新聞紙面に紹介・記事が出てから反響の大きさに驚いた。
この連載・企画には山岳関係の情報や地域枠の情報誌には、これまで詳しく情報が紹介されていない地域やコ−スを、特別に選んだ訳ではなく、私としては意外と知られていないだろうと思う比較的・アクセスの良い山域の中から『穴場的コ−ス』や見るべき価値があると考えている『場所』を選んで執筆・ガイドしていた。

『巨大杉』『大滝』『希少植物』に続く、心癒される身近な低山に残る『石仏』連載は、非常に好評だった。
新聞に掲載された後に、西宮市の広報課からも問合わせの電話を頂いた。
郷土史の研究家の方や、写真家からの質問や、案内希望も寄せられた。

何より、驚いたのは近くに住まれている、方達から場所の所在を詳しく聞かれた事で、意外と身近な環境に、こういった古くから残されたものが、ある事を知らないようでした。
私には、子供の頃からの、遊び場の延長線・上として知っている。甲山の麓の、とても『心落ち着く山道』である。わざわざ『石仏路』と、書いて紹介すべきかは人それぞれ、判断も違うでしょうが秋の、午後に少しの時間を散歩気分で、落葉を踏みしめながら静かに、考え事や新しい靴を履き慣らすのに、歩くのには最適な山路なので、私には、いつも気分が休まる『穴場コ−ス』の一つと言える。

細い山路の両側に、鎮座まします『石仏』の佇まいを、感じるにしろ、感じないにしろ。ここは、心落ち着く山道だ。
     『場所は六甲山の東端・西宮市のシンボル的な甲山・神呪寺・管理地区』

2004年この頃から『石仏』の小径を八十八箇所・巡礼路と呼んで、散策・散歩に訪れる人達が急増しました
色々な情報の中で、手軽な散策路として紹介され、HPの中で書かれている事が増えたのも、人気が高まった理由の一つでしょう。
新聞『連載情報』は、基本的に自然ならば『山コ−ス』に、拘らなくても良いと担当者から了解が得られていたので、以前から『仁川渓谷から甲山』そして、そのコ−スの延長線に、この甲山・周辺の『石仏』を一つのコ−スとして、紹介しようとは考えていましたが、『山関係の雑誌』等に、執筆していた頃には、ここを詳しく紹介する機会には恵まれませんでした。今回の『新聞・情報』は、短期の賑わいかと予測していたら、意外と影響は大きく、私に直接・問い合わせて来られる方達は2007年・現在でも時々、おられます。
六甲山『石仏・野仏』
六甲山を取り巻く、丘陵地帯や平野部は古代からの歴史が積み重なられた地域で、周辺には寛政年間から各地に『石仏』が、設置されていて、それよりも古い時代の歴史を紐解くのも困難な『野仏』も多い。六甲山・東端に位置する特徴的な山容が、西宮市のシンボルともなっている『甲山』にも、そういった趣があり丘陵地帯に点在する石仏を巡る、通好みのコ−スが存在している。1798年から徐々に『目神山・丘陵部』に設置され出したという数多くの『石仏』は、神呪寺・管轄範囲の山中にありながら来訪者は少なかった。新聞・連載時に、この静かな環境の中に佇む『石仏』を、紹介しようか迷ったが当時、懇意にしていた『桜茶屋』の、おばあさん・からも貴重な資料を頂いたので、この『コ−ス』も紹介記事を執筆した。

(下・空撮写真)昭和20年代に、私の父が伊丹空港・発の飛行機から撮影した『甲山・周辺』山頂部を含めて植生が乏しい、はげ山・状態であった事が良く判る。『石仏・コ−ス』の位置関係も判り易い。表・参道が舗装される前で『目神山』住宅地が、徐々に山腹に迫り始めた時期であり、現在は住宅地として造成されてしまい古い時代の、石切り場・跡や幾つかのビック・ボルダ−が存在していた時代だ。
『甲山』の南側、緩やかな丘陵部から『目神山』山頂部、そして一部が神呪寺・経内と車道付近に点在する『石仏群』に、関しての情報。
幾つかの問題点も残してしまった『私が担当した連載記事』の中でも、大杉関係と、この『石仏コ−ス』に関しては、反響が大きかった。有馬の凍る滝コ−スと全く同じく、来なくても良い人達を招いてしまった事が残念だ
以前には北側のビック・ボルダ−の課題や、ボルダ−と同時期に下部壁からスラブを継続してクライミングが楽しめるル−トを開拓していた、私ぐらいしか、この辺りに立ち入る人はいなかったが、最近では『石仏巡りコ−ス』東端から、更に東側に大岩と急斜面で踏み込む事が一般的には無理だと見える辺りまで、切り拓かれた山道が存在している。小さな山頂部の北側を迂回するように開かれた山道の意味は不明だが、この新しい山道の存在で、かっては誰の目にも触れなかった、幾つかの石板や興味を覚える痕跡が見易くなった。