穂高岳・涸沢のボルダリング

涸沢の、テントから走り下り始めて、身体が完全に温まり。今は使われる事も無くなった、右岩壁・下から中央壁に巻き上がる、ガレタ斜面を登り切って1ルンゼの取り付きで、少しのどを潤してから。一気にルンゼからチムニ−に入り、稜線までのクライミングを一人、駆け登って。自分のテントに帰り付くまでに、出会ったのは・中段の細いチムニ−状・壁から被った、核心部を突破して少し、周囲を見渡せる余裕が出来て、右下の東壁・雲稜ル−ト登攀中のクライマ−が、旧知の仲の『奥穂高岳・山荘』に、当時は努めていたアオベイと仲間

その、二人に大声で声を、かけて。
屏風の頭から、駆け下って。再び
コルから、涸沢ヒユッテの裏の階段を上がって、出合った小屋の女の子
そして、何時もの様に『常駐隊・本部』の、前での挨拶。証人は3人〜4人

居候達には、本格的なクライミングが判る、連中は・あまりいない。『屏風岩1ルンゼ・完全フリ−・ソロ』最短、記録を保持していた頃だ。同じパタ−ンで、このクライミングは何度か行った。絶対に、落ちない自信が、あった。記録の更新にも、意欲があったし、心肺機能の最大限のトレ−ニングだとも考えていた。ボルダリングは、そのクライミングの高揚感を、持って余裕のトレ−ニングだが、それを見ている、関係の無いクライマ−達からは、何を好んで穂高まで上がって来て、この涸沢カ−ルで、小さな岩に真面目に取り組んでいるのか?あからさまな視線と、失礼な質問。馬鹿な愚問・貴方達が北穂で登って来て、涸沢に帰って来る3時間も前から、私は屏風を駆け登り、それから、この『課題』に、取り組んでるよ。・と・そう言いたかった事が何度もあった。

『ボルダリング』しか、やっていない様に見えていたのは。それだけ、ボルダリングの行為に集中している時には、真剣だったと言うことだろう。
見物の、他のクライマ−達の、話題や会話が登攀して来た稜線・付近の古典ル−トの内容の、事だった頃に、私達のボルダリングの「困難な・課題に関する」話題や、話しにはクラシックは含まれていなかった。未来に、関するクライミングにしか興味は無かったから。
登山靴での、クライミングから運動靴の利用期間を経て
クライミング・シュ−ズでの、クライミングまで、全ての期間
を経験しながら「穂高の岩場」を登り、続けている。

ナゲ−ルやトリコニ−。地下足袋でのクライミングこそ、私は
知らないが。先達・先輩達が抱いていた『憧れや夢』には、私
はシンパシィ−を感じている。

『ボルダラ−』と、称される事は、私には心外。
クライマ−と、呼ばれるよりも『山屋』と、称される感覚の方が
より、私の感性には好ましい。
あの、当時に私のボルダリングを軽蔑?軽視の視線で眺め
チョ−クやフラット・ソ−ル・シュ−ズを本物の岩場では役立た
ない。邪道・扱いしていた人達は、今もクライミングを続けている
のだろうか。?

スポッタ−は、おろか。まず、『ボルダリング』その、行為を示す言葉・自体が、まだ広くは知られ。使われる時代に入ってはいなかった。ボルダリング環境としては、クライマ−に優しい「自然」では、決して無い。ボルダ−の下地は当時は整地と言う考え方も無く、危険と呼ばれる範囲のものだ。後ろで、最悪の状況から、救ってくれる仲間は、初期には誰一人いず。小さなミスが致命的なクライミングでもあった。無論・ボルダ−・マット等・存在も無かった。気楽に、車に乗って・降りて簡単に通える「場所」ではない。
濡らした。チョ−クの補充には早くて一ケ月。破れたシュ−ズの替えは下山しなければ適わない環境下だ
乏しさ、耐乏・耐えるクライミングは本質を際立たせてくれる。真剣さ・真摯・情熱が『課題の克服』を、含めた全ての障害を突破する。『夢が゜適う』過程を、最も充実・充足して体験出来た「場」でも、あった。
最初は、誰一人・一緒に課題に、取り組む者は、いない。人とは違う行為に没頭し。視線を跳ね返せる情熱は若さの特権だ。最初・一人で取り組み始めた『小さな挑戦』は、数年後には大勢の若い仲間とのセッションに変わり出した。

涸沢のボルダ−を自分の中で
見つめた。最初に体験した『フリ−・クライミング』での経験を重ね合わせていた。


ハリソン・ロック(世界的)に見てもクライマ−が、所有し管理する『岩場』厳しい、論理感で守られた純粋なフリ−・クライミングのプレイ・ク゜ラウンド。同じ、経験が、ここでも可能なのでは、夢は膨らむ。

1974年・冬の英国にて

ボルトの使用など、この岩場では考えられない。
世界的に見て『クライマ−が組織として』岩場を所有し、管理しているのは珍しい。トポには、細かく、使用規定が記載されていた。

穂高『涸沢』に、入る前から。地元・神戸でならば堡塁岩のクラックの課題や、北山公園のボルダリングよりも、以前に私は最も、純粋系のフリ−クライミングを体験して、知っていた。

『チョ−ク=炭酸マグネシウム』この、白い粉を、使い始めたのは早かったが。必需品とは思えなかった。
山中では、補給も適わないと言うのも理由だったが、、無くても、それが支障を及ぼさない。そう言った意思は持ち合わせていた。無ければ、課題に取り組めない等と、軟弱に考える仲間も、存在しなかったし。

服装もに関しても、丈夫が゜一番な
環境だったので、私は専らジ−ンズ
に、古びたジャ−ジ−・パンツぐらいしか
ボルダリングで使っていない。
EBシュ−ズも、履かなければ、裸足でも
課題に取り組むのに支障も、感じなかった。
広瀬氏は、毎回スリッパで課題に取り組む
し。周囲で見ている若い仲間達は、

私と、広瀬氏の、ある種バンカラ風のボルダリング・スタイルに感化。影響を受けて、登れる腕が、価値基準。格好は比較的、どうでも良く。敢えて、貧乏で。周囲から見て、クライマ−らしくない格好で、より格好良く洗練されたクライミングを、まともな格好のクライマ−・達に、見せ付けられるか。

北尾根や北穂高・滝谷での、本格派クライミングを終えて、自信満々のクライマ−達が、集まる夕べになると、私の若い仲間達は、ひるね岩・辺りに出て行く。しばらく、時間を於いてから、私や広瀬氏もシュ−ズを片手にボルダ−に向うのが、日課だった。一般のクライマ−や、キャンプ場に泊まっている登山者が、ワイワイとボルダ−の周囲で、ああでもない、こうでもない・そんな風に『課題』を論評している最中に、私達二人は、数分のうちに幾つかの『課題』を解決しては、地面に戻り。再び、次ぎの『課題』へ、取り付く。

『穂高の課題から』進む、過程の中に。他地域でのクライミング体験が加わる。
長野県「穂高・涸沢」が、生活場所だったので春から秋までの、期間の中で関西にも、帰る時間はあり。同じ様に、関東・方面に出る機会にも恵まれていた。

早朝、涸沢のテントから抜け出て、北穂高・南稜を駆け登り。
半日程度の時間で、稜線を走り。黒部五郎「小屋」に、常駐隊の
猿田氏から、預かった『蕎麦と日本酒』を、届けに行く様な常識外れの
稜線・走破が別に、記録とも考えていなかった時代と、風潮の頃だ。

敢えて、心肺能力のトレ−ニング等と、声だかに叫ばなくても。
それぞれの、仲間達には、様々な逸話や話題を持っている頃だ。

『穂高岳の岩場
数年後には、関東の若いボルダリング仲間や、私のテントに居候で数シ−ズン連続で涸沢のボルダ-で一緒に課題に取り組んでいた連中が、ヨセミテでの体験を土産に、再び土産『歩荷・ボッカ』で、遊びに上がって来てくれ益々、ボルダリングが楽しく・なって来た。話題の中で、私が最も興味を引かれたのはキャンプ4のブリッドウェル記記念・体育館と呼ばれる、キャンプ場の自然環境のを利用した、クライミングのトレ−ニング・システム。早速拾って来た鉄棒に石を、針金で固定したバ−ベルを作ったのは、言うまでもない事だ。アプロ−チは岩稜ル−トか、限りなく危ないダッシュ。お互いの意地と根性の、張り合いで走った。本番ル−トは、どんなに天候が悪くても敗退は恥の二文字。キャンプ地にフラフラに、なって帰って来てもボルダ-の岩肌さえ乾いていれば、必ず取り付く。

広瀬氏は『槍穂高・縦走』を、ビ−チ・サンダル履き、で平気で歩き
通したり。私は、本気で剣から、西穂高までを1日で走れると吹聴
している様な「馬鹿・話」が、日常的な話題だったから。

涸沢カ−ル内のボルダ−は俗に『ティラス・ランニング』と呼ばれる瞬発能力とビジョン・トレ−ニングに適した「遊び」を楽しむのに適していた。付き合ってくれる仲間は、いなかったが・・・
降雨後でも乾きは抜群に良い岩質なので
停滞日の数時間を無駄にせず「ボルダリング」
を楽しむ事が出来た。
『EBシユ−ズ』が珍しがられた頃。
神戸「三宮」高架下の安売り運動靴が標準装備
奥鐘も屏風も、この運動靴の、お世話になっていた。
『岳人・1985年9月号』に依頼・執筆
現在の水準ならば、別に特筆すべきグレ−ドとは言えないが、失敗は致命的な怪我を負うのが、確実な場所なので最終下山する頃までに私を含めて2名しか、登る者は、いなかった。
2006/06/27 (火) 12:41:57
山と人、岩場やル−トとの出逢いも含めて『感動を込めての相性や続く夢』と言う、感覚的な関係は私には大切で他者には理解し難い、想い入れ、自然環境と共に出逢った人々との『歴史』も貴重だ。
1975年、この頃に『穂高岳』の様に、アプロ−チに長時間の労力が必要で自然環境にも厳しい場所で本格的な『フリ−クライミングの実践』や『ボルダリングの課題』に挑戦する、意味や意識に理解を示してくれる、実際に価値を見出し、取り組むクライマ−の人数は少なく、穂高岳『涸沢のボルダリング』に真剣に取り組んでいた仲間は、正真正銘の『少数派』

滝谷へ、そして北尾根を超えて四峰へ向う。横尾から屏風岩を越えて、涸沢に降りて来る多くのクライマ−
達の視線の多くは、明らかに嘲笑的であり、大きな岩場、長いピッチに多くの用具を駆使するクライミングの世界で『何を?』と、いった『懐疑的』かつ、自分達のクライミングの方が絶対的に優位・価値のある行為と信じたい気持ちが、視線に表れていた。
『クライミングの質的な内容』が、自己満足だけの世界から、徐々に変化し出した一種の『意識変化の転換期』を、迎えて迷うクライマ−が増加して一定の、価値基準が『山の岩場』にも流れ込み出した頃だ。
『岩場がクライマ−を鍛え、育てる』恵まれたクライミング環境と言う場所が、どこにでも存在している訳では無かった私達の世代では、全ての条件を満たす場所に出会える事は、本当に幸運な事だった。

当時の私には、この『3000mの稜線に取り囲まれた、穂高岳・涸沢』の世界は、アルパィンの風の中、生活ベ−スのテントから、徒歩・数分で手を触れられるボルダ−・エリアの存在する『場』は、最高部類のトレ−ニング環境だった。

クライマ−としてもだが、単なる山好き、山々への強い憧れと夢を抱き始めた者にも、この場の環境は素晴らしく、プロガイド志願者、この世界に深入りしようとしていた者にも、修業の過程で当時は、この『場所・以上の環境』は考えられなかった。
故・長谷川氏からの紹介で『穂高岳の岩場・主に屏風岩』の特集でのル−ト・ガイドの執筆を依頼された企画を、私ごときがと丁重に、お断りして長谷川氏から、もっと積極的に記録や記事の執筆に挑戦しろと『檄』を頂戴してから・・・少しは、恥をかきながら『文を書く』事も覚え出した。

『岳人』への紹介は、岩崎氏からの御好意で、今回は無理を重ねて年間の連載も耐えた。しかし、基本的に文才に恵まれていない私は、他の依頼を簡単に受けるような事は無かった。

『穂高岳の岩場』で、項目別のガイド内容で『涸沢のボルダリング』を執筆・担当するに辺り、エリア・ガイドの範疇で、あまり詳しくボルダ−の課題の発見する『楽しみ方』や、課題の解決と言う部分で最も楽しめる部分の邪魔をしたくなかった。

そういった私の意識を、書評者は良く理解してくれたようだ。そして、本の編集・製作者にも、その辺りの理解と了解が得られていて、このタイプの『岩場ガイド本』としては、始めてのボルダリンググ・エリア紹介は意外と読者にも好評だったらしい。

この『ガイド・ブック』を片手に、ボルダ−に取り組むクライマ−を見ながら、初期の課題の解決時の記憶を楽しく、想い出している。
ド−ム型テントの普及前。まだ『涸沢』のキャンプ地では『三角形の家型テント』が多かった頃
『記念撮影』古い『写真の中に写ている仲間達』最近2007年の年末にクライミング講習中に不慮の事故で亡くなった『中山茂樹・君』も、いつもの夏には毎回顔が見えている。今は故・長谷川氏を含めて4人も再会できない・・・・・・