた用具の試用・岩場でも在った。

そんな『危ない用具』と、周囲の山岳会・関係者から非難を受けていた頃です。
『摩天楼』と下部壁の間の、すっきりとした花崗岩の二枚岩は『オ−プン・ブック』と私が命名して、短いながらも数本のライン取りで毎回、仲間達と楽しく遊んでいた岩場の一つ。自作のワイド・クラック攻略用チヨック類の実験場所としても活用していた。現在では最上部の岩場・上に宅地が建設されて、遠慮が必要。
10年ほど、前に常識・欠如のクライマ−の行為に関して、警察通報される事件も起きていて、一部・私有地の範囲と重なる「岩場・終了点」での行動には最低限の注意と節度ある行動が、要求されています。
『バットレスの岩場』
渓谷・最奥部に位置していて渓谷・左岸からの登山道への途中からの入渓路が
最近では、住宅地の拡大で使い難く、なって来たが右岸からの小経路には変化は無く、バットレス側への横断・箇所で使える送水路も使えます。
10年ほど、前から定期的に『壁・内の清掃』と支点・補強に関しては私が行っています。訪れる人も少なく、静かな環境でのクライミングが楽しめる岩場。
『ウォ−タ−・ゲ−ト』 最も初期のフリ−クライミング入門ル−ト
何年にも渡り、既成のエイド・ル−ト用の残置ボルトの撤去を仲間達も含めて、論議したが。『異なる意識のクライマ-共通の場』と言う、私の意見が尊重されて古いリングボルト類は抜かずに、今に至る。
苔と蔦・植物に覆われて価値が失われ。忘れられた幾つかの『岩場』 どの、地域にも忘れられ、価値も失われた『岩場』は存在。
仁川渓谷の岩場は、特に・そういった小規模な岩場が点在している。
特に、古墳跡が唯一、残る渓谷・左岸「上部・尾根」付近のボルダ−は完全な宅地化・住宅地の造成、住宅の建設で跡形も無く、全ての岩場が消失した。
同じく、バットレスへの登山道を以前は使えていた辺りの『岩場』や、現在の森林公園・展望所の元の場所にあった、格好の大岩も消えてしまった。
当時でも、私を含めた地元クライマ−しか、利用していなかった秘密の岩場の、多くは現存していない。
『関東からの来訪者』   私の自宅・宿泊での関西クライミング・ツア−記録
チ−ム・イカロス 『穂高・つながり』 檜谷氏のクライミング
チ−ム・イカロス U 『穂高・涸沢時代の友人・来訪』 高島連也氏のクライミング
無名山塾・関係 室井・   ペアと岩崎元朗氏のクライミング
自然保護・地域グル−プ 地域「自然保護グル−プ」「子供会」「ボ−イスカウト」『学校機関』他
TV取材・ガイド業務 『こちら夢通り』
『クイズ紳助くん・キャニオニング・ダイブ』
『ワイド・スクランブル』
『MBSナウ』
『藤原超合金』
『クイズ紳助くん』
『朝日放送・朝の番組?』
『何の番組だったか、忘れた(素人・体験レポ−ト)親子・沢企画レポ−ト』
『フットボ−ル汗』
『突撃ダイビング』
『クイズ紳助君』2006年
             突撃隊『煙突掃除』事前・練習に利用「現場ロケ」
               他、数本の(TV・お笑い系の現地ロケにて使用)

『朝日新聞・讀賣新聞・毎日新聞・産経新聞・アサヒフアミリ−』他
2007年2月『ロ−プ・アドベンチヤ−』下見・撮影にガイド同行
バリアフリ−・プログラム 70年代、後半から2006年度まで多数・使用
特殊・講習 立命館大学・京大・大阪府立大学・他『大学・探検部』
SRT講習&レスキュ−講習を81年より実施
学術・調査『協力・依頼』 古代・・石、遺跡・関係・調査『渓流・探査』埋没(横穴・調査)等
私と『仁川渓谷の岩場』での、クライミング以前の出会いは、単純な子供時代の冒険心や、束縛の強かった家庭や学校教育の現場からの、数少ない逃避場所の一つだった。

藤木さんと同時代を共に、クライミングへの素晴らしい情熱と熱意に青春を傾け、真摯に山へ向っていた先輩達は、当時の私には輝いて見えた。1971年、この頃にはクライマ−と呼ばれる人達は、本当に少なかった。登山の安全・技術の習得や海外『遠征』を、目標とする登山者達がクライミング・エリア(ゲレンデ)に休日ともなれば、今・現在と同じ程度に人数的に見れば、まさに込み合う程度に人は、溢れる場所は確かに存在していた。5月の連休前の日曜日や、10月・中旬過ぎの年末年始の『雪山を目指す』登山者達で、芦屋のロックガ−デンや、裏・六甲の『蓬莱峡』では、かなりの登山者が、アイゼンを装着して胸だけのハ−ネスやロ−プを切り取っただけの簡易タイプのウエスト・ベルトや、単純に腰にブ−リン・ノットで結んだザイル(クライミング・ロ−プ)を使い、工事用のヘルメットに軍手・姿で岩場に通っていた。

海外・文献。雑誌に見る軽やかで、限界を推し進める為に登山フアッションを、脱ぎ捨てたタイプのクライマ−は、当時の六甲山には誰一人・見受けられなかった。その頃に、当時の主流だった登山者スタイルと意識・クライミング志向が、過去のRCC世代の先輩達の方が、私から見て絶対に『かっこ良くて、純粋に見えた』のは、今から考えても、とても不思議な事だった。ボルト使用に、全くと言って良いほどに、誰一人、抵抗感を持たず。アブミを、ぶら下げている事や、他のクライマ−達よりも数多くのクライミング・ギアや六甲山の小さな、岩場には似つかわしくない高峰登山に使う、そう言った装備を担ぎ上げている、所持している事が一種・彼らのスティタス・誇りだと見えた頃に、私が中学1年生の子供の視線と憧れで、話しを拝聴していた方達は、その当時で現役の一線を離れた、世代の先輩達だったが、ボルトやアブミを使用してのクライミングに批判的であり、1本のロック・ピトンの使用にも、何か哲学間的な自問・自答、思い入れを持たれているらしかった。

大量・物資、大量消費の美風が、山やクライミングの世界にも、浸透し出した私の子供時代に、逆の方向性を過去のクライマ−から学ぶ、機会が得られた事は私にとっては幸運だった。
一人の、クライマ−、自立系のアルピニストとして成長する期間に誰でも、間違いは犯す。
青春時代の悪習・一般的な社会通念や常識への抵抗を、取り違え・間違った方向性に指針を見つける事も誰にでも、起こり易い間違いの一つだ。私も『神戸登攀倶楽部』の、仲間に加わる以前に、主に大阪範囲の
世代的には上のクライマ−達との、数多い接触や交流を持っていたが、今ある自分のパ−ソナリティ−や思想・理想とは程遠い活動を、深く考えもせずに彼らと共にクライミング現場での活動で行っていた。
今ならば、行わない。行いたいとも望まない青春時代・以前の無駄な時間を過ごした。

フリ−クライミングに関しては、まだ意識面での変換さえ理解されていなかった当時の、関西でのクライミング環境では既存の伝統的『山岳会』や『大学・山岳部』が、指向する初登頂やアルプス3大北壁に代表されるアルパィン・クライミングが、多くのクライマ−の目標であり、話題としなくとも、意識化・脳裏には影響を受けていた、時代だったので、組織に属さず、自由にクライミングを楽しんでいた『遊び人・達』は、少しばかり異なるスタイル集団・小グル−プとして、ある意味で異端として見られる状況・感覚が強かったが、逆に組織的な登山・クライミング活動に、背を向けて自由なクライミングを、遊びとして楽しんでいる気風は、若い時代には魅力的では、あった。

ただし、責任や義務といった重要な部分にも、当然ながら意識しようと無意識でも、完全に無視していた事は当然だったので、少しばかり力量に自身を持ち出し、六甲山の岩場から抜け出して『奥鐘』や『明星山』
『剣』の本格的な、岩場での危険を知るに付け、自分の勝手でしょう感覚では、対処できない世界を、理解し出した。
Wボナッテイの著書に深く、傾倒。思想面で強い影響を受けていた私には、アルピニズム論・クライミング指向の根底に深く根ざしている『パ−トナ-』との、信頼や友情といった人間的でヒュ−マニスティックな事柄に、記録や冒険の側面と、密接に繋がった『夢と憧れ』を、強烈に感じ取っていた。

だからこそ、私の勝手でしょ感覚で、自由に気楽に楽しむ関西・六甲山を中心として広がるクライミング環境の中での、人的な広がりの中に理想を失い出していた。

クライミングで糧を得て、生きていく事など夢想。夢のまた夢の世界だと、暗黙の了解として、知る人・狭い交友・交流関係を含めて、周囲の全ての人達も仲間も、山とは関係の無い人達も、誰一人
『夢は語らない』『認めない』環境下の、閉塞感と絶望は、耐え難いものを感じ出していた。


そういった『挫折感』や、寂しさを感じた時には、この「仁川渓谷の岩場」に立ち戻ると不思議と、心は落ち着き。次ぎの、山に向う心に強さが戻る感覚を覚えた、私にとっての『ホ−ム・ゲレンデ』は、やはり他の岩場にも、強い想い出や郷愁感を持つが『仁川の岩場』は特別だ。
『仁川渓谷の岩場』での、中学1年生の春からの私のクライミング体験は。
その数年前の、川底から見上げていた『真珠岩を登るクライマ-』の、姿から影響を受けていた。
たった30mほどの高距の岩場を、確か1時間ほどの時間を、かけて一人の登山者が攀ている光景を
一人で、渓谷に逃げて来ていた私は、見つめていた。
『歴史的』に貴重だと、判断出来る構造物や、それに類すると見られる幾つかの『痕跡』が、仁川渓谷・流域には幾つも見られる。郷土史的な興味や、学術的な興味から、これらの過去の遺物・痕跡を調査している人達は多く、彼らに私達の行為・活動が妨害として見られないかを、以前から気にかけていた。
1969年〜当時は、今では恐くて誰も使わないような
胸(チェスト)部だけの単純なハ−ネス(安全ベルト)
だけでクライミングしているだけの人が多かった。

クライミング専用の靴を買うだけで、精一杯の私には
そんなベルト類を購入するのも、難しかった。

基本的に、腰にロ−プを巻いて結ぶ、シンプルで危険
なスタイルに、それでもクライミングそのものが楽しくて
装備や用具の不足は、別に支障も不服も感じていなか
った。(写真)は高校卒業、間も無い頃だと思われる。
仁川渓谷の岩場『真珠岩』を登る私の装備は、今から見れば貧しく、とても貧弱だ。

もし、墜落していたら・・・・かなりのダメ−ジを受けた
事だろう。所有していた用具は、本番ル−トでの開拓
夢見た山の為に、温存・・買い足し、使用の機会を待
ちに、待っていた頃なので『ホ−ム・ゲレンデ』では惜し
くて使えなかった。
高校1年のときの5月の穂高岳「北鎌尾根からの主稜線
の縦走』2年の、関西範囲の岩場への遠出クライミングと
穂高への夏のクライミング。そして、無謀・無理の周囲の
反対を、予め見越して、故・貫野氏、以外には誰にも計画
を打ち明けずに敢行した、当時のY級A3・グレ−ドの記述に震えての、ソロ・クライミングの成功から、剣での継続。装備やクライミング用具に、何かしらの不足を感じていなかったと言えば嘘に、なるが情熱は、全てを補った。
『仁川渓谷の岩場』での、ロッククライミングの歴史はRCC(ロック・クライミング・クラブ)の活動から始まる。
大正13年6月に、神戸市の『神港倶楽部』で創立総会が開かれ、神戸市・芦屋市・西宮市を中心とした阪神圏内の登山者が、各所属の組織の枠を離れて、より本格的なクライミングと海外登山への『夢を共有』して倶楽部としての活動を開始した。総会時、以前より『芦屋ロックガ−デン』などで主だった設立メンバ−は,藤木氏を中心として当時・英国で編纂された「クライミング技術書」や、海外情報を下にトレ−ニングを積み始めていた。藤木氏の渡欧後・以降の短い期間に『仁川渓谷の岩場』の固有名称が変更になったという情報もある。その辺りの、文献情報を私は実際に目にしていないが『芦屋ロックガ−デン』と違い、この渓谷内に
点在している、幾つもの『岩場』に関しての情報は少ない。関学・関係の『山岳部』とか、その辺りに古い記録
が残っている可能性は高いが、その情報に関して聞くことも少ないようだ。
大瀬氏とか、60年代から70年代に岩場の主的な存在だったクライマ−の姿を見なくなって、もう30年、近くなってしまい岩場としての価値も忘れられて、年々・静かになって来たようだ。

『倶楽部』としての第一回・合同トレ−ニングは、姫路の『雪彦山』にて実施され、丹波の『小金岳』に次いで
『不動岩』『百丈岩』そして、『仁川渓谷』から『堡塁岩』へと、クライミングの場を広げて行った。
記録的に見ても、六甲山系の岩場の中でも『仁川渓谷の岩場』は、『芦屋ロックガ−デン・百丈岩』等に次いで、古くからRCCメンバ−によりクライミング・ゲレンデとして利用されていたようだ。

昭和10年〜12年、頃に実際にRCCメンバ−と、共に『仁川渓谷ム−ン・ライト』でのクライミング体験を持っていた神戸岳連のM氏から、往時の記憶の断片を偶然、数日間スイスのグリンデルワルドにて同宿する機会があり、聞かせて頂く事ができた。
『震災後』からの渓谷周辺の自然環境の変化は、激しくRCC時代とは見比べようも無い。
古い『CJ/クライミング・ジャ−ナル』に、故・黒川君と共に書いた『岩場ガイド』の記事が2008年2月7日に。やっと見つかった。運良く雑誌から、切り取ってファイル整理してあった資料を、震災以前に友人に貸していて、それが15年後に、ようやく私の元に返却されたので、この情報項目に付け加える事が可能となった。使用している『写真』の数点はは、古くからの友人である中村君が提供してくれた物だ。
Friday, 15 February, 2008
不可解と言うべきか、悪くなっていく社会環境の中での「クライミング・クライマ−」の意識が、かっての山の世界の中での常識とか、暗黙ながらも一定の範囲で守られていた常識・クライミングの場の共通保全意識が消えてしまったのか、継承していたクライミングのモラルも無くなったのか、基本的に、そういった意識を誰とも共有できない種類の人がクライミングを行いだしたのか?とにかく、とても理解不能な行為が、この『仁川渓谷の岩場』でも2006年・以降から目に見えて、異常に増え出していて、状態は年々、悪化している。自分さえ楽しければとしか考えられず、過去のクライマ−の守って来た常識や岩場そのものさえも否定して、身勝手・極まりない行為が行われていて、これは個人単位の仕業の様に思われるが、制止する手段を見つけるのも難しい。2009年5月、ム−ン−ライトにて、ひどいチッピングと80年代の中頃には、誰もエイド・ル−トの製作などを考えもしなかった箇所で、無意味なハンドメイド・ハンガ−に安価な工事用アンカ−・ボルトを組み合わせての、現在では危険・標準以下・誰も相手にしないような岩場破壊。
Wednesday, 24 June, 2009
過去も現在のクライミングも、基礎的な技術やクライミングと言う行為での、共通意識も無く、ましてや他の利用者と共に、岩場環境を保全・保護しようという意識は皆無、まったく自分しか見ていない最低ボルト。
この岩場周辺には、駐車場が阪急『仁川駅』付近意外に無いので注意が必要。以前は、仁川沿いの住宅地・奥の車道終点に駐車が可能だったが、基本的には駐車は禁止。阪急『仁川駅』から、歩いても近い。

               (下・写真)渓谷内の最初の岩場『ム−ン・ライト・ロック』