本当に幼い頃の、微かな記憶の中に土手の斜面を背中に風呂敷を、広げて走り下っていた頃の記憶の中に、多分?『空を飛ぶ』単純な憧れを心に秘めて、遊んでいたのではと思った。

笠をパラシュ−ト替わりに、小さな小屋から飛び降りた記憶も、あった。馬鹿な子供だったが大人になっても馬鹿な様だ。
今度は、風呂敷や破れ傘では無く・航空力学的に滑空が保障された自分の翼を手に入れて。

『夢の続き』が現実化するのは素晴らしい体験だ。一夏・氷河を抱いた高山をバックに、明るい夏空に飛び交う自由な翼持つ人々を見上げていれば、クライマ−で、あっても私の様に子供の頃から馬鹿だった人種は、夢を諦められない。

最初に習った???飛び方?=は後方から怒鳴る、ゴ−シュとドロワ。生れて、初めて空間に飛び出した私と相棒の少年には、どちらが右か左かを判断する余裕さえなく、お互い仲良く・左右の立木に向って着地。
今から、思い返せばズブの素人を最初に引き連れて飛ばさせたのがスキ−のジャンプ台と言うのは、かなり無謀だ。楽しかったけど、ジョルジュ・感謝してるよ。何とか、脚も腕も折らずに、初飛行は無事に成功したしね。

87年、帰国の翌年。
タ−ゲット精度に自信もあり。残雪期ならば、かなり余裕で北アルプでの、山飛びが楽しめた。

ジャパン・カップ出場・前のトレ−ニングも兼ねて。穂高を飛ぶ

スタ−トは、不安定なガレ場

から。コントロ−ルを効かせて

細心の注意で、岩の中を走る。

この日のフライト時には、テイクオフ直後に真下を歩く
長谷川さん達の、上を飛び。急ぎ挨拶して飛び越えて
涸沢へ。

97年の「白馬ジャパン・カップ」への、選手・参加と。その後の「木島平」での1シ−ズン以外で、リフトや車の世話になって山から、飛んだ体験を、私は持たない。全て、穂高でも、八ケ岳でも。南アルプスや富士山・その他のエリアでも、当然ながら山屋で、ある私はパラは自分の背に背負って山頂や稜線に上がって。
フライト(テイクオフ)している。けっこう、それが自慢。

決勝戦。進出・選手中、一番で飛び出す。『周囲の、どよめき』
前年、夏にもシャモニ−で、お声を・かけて頂いた。ボワバン氏と、パ−テイ−にて、酒を飲む。

初フライトから、今年(2005年)で、パラのキャリアも
19年目と、なった。さて、仲間達に、公言していた『次』の
夢を、実現させる為の・準備を始めようかな。

10年後の、60歳を越えてからの 『ネクスト・ドリ−ム』も
傍目には、かなり過激らしい。

山で飛ぶ『山岳飛行』

俗に、7連と呼ばれた。やたらに滑空・沈下速度の速い機体で、穂高で飛んでいた87年・春の頃だ。

専用ハ−ネス以外に、クライミング用のシット・ハ−ネス
とチェスト・ハ−ネスを毎回・各種、組み合わせては軽量タイプの使用を工夫していた。機体も『ケンベック』さんから最新の試作機体も、借りて使えるようになった。
初期には、中古機を使っては、穂高や八ケ岳での使用で人の倍は、機体を痛めては安いタイプを取替えては使っていた。タンデム機体は、各種・付属品を含めると100万を越える、非常に高価な「遊び道具」だが、これも『夢見』ていると、自由に使えるチャンスに恵まれた。

2005年の初秋から、久しぶりに新しい資格認定が
必要な『遊び』に、取り組み始めた。

クライマ-が、空を飛び、海を旅すると日本では
やっかみ、嫉み、つい『二足の草鞋』と揶揄する
連中が出て来る。

キャニオニングにハイドロ・スピ−ドにパラ・パント
動力付きパラにも、体験を積む私は、さて何と呼ば
れるのかな?
自分が登攀した岩壁を、空中から見れるクライマ-は少ない。
稜線テイクオフ・ザイテンで一時・着地後にテイクオフ『タッチ&ゴ−』練習
涸沢・上空で『空中散歩』
『山岳波には細心の注意が必要』
『信濃毎日・新聞社』記者よりの提供

誰でもが憧れて飛べる環境
世界ではありません。

86年シャモニ−にて
人には絶対に薦めない練習方法
テレマ−ク&パラ(スタイル)
パラグライダ−(パラパント)を楽しむのには正しい知識と技術を専門のスク−ルで学ばれる必要があります。関西範囲を含めて、本当に信頼出来る『スク−ル』は、それほど多くはありません。使用する機体の安全性のみならず『スク−ル指導』のカリキュラムを含めて、良い指導者・インストラクタ−の存在が大切です。

私ならば兵庫の『ケンベック・パラグライダ−』を薦めます。


残念な事に2008年8月より、23年間のケンベックさんの活動は休止
との事です。HP情報に関しても8月より閉鎖との連絡が入りました。

様々な機会に数多くの方達から写真を撮って頂けた。
プロカメラマンの青野氏には『岳人グラビア写真』にも使って頂いた。ボツネタとは、なったが
数回のTV撮影でもスタツフの方達にも、良い記録を撮影して頂けた。感謝

一時期、縁のあった『東京女子美術大学WV部』メンバ−にも数多く写真を撮って貰えた
1986年(春〜秋)欧州クライミング・ツア−の途中で出会った『空』への、夢の続き。
『ジヤパン・カップ』にてエスコフイエ氏やボワバン氏と共に
95年に『ケンベック』社長の村上氏に
相談して、翌年の穂高岳から使える
タンデム専用・機体を作製して頂いた。
100%・ケンベック・オリジナル

ハ−ネスを含めて、接続用の特殊なバ−
や、タンデム・フライト用の全ての機材を
相談して、村上氏が提供してくれた。
安定性能に優れた『ケンベック製品』
88年、いつもの穂高岳
『涸沢』の夏。クライミングに出ない休日は稜線の『風』が気にかかる
『風を読む』常駐隊からの、心配・視線は毎日の事。風が良ければ
まずは広げて。
テイクオフ・ポィントはガラガラ
の不安定・極まりないガレ場が
当たり前のコンディションなので
毎回、慎重にラインをさばく。
山岳環境なので飛び出し
箇所は『悪い』毎回、練習場所
が、この程度の場所なので緊張感
と集中力は、嫌でも高まる。
気楽にテイク・オフすると痛い目に遭うのが当然な環境下なので、慎重に、そして大胆に
『風を読む』走り始める前の事前の進行・目測一度、足を踏み出すと転倒は致命的なガレ場なので、一夏・毎回・緊張するが。この練習場所の、おかげで他の普通のフライト・エリアは気楽だ。

『山飛び』での基本課題の一つは
テイク・オフの判断。
稜線が濃いガスに覆われた違う日にも別のポィントから軽く、テイク・オフ。

浮力が効くまでの滑走部分では大岩を飛び越え、重い登山靴での脚力・勝負の走りも必要。

こんな場所では、コケラレナイ。
稜線・近くで上昇風に入り300メ−タ−ほど上がってしまう。
サブロクを、せずに細かく蛇行しながら高度処理で下降した。
残雪期のフライトと比べると距離も飛行時間も、雰囲気も楽しい。
奥穂高岳・山荘から借り受けて来た小型のビデオ・カメラを脚に
固定してフライト記録を撮影した。
このフライト時には前穂・北尾根からの友人と吊尾根・上空で挨拶しようと、かなり稜線・近くへ。最低鞍部・周辺が危険。空気がチュ−ブの様に流れている。
阿弥陀岳・トップ周回フライト
テント場が込み合っていたので『鉱泉小屋・裏』に
着地(アオベイ撮影・フィルム提供)
これで決勝進出、しかし7連・滑空比で穂高を飛んでたのは、今から思うと恐い。
北穂・山頂テイク・オフ
穂高岳タンデム・フライト
ザイテン・グラ−ト上空を飛ぶ
バックでクロスしてキャノ−ピ−
を立ち上げるのは可能だが、たった
一歩の後退ステップも危険な箇所
では使えない技術だから、一般的に
立ち位置から、風を正確に掴む感覚
を身に付けるのが山飛び・には重要。
奥穂高岳・山頂・直下テイクオフ地点
2006/11/17 (金) 13:45:17
86年のシャモニ−での、初体験(初フライト)から現在(2007年)まで、まだパラパント(パラ・グライダ−)での事故や怪我の経験は無い。
残雪期の『穂高岳』で、タンデム飛行を楽しむ為に『ケンベックの村上氏』に、相談して製作して貰ったハンドメイド・タイプのジョイント・バ−は木製板のシンプルな物だった。ハ−ネスと共に、ケンベック・オリジナル。パラ本体は、タンデム機体なので流石に大きく、クライミング・パックも70Lを使用して運搬。
86年の正月ガイド・スク−ル『八ケ岳プラン』にも、さっそく持ち込んで当時のスク−ル・メンバ−にもパラパントの楽しさを伝えた。当時は、まだ冬の山にパラを持ち込むような物好き?は存在していなくて、かなり珍しがられた。
Monday, 30 June, 2008
Friday, 26 September, 2008