完全・消失。失われた渓谷『大月地獄谷・滝』 |
今現在、この『滝』の姿を見る事は適わない。 |
私個人は中学生の頃に始めて『滝を登った』と言える記憶があるのが、この『大月地獄谷』の チムニ−滝だったので、思い出は多い。震災で主な「滝」が登る対象としての、価値を失う前に 30回・以上は入渓していて、各・滝の支点や確保ポィントも。ペッツルのハンガ−・ボルトに私が、打ち替えもしていた。 TV関係の『撮影・業務』も3回、この沢で行って、メディア関係での利用も増え出していた。 チャレンジド参加の「シャワ−・クライミング講習」も、数回この滝を使用していて、六甲山・特に表側に残る数少ない練習コ−スとしても、自分の記憶の沢としても貴重だった。 一日に、同・沢を仲間と登下降3回と、馬鹿なトレ−ニング・メニュ−を繰り返したり。アプロ−チで「地蜂」の大群に襲撃されて、散々な目に遭った事が、昨日の様に思い返される。 |
破れた運動靴に拾って来た「荒縄」を巻いて
初めて、この谷に入ったのは中学2年生の春
そして、地下足袋を買ってウキウキした気分で
再び入谷して、草鞋を履いた大人を見てから
実際に本物の「草鞋」を購入して使える様に
なったのは高校生になって大阪に出れてから。
当時『山の店』での購入価格が安くして貰って
320円・程度の頃。
荒縄が一巻き「米屋」で木炭とかと一緒に買えば
200円で10回、程度は草鞋・代わりに靴に巻いて
使えた頃だった。
高校生の頃には中学の同級生だったU君と
一緒に大峰の沢で『遭難騒ぎ?』下山が1日
遅れて、こっぴどく親達から叱られて遠出が出来ない
期間は、西山谷と共に、この谷に頻繁に通った。
地下足袋に草鞋を履いて。
『滝を岩に』見立てて・等とガイドブックか何かに書いてあった記憶があるが、私個人は『岩』は岩場へ。『滝』は沢・渓へ、と六甲山の沢や滝を渓流の中 で楽しむ、学ぶ世界だと感じていた。 六甲山の沢・渓流の『滝』は軽視されている雰囲気が以前から強くあるようで、その割りに『滝ル−ト』の存在が語られる事は少ない。私が高校生の頃にも、この『大月地獄谷』は古典的な沢登コ−スとして、広く知られていたが谷中の、全ての滝を登った先輩達を知らない。 渓・沢の世界ではフラット・ソ−ル・シュ−ズに代表される用具の飛躍的な、発展や、革新的な装備の進展は少なく最近になってステルス・ソ−ルのウォ−タ−分野・対応のシュ−ズが登場した程度で、基本的に『地下足袋と草鞋』『フェルト・ソ−ル』の渓流シュ−ズの世界に革新的な変革は、見られていない。 『滝』を登る行動にしても、困難な 『課題』は古い時代の先輩達は、乏しく・現代よりもはるかに性能の悪い装備で挑戦していたのだから、逃げの効く『六甲山』で技術的記録的な『滝へのチャレンジ』が少なかった現実は、やはり、精神的な意欲の欠如としか考えられない。 |
『日本・百名谷』の一つとしても、取り上げられ。沢関係では、六甲山というロ−カル・低山ながらも関西では、誰でもが一度は登りに来た想い出を持っている。そんな感覚の神戸の登山者や古いタイプのクライマ−には、それぞれの想い出を数多く秘めた『谷・沢』だった。 別冊『ヤマケイ関西 六甲山』2001年に『六甲山の沢』を執筆・依頼を受けた時に、この『大月地獄谷』を取り上げるかを悩んだが、震災後の不安定さと、危険性を考慮して解説文・ル−トガイドの説明を行わなかった。沢としての価値も、谷の雰囲気も含めて、六甲山で楽しめる沢としての価値が失われたとの判断と共に、利用者の問題も大きく関与している。 以前から問題視されていた、事故者の『事故の原因』も考えて欲しい。今でも、かなり無謀・そして技術的にも登山者としての心の持ち様にも、かなり問題のある人達が入渓する谷だ。 |
(上の写真)共に、震災の4年〜5年、前に個人的 に遊びに、入渓した時に撮影した。その前年、ごろだっか 大滝・範囲の老朽化した支点を、私が当然・手打ちで ハンガ−・ボルトに打ち替えていた。震災後の記録に 崩落した「滝」の巨岩が散乱・・・悲しげなハンガ−が光る 記事を、複雑で寂しく読んだ・・・・・ |
1950年代から、六甲山系の沢登り、クライミング練習の場として利用されていた。70年代には、写真の中央・カンテ部と共に、チヨックスト−ン滝側との間のフェ−スから直上後に、中段のバンドから右上するラインも利用されていたが、現在では、この岩場・左裏側の『巻き道』が、整備されて大月地獄谷に入渓する登山者が、この滝を登る事は無く、以前ならば考えられなかった事だか、岩ル−トに登行の為の固定ロ−プが残置されている場合も多い。壁の周囲の植生も、徐々に密生し出していて、このまま岩を登る者が減少していくと、草付と潅木が、岩場の表面を覆い隠してしまうかも知れない。 |
クライミング用のタイツを沢でも穿いていた頃なので、80年代だろう。水切りが良くて、伸縮性は抜群なのだが沢での利用には耐久性に難点が大きかった。古いリングボルトが2本と、中段のスタンス上に錆びたロックピトンが1本、合計3本の残置支点が残されていて技術的にはV級・程度。岩も堅く適度にホ−ルドがあって、この谷としては珍しく、鋭角なホ−ルドでのクライミングは快適だった。 基本的に、今現在もル−ト内容に変化は無く、やや草付が多くなってはいるが登山靴でも、渓流シュ−ズでも登れる、意外と登って楽しい滝横の岩場。 |
『F0』は、最近では殆ど登られないと言う。F1も左・裏側の巻き道が完全に登山道・状態となり固定ロ−プも常時・設置されて、わざわざ岩場を登る人達も見なくなって久しい。更に、上流範囲の各滝は、震災で壊滅的な被害を被ったので、震災以前の状態を知らない人達には、以前の滝の存在・位置などを判断できなくなっている。又、『巻き道・範囲』ならば、ある程度は理解できるのだが、なぜ?『滝』に固定ロ−プ類を残置していくのか判らないが、放置された安価で一瞥しただけで強度に不安を感じる、工事用ロ−プや、紐の様な細いロ−プが朽ちて滝に、残されている場面も多くなって来た。逆に、数ヶ月・前には放置されていた滝に残されたロ−プが途中から無くなっていたり、明らかに付け替えられていたりと、この固定ロ−プに関しては、毎年それなりの人数の人達が関与している事が窺い知れる。しかし、滝を登る者には、興ざめ、邪魔だとしか言えない。これがハイカ−・レベルの人達の為の物だとしたら、ある意味で危険への誘導、問題ではある。 |
かっては、表六甲山・範囲で登山者に最も名が知られ、住吉川の西谷側流域の支流の中では、アプロ−チ至便で、『沢登りのゲレンデ』としても『岩登りのゲレンデ』としても、クライマ−に知られていた。70年代〜80年代には、山上の『堡塁岩』へのトレ−ニング継続コ−スとしても利用される場合があり。芦屋ロックガ−デンや蓬莱峡での体験の次に、より本格的にアイゼン履きでの想定練習のコ−スとして、使用されていた時期もあった。『大月地獄谷』が、広く沢愛好家や一般的な登山者に情報として、知られ出したのは1978年の記録を元に、関西で最初の『沢登りコ−スのガイド・ブック』として、影響を与えた『中庄谷直・氏、編集の関西周辺の谷』によるところが大きい。『沢のル−ト図集』として、このガイド・ブックの中で紹介された『六甲山の沢』は、その後の関西周辺での沢の愛好家の活動にも強い、刺激と影響を残した反面、変化の激しい沢の環境や活動するクライマ−の意識の変化に必ずしも、内容が適合していず、幾つかの思い込みや断定的な解説で可能性の発見が遅れる原因の一つともなった。 同書では『大月地獄谷が3級・日帰り』『西山谷は1級・日帰り』とグレ−ディング・評価されたので、単純に難易度は『大月地獄谷』の方が、上で今難度や内容が六甲山では最難とか、半ば伝説的に論評、評価され出して、滝を登る意欲も技術的な能力も有していない、滝見見物を目的とした一般ハイカ−や、巻き道でも苦労するレベルの一般道・利用が無難な筈の、登山愛好家も谷歩き、沢コ−スに入るようになり、益々、難易度や困難な箇所に対しての評価や情報の公開が続いてしまい、沢コ−ス利用目的の人と、沢歩き、一般登山からハイキング的な楽しみで入渓する人達との、意識や記録の表現で大きな差異が生じてしまった。 震災以降は、かって70年代に先輩達や開拓者が切り開いた、巻き道は大きく変化している。 |
時折、個人プログ等に、本質的に間違った地形や滝、エスケ−プ・コ−ス(巻き道)に関しての状が紹介されている。
沢の中を歩かず、自分が実際に、どこを歩いているのか、場所の特定も適わず、過去から継承されて来た数多くの情報も無視して、更に思い込みや、身勝手な独断や、思い違いで『地震』被害を理由に、滝の存在を無視したり、個人的な理由や自分の、活動を自慢したいが為の、進行方向や、使用コ−スの推薦を、正当化したり、かなり無茶苦茶な『情報・公開』を、平気で続けている人達が増加。