震災・以前の崩落・崩壊で失われた『真珠岩・仁川渓谷』 |
阪急電鉄・沿線の『岩場』として、交通が便利だった為、大坂・範囲のクライマ−の利用者が多いゲレンデだったが本格的な『フリ−クライミング』発展期から、ル−ト内容や各・岩場への移動が渓谷内を歩かなければ、ならない不便さから徐々に訪ねて来るクライマ−は少なくなり。メイン・ル−ト、当時の快適なクラック・ル−トが存在していた『真珠岩=パ−ル』の大規模な崩落・崩壊によりクラックも消失して、往時の面影も他の岩場と比べてもクライマ−の少ない『岩場』と、なって来た。 |
当時は『不動』や『堡塁岩』にしかジャミング・テクニック を駆使して楽しめる『クラック・ル−ト』が六甲山・範囲の 岩場には殆ど、なかったので私のホ−ム・ゲレンデの一つ でもあった、この「岩場」にも楽しく登れるクラックのラインを 作りたいと、下部のフェ−スから「クの字ル−ト」の左側の 岩版フェ−スに走っていた不規則な割れ目を掘り起こし 整備に手間をかけて開拓したル−ト。 上部で2本に別れ。 NJ「ナックル・ジャム」ル−トと呼ばれて、一時期は大変な 人気ル−トで、休日は混雑するほどだった。 |
この「ル−ト」が、ある日に突然・消失した。大規模な岩場の崩落で「クの字ル−ト」を含めて『真珠岩』の左壁は完全にクライミング対象から消えてしまった。不幸中の幸いと言えるのは、クライマ−を含めて、人的な被害が無かった事。 |
今はもう、忘れられた『岩場』の一つですがRCC時代からの歴史を想えば、記録的な価値は忘れられない『六甲山の岩場・ル−ト』の一つとして記録は残しておきたい。 『真珠岩』の名称に関しては、諸説ある中で天保年間の恋人達の「心中」記録や、伝説的なそれに類する「伝承・話し」から『心中=しんじゅ=真珠』=『英語のパ−ル』と転移が、もっとも信憑性のある説だと考えられる。 いかにも『大正モダニズム」の影響を受け、当時の先端的な遊びに傾倒していた 『RCC』メンバ−の命名だと私には感じられた。 呼び名の使い方で、世代層が判断できるのも面白いが今・現在は、この岩場を利用しているクライマ−は少ない。ただし、フリ−クライミングのル−トが残っていない訳ではなく、実はフェ−スの面白い課題が楽しめる『岩』で、エイド・クライミングの練習ル−トも存在している。 取り付き付近が崩落後に、かなり荒れてしまい草も生え放題。整備は誰も、行わないので再生されるのは、いつになるか。 右壁にも、危険箇所が見られるので『注意が必要』 |
ガリビェ−ルの「コンタクト・クィ−ル」とかのクライミング・シュ−ズを履いていた頃です。 |
70年〜80年代の前半に『長靴オジサン』こと大瀬さん が元気にに登りに来ていた「岩場」です。 95年に偶然、上部の古墳付近の住宅地で再会。 |
2006/03/29 (水) 18:26:58
二度目の大きな岩盤の崩落があり、正面・右上部 も危険が予測される。下部壁は土砂を除けば草付は 無くなり、すっきりするだろうが清掃・整備の手を加える クライマ−は、いない。 |
『真珠・パ−ル壁』上部の丘陵部は、現在では宅地開発の波に覆われて、完全に新興住宅街へと変貌しているので、以前の様に車道から気楽に『壁上』にアプロ−チする事は、不可能な状況 『摩天楼』の岩場も、同様で岩場上へ入る為に他人の住宅地を通る事は、許されない。過去に数件、常識の欠如したクライマ−による立ち入りで警察・通報となる『事件』も発生しているので自制して欲しい。 誰がとは言わないが(知っているが)仁川渓谷の各・岩場に安価な工業ボルトや自作のスチ−ル・ハンガ・プレ−トを安易に設置している方がいて、これも目立たない『岩場』なので問題ではある。 チッピングに関しては、最も初期から被害を受けていた岩場なので、痕跡が多くて制止する現実的な方法は見出せないでいる。この岩場は(某・大学)校区から、あまりにも近く、山岳部・WV部・同好会などのクライミング練習場所として長年に渡り使用されているので、平日にも若いクライマ−・クライミングの基礎を練習する者を見る岩場ではある。 アンカ−には、最近・私がケミカル・ボルトを打ち変え出した。壁の清掃・草付の撤去、掃除に関しては数年間・放置しているのが現状。 |
2006/04/07 (金) 8:58:09
『岳人 1983年6月号・No432』 記録速報 |
1960年代から、70年代の中盤までの『六甲山・周辺の岩場』では、全く異なる意識・意欲でクライミングを行っている、大きく分けて二つの『シャンル・スタイル層』の人達が、本人達の理解とは別に少しずつ互いのクライミング・スタイルが違うものだと意識し始めていた。それは、これまでの社会人・山岳会と大学・山岳部といった世代間や、社会的な立場での区分や、違いとは違って『クライミング』に向ける眼差し、視線や求め、夢見る方向の違いだった事を事を当事者・本人達も厳密には、まだ充分には理解していなかった。 一般的には『アメリカ・カリフォルニアのヨセミテ』を震源地とするクライミングの新しい、流れ『ニュ−・ウェ−プ』文字通りの、変革の為の、大きな波は雑誌以外の情報としては、ごく僅かな人数のクライマ−にしか直接には、影響を与えていた訳ではなかった。 フアッション・フリ−を『ハ−ド・フリ−』と言い換えて、腰にチョ−ク・バックをぶら下げて、クレッタや運動靴からEBシュ−ズや類似品のフラット・ソ−ル・シュ−ズに履き替えても、絶対多数のクライマ−には用具を変えた先に求める『理想や夢』が、アルプス3大・北壁』や、いつかは自分でも手の届くと思える海外登山で計画している『予定ル−ト』に、変えれる、自信や信念を持っていた訳では無さそうだった。 小学校から、右向け右には逆らえない。集団的な教育から延長された経済・最優先、人と違うこと。 人とは違える才能を否定して生きる術しか、大切とは思えない『教育・指導』の中から、クライミングだけは別世界、違った自由な自分自身だけのクライミングを選べるほどに、強く成長していた人は少ない。 |
ある意味で、過去からの『指針』を失った人達は、用具の変革に論理的な批判で対抗しようとしたり、プロイス時代の懐古趣味や他ジャンル・スポ−ツ倫理やモラルを振りかざしては、変革の急先鋒の若い世代のクライマ−の意見を攻撃したりもしていたが、スポ−ツならば当然・賞賛・優遇される新しい 『記録』への評価は妥当なものでは無かった。それは特に初期のフリ−クライミングとボルダリングに向けられる視線が否定的だった事からも、今ならばよく分かる。 |
排他的で、保守的な『登山・クライミング意識』を保とうと、努力していた当時の「大阪・京都」勢?の世代は、押しなべて学業を終えて社会に出た人達で、まだクライミング経験も実際の社会生活にも、体験が浅く新進・新しい事には興味が移りやすい若年層に、地域間の大きな隔たりを見る事は少なかった。しかし、当時の世相を考えれば、保守的だと判断出来る『世代・層』は、それ程に年齢的な格差があった訳ではなくて、多分に所属組織の中での、無意識か意識的か、それは判り難いが当然『制約』は大きく、受けていたのだろう。 そういった時代背景や意識の変革時期に『神戸のクライマ−』は、良い意味で自主独立。そして同人システムや少人数グル−プでの、クライミング活動の諸端を担っていた地域・特性があって、そういった組織偏重・集団登山形式の中での、クライミングの枠から、抜け出せたのは、やはり身近にクライミングそのもの、実践・実験場『六甲山の岩場』が、存在していたからだと私には、思える。 |
『真珠岩』には、私がクラック・ラインを人工的な手段で開拓・作成した『2本のクラック・ル−ト』が、誕生するまで自然の節理、岩の形状を充分に利用した斜度・難度、共に当時のクライミング・レベルから考えて充分にフリ−クライミングの実践が、可能な既存ル−トが存在していて、一般的には下部を除き中間から出口まで多くのクライマ−は何ら、躊躇も後悔の念も無く、単純に壁に残された残置ピトンにカラビナを、かけてA0行為でのクライミングで、このル−トを攻略したと思い込んでいた。 しかし、1960年代には過去の『神話・伝説』は六甲山・各地のRCC開拓、初登と言われる岩場やル−トに僅かながらも、残されていて『痕跡・記憶』を知り、歴史の囁きを身近に手繰り寄せる事は、幾つかは可能な時代の最後の期間でもあった。 |
通称『逆くの字ル−ト』は、当時この『仁川渓谷の岩場』を訪れるクライマ−が最も、注目を集め。そして登攀対象・目標として最優先『課題』の1本として、誰にでも良く知られ、かつ実際に取り付いているクライマ−が、最も多いと言われる「渓谷の岩場」を代表し、顔とでも呼べる著名なル−トの一つだった。 |
六甲山の岩場『仁川渓谷・真珠岩/パ−ル壁』 |
昭和初期に設定された『エイド・ル−ト』の完全フリ−化。後にクラックを整備して新ル−トとして整備後に、残置支点を無視してのチヨック・プロテクションでの、フリ−クライミングも完成。 |
2004年の豪雨で、壁中の泥や浮いたフレ−ク状の塊岩が落下して、清掃作業やラインの設定が比較的、安全に行えるようになり、僅かながらクライマ−が手を触れる岩場に戻って来たようだ。
Tuesday, 14 July, 2009(最近の真珠岩)壁下から撮影
数年ぶりに、下流から上がりながら、この岩場・直下の渓内の清掃作業を行ないました。Tuesday, 14 July, 2009 |