兵庫県・雪彦山地蔵岳・正面壁のフリ−・クライミング |
関西でも、最も古くからクライマ-に知られている『雪彦山』でのフリ-・クライミングが、最近になって久々に活性化され出した。
一昨年(2003年・秋)に『雪彦山の岩場』の中でも、比較的アプロ−チが楽で、一般登山道からも岩場を登るクライマ-の姿を、指呼の距離で見ることが出来る『地蔵岳・正面壁』を、ステップ・アップ講習を目的に、何度か講習・参加者と登りに来ていた時に。
ある日、突然。先週には無かった主要な既成ル−トに
真新しいステンレス・ハンガ-のボルトが、ル−ト上にポィント事に設置・埋め込まれているのを発見。各ル−トにも、最新の「ビレ-・ステ−ション」として、チェ−ン(鎖)付きボルトが綺麗に設置。
『初期フリ−化の記憶から今へ |
この『岩場』には、私が、所属していた『神戸登攀・倶楽部』の、先輩達が開拓した時代を先取りした、当時としても非常にフリ−・クライミングのレベルが高い『ル−ト』が、存在していて。70年代の私達、神戸の仲間にはホ−ム・ゲレンデの雰囲気を持った、通い慣れた岩場の代表格。 |
最近(99年・以降)は、この『雪彦山』を位置から見れば。真正面。『雪彦山』から、見れば裏側に位置する谷間に私は夏の期間・生活環境として定着している。
遊歩道から、千尋平を抜けて山道を駆け登れば『雪彦山・山頂』までは、気楽なハイキングと言うよりも
『散歩範囲』の場所だ。モニタ-品の、試し履きや。星見の夜には『山頂・手前』辺りまでは、シ−ズン中
に頻繁に足を向けているので、以前よりも『雪彦山』を身近に感じるようになって来ていた。
クライマ-視線でならば。『壁・岩』側の風景や、見える範囲のル−トにしか興味が湧かなかったのが、意外と身近に住むと周囲の自然環境や、記録や記事には出ていない様な隠れた、支流奥からの稜線への登路や、人の踏み込んだ痕跡の無い谷とかにも、興味が出だした。一般道も『表側』の、誰でもが見知っているコ−スよりも、少し変化のある新しく拓かれた裏側コ−スや、それらのコ−スと、繋げられる支尾根にも興味が湧いて来る。
『キャニオニング・スク−ル』で突然のキャンセル者が、出た時や余裕があるOF日に、そういった興味の対象を、少しずつ歩き、探査し始めて。『雪彦山』周辺が、更に身近に感じるようになって来た。
これらの、あまり知られていないハイキング向きのコ−スの中から、最も無難な内容を持った『周遊コ−ス』の紹介は2005年の関西ヤマケイ発刊のガイド本に、簡単な紹介記事を書いておいた。 |
『雪彦山』の岩場も、以前のような『本場前の実践・練習の場』と言う、イメ−ジは薄れて来たようだ。
姫路の『小赤壁』や、加西の『古法華の岩場』が、広くクライマ-に利用されるようになり。アプロ−チの不便さ。とりわけ岩場までの歩く、距離と時間。要するに「苦労」が、他の手軽に遊べる「岩場」と比較して、各段に必要な『本格的な岩場』としての『雪彦山』は、少しずつクライミングの世界では
賑わう『岩場』とは言えなくなって来た。
1982年から87年、頃までは既存の古典ル−トをフリ−クライミング で再登。俗に(フリ-化)と呼ばれるム−ブメントが一段落して。 エイドを含むル−トを、完全にフリ−クライミングで上り切れる ラインをより、フリ-向きのル−トに再生さす為に『残置支点』を どうするか。ハンガ−ボルト類に、打ち替えるべきかの論理的 な葛藤が起こり出した時期で、『地蔵岳』がフリ-化の波を過ぎ てから、こういった問題で多くのクライマ-から『問題意識』を 持って、見られなかったのはアプロ−チの問題を含めた、位置 する環境の不便さからだった。この岩場が六甲山・近辺の岩場 ならば『不動岩』と、同じ様な経緯で残置支点・類の打ち替えは 急速に進み。 ル−トの細分化と、新しいラインの開拓も同時進行で進んだろう。 |
長年、『雪彦山』で楽しませて貰っている私から見ると「関西範囲」
のクライミングの発展・期間から、この「岩場」は存在する規模や
内容から考えれば、明らかに不遇な『山であり。岩場』だろう。
ある日、突然に変化が始まった。『雪彦山・地蔵岳』記憶に残っていた『既存ル−トでのフリ-化ラインの再生』再評価での残置支点・類の全面的な打ち替え。実施者からの提言『雪彦山ルネッサンス』 |
講習で、訪れていて登り始めて変化に、すぐに気が付いた。特に各ピッチのアンカ-・システムは、これまでの既存ル−トに残されていた支点類が、他のエリアの岩場と比較しても、かなり古くて悪い部類だっただけに真新しいハンガ-・ボルトの安心感は凄いの一言。以前に、溶接リングが取り付けられた、ボルト類が平然と残置されていた箇所にも、この新しい設置物に打ち替えられていて、少しばかり感慨深いものを感じた。
完備された『ボルト類』の中には、電動ドリル使用時の穴開け作業で残される、掘削特有の岩粉が、飛散せずに、岩面に筋として、残っている状態だったので、つい先程・整備・設置作業が行なわれたのだと見えた。支点の整備に関しては、個人的に不満を感じる現状ではなかったが、岩場自体の危険箇所、例えば剥離・箇所や将来『落石』の危険として考えられる箇所に関しては、かなり整備としては怪しいと感じた。
2003年の秋『残置支点』が整備されていた |
講習を終えて下山。
それから二日後に今度は、一人で『正面壁』
に向って。山頂部から下降しての別ル−トも確認。
丁度、山頂からラッペルで下降していると2P目から、3P目に登り始めていた。講習中の京都から来ていたアバンティの森中氏パ−ティ-と壁の中で、出合った。彼らも、新しく支点が整備された『ル−ト』を登って来ている最中だった。
その日。確認作業を終えて、「地蔵岳・山頂」から一般道を下っている時に、鎖場の下辺りで私とは逆に「山頂」に向って登って来る方と出会い。ロ−プ持参の雰囲気を見て、お互いに声を掛け合って立ち話で、彼らが最近『雪彦山・地蔵岳・正面壁』での既存ラインのフリ−ル−トの整備と、残置支点の整備、打ち替え作業を行なっているグル−プ・メンバ-の、お一人だと聞かされる。
その時は「それでは、又、新しい情報でもお送りします」と、社交辞令でしょうが約束して、別れて私は下山。その後、待っていた『情報』は、やはり・・届いていないが、ネット情報の中で彼らの活動を詳しく、見る事が出来た。『雪彦山ルネッサンス』と称されていた。
支点の整備は、大抵の『岩場』では利用者・クライマ-の多くからは歓迎される。それは、フリ−クライミングの安全性と快適性の向上に貢献するからで。以前の様に『ボルト』問題としての、論理性や基準を誰も、問題としないし。フリ-のル−トならば、確実性『安全性・強度』に優れた、設置物が歓迎される風潮が一般的な感覚として通用しているからだ。そういった意味で、この整備状況や設置後の『報告』を、彼らが公的には公表しないのは、不思議に思う人達も、いそうだが。私には、ある意味で抑えている『報告』に、世代的なのだろうが『本場前・本場志向』の一つの、代表的な『岩場への歴史的な敬意』を感じて、好感が持てる。
支点の打ち足しや、打ち替えを行わない。初期の既存ル−トでの『フリ−化クライミング』記録・写真 |
フリ−クライミングの浸透度や波及が、徐々に関西範囲の
岩場でも本格的に、実際のル−ト上での活動として、活発化
が始まり出した頃。
当時は既存のエイド・クライミングが主体のル−トを中心として
人工登攀(エイド・ル−ト)を集中的に「フリ-で登る」=俗に
「フリ-化」が、一つのクライミング・スタイルとして注目され。
かつ、一つの目標として様々な活動が、日本全国で活発に
行われていた時期に、この『雪彦山』地蔵岳・正面壁も記録的
な『フリ-化』は、達成された。
『フリ-化クライミング』で、当時としては最も記録的に見て
価値が゜あったのは大阪のフリ−フライトの石原君や、地域
としては少し離れた京都の若手クライマ−達に、私と大阪の
若手メンバ-が、地元の小さな岩場での経験から自信と力を
付けけ初めて『雪彦山』の『課題』にも、取り組み始めた時期
で。情報範囲で関東や中京方面のクライマ-の中にも
ゲレンデ離れした「スケ−ル」との評価を受けて、興味を持って
活動に加わろうと考えていた若手のクライマ-も少数だが存在
していた。
79年から87年、頃には関東範囲に住む私の、若い仲間や
友人達が、九州の岩場や三重県・関西の、ボルダリングを楽し
みに休暇を利用してツア-形式で、廻って来る事が頻繁になり。
夏の穂高岳や、秋の奥秩父の岩場やキャンプ・サイトで再会するだけでなく。私の地元、神戸や西宮市で会える楽しみも増え出した。
特に、私が住んでいる西宮市の『北山公園でのボルダリング』は、当時は場が多くなかった事から地域交流・クライマ-関係での、人の輪が広がるのに恰好の場所としても便利なエリアだった。『無名山塾』を始める前の岩崎氏が、関東で精力的に活動するクライマ-を引き連れて、私の自宅に泊まってのクライミングを楽しみに来たり、穂高で私のテントに居候していた、若手が海外クライミングや小川山での、力量と経験を飛躍的に向上させて、遊びに来る様になった頃だが、『知名度』が、まだ低かった『雪彦山』には、実際・付き合ってくれる訪問者は少なかった。
多分。この頃からクライマ-が歩く、距離と岩場ル−トの質的な比較。そして、内容と労力を厳密ではないにしろ、考え出してアプロ−チの楽なル−トやボルダ-が選択肢の第一項として、日常的なクライミングで表面化し出した頃なのだろう。
情報として『雪彦山・地蔵岳・周辺』の既存ル−トの中でも、フリ−クライミングの要素が見出せ 『課題』として、残っていた部分は、徐々に解決され出したが、正面壁は、その位置する環境が良いにも、かかわらず残された『課題』の最も大きく、対象として見れば価値も高いものが多かった。A0利用で、積極的に登られていたル−トが、まず゜最初に完全フリ−化されて。残る『課題の解決』は、早い者・勝ち状態だったので機会は逃せなかったのが実情。数時間の遅れで登山道から私達を見上げていたクライマ−3人も、顔見知りの頃だ。 |
『写真』 78年から84年・当時の『雪彦山・地蔵岳・正面壁』 でのフリ-化・クライミング時の写真・記録。 リ−ド前のル−トのラッペル確認や残置支点・以外の 打ち足しは一切無く。使えたチヨック類も、かなり限定された危険率も高い状況に耐えて。 トップ・ロ−プ使用での、リハ−サルは、おろかハング・ドックの言葉さえ、知らなかった頃のクライミングでした。 |
この頃でも「ここにボルトを打てば」登れる。
そう感じたり、打ちたいと望んだ箇所は数限りないが
ル−トとしての、既存ラインの変更やエイド・ピッチとして
の存在を否定してまで、自分達の意思を押し通そうとは
考えも、しなかった。
既存ル−トのフリ-化が、一時期のフリ−クライミングの技術や課題解決の為に、クライマ-に与えたモチベ−ションは、当然ながら次ぎのステップとして『開拓』でのル−トの創造に進んだ。そういった意味で一時期『活発』に達成された、フリ--化されたエイド・ル−トや一部にエイドの部分を含んだ『過去のル−ト』をフリ-のみのル−トに変更さすのには、正当性が、あるのか、どうか?フリ−クライミング中心に進展した現代のクライミング環境の中では、無意味な考え方かも知れないが、異なる意識や理想を持ったクライマ-が、共同で使用する「場所」として、残っている岩場では再考の余地は残っていそうだ。そういった意味では『地蔵岳・正面・壁』で、進められている残置支点の打ち替えは、節度ある範囲で行われていると見るべきだろう。思い込みが激しいのがクライマ-気質でもあるので、支点類の整備や、新しく設置する支点やアンカ-類のボルトの位置や本数にも、当事者たちは苦心している筈だ。新しく『打ち足す行為』に関して、考えれば『善意の循環』と見る好意的な意見もあれば。逆の視線から見れば、かなり勝手な行為とも受け取られかねない。 |
私の個人的な感想だが。『正面壁』でのプロテクションの新たな、整備・設置に関しては歓迎される行為だと思う。終了点や各ピッチのビレ−ポィントも含めて、使用されている『ボルト類』の品質や強度にも、工夫や努力を見られる。通常、設置後のボルトの確実性を確認する、手段・方法は無いので視認でしか判断は出来ないが、ハンガ-締め。角度も適正だと思われるし、特別・何か不備、不適切だと感じる部分は無い。 そういった意味で、一つの歴史ある『壁』で行われた整備作業とル−トの製作を、一般的ならば雑誌類の記事や記録に公表するのが、慣例でもあり普通。そういった事を行わない理由とは・・・・ 何かと、摩擦や問題が生じていて。面倒な事に敢えて・・・・・だろうか。 当事者たちのHPを見る限りは、そういった危惧は感じられないのだが、これも致し方ない。 整備、残置ボルト類の、間引き回収も行われている現在。考え方やスタイルの違いを、行動で表す人達と無用な摩擦を、起こさない方法としては『記録・行動の報告』を、控えるのも仕方の無い事だ。 |
2006/04/03 (月) 8:25:14