一風・変った貧乏クライミング体験から、「ライム・スト−・クライミング」
広がる『クライミング・ワ−ルド』と『夢』の、続きへ。

槍ヶ岳から、西穂高岳までの縦走が高校生のレベルで、どの程度の登山なのか、まだ充分には理解していないのに若い時は、計算せずに行動が先走る。今から、思えば何故?縦走なのに風景や高山・特有の景観の記憶よりも、屏風岩やガスの中から見え隠れする、滝谷を攀るクライマ−に興味は集中していた。
いつか、あの『壁』に、立向かえるのだろうかと・本気で考えていたものだ。

クライミングに履いていたのは、拾って来た地下足袋に
安物の運動靴が1足。取り敢えず小学校からキャンプ用具を詰め込むのに使っている綿布のキスリング・ザックに角パイプの背負子。それに、三宮のサト・ブラザ−スで投売り・で売っていたザックより大きい、軍用シュラフに雲母板のランタンとか、ガラクタ類の飯盒。

生まれて、初めての「穂高・山行」は・これらの用具に、まともな衣類や缶詰を買い足して挑んだ。あっという間の山行を終えて、下界に降りて・ほんの少し残った食料を頼りに、南アルプスに向った。地図も、持っていないのに・・・・干芋や乾パンを、齧りながら、よく歩いた。

帰宅して、残りの休みの殆どをアルバイトに費やしながら・六甲山の岩場に、夜も通った。

夏の休みが、終わっていても稼ぎの良かった不法・労働に出向いて。少しばかりの用具を買い揃えられた『穂高』も『南アルプス』も、まだ遠く感じていた。翌年の「春」には、何とか雪山・装備を揃えられて『槍ヶ岳・北鎌尾根』から、涸沢への山行を体験できた。今度は、下山時に残雪の残った「屏風岩」を、真下から見上げながら、必ず今度・穂高に来る時は『壁』だと、心に誓った。

【六甲山の小さな・岩場から、穂高の雪と岩へ】

担荷力。歩荷には絶対的な自信を持っていた。小学校4年から、当時の軍隊式?システムのBS活動の、キャンプでの、背負う荷物の重さと。当時の活動を主導・指導していた大学WV部タイプの古い意識リ−ドで、鍛えられたのと土・日曜日のアルバイトはゴルフ場での「キャデイ仕事」だったので、背負える重量に関しては、その辺りの大人達には、若さも加わって負ける気がしなかった。槍沢の登りでは、疲労した友人のザックを、私が自分の背負子に重ねて、更に途中で疲れていた女性、登山者の分まで背負って上げた、ほどだから。
高校生・時代に残雪期の穂高での本格的な「アルパィン・クライミング」を、体験できたのは幸運。
この時に、目にした稜線からの雲海や星空、雪稜から凍結した壁からの山頂へのクライミング体験は生涯、忘れ得ぬ記憶と想い出。雪と岩の世界への、憧れは本や雑誌から、学び覚えたものではない。
『THINING MOUNTAIN』

6級・A3が、まるで一種の呪文の様に頭の中で、駆け巡る高校生活の想い出の中で『黒部・丸山の東壁』から剣の真砂でのキャンプ生活で一夏が過ぎた「夏休み」これが、クライマ−としての私の『六甲山』からスタ−トして最初の本格的なクライミング体験だった。一人での、クライミングに周囲の反対は予想されていたので、大坂店の店長「貫野氏」以外には計画は誰にも話さなかった。

『カメラ』等の高価な用具を持てる様になったのは、、海外に出た時でフイルムも購入するのは金銭的に困難だったので,中学時代のクライミングや雪山の記録『写真』は少ない。その上、あの避難生活の間に、風雨に曝された室内に散乱した貴重な、スライドやネガ類は修復も困難なほどに傷んでしまった。
16歳の、生まれて初めての北アルプスでの本格的な単独クライミングは、恐怖や疲労を殆ど、感じなかった。恐さを、知るだけの経験や知識に乏しかったと言えるのだと、今ならば思う。黒部『丸山の東壁・緑ル−ト』から八峰の各・主要ル−ト。そして『チンネ』での快適なクライミング。魅力に,引き込まれた。
『六甲山の岩場・仁川渓谷』当時もクライマ−の姿を見る事は少なかった『バットレス』の課題に挑戦